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「……ごめん。俺もあのとき、最後だって思ってた。だから無責任な約束して、きみを縛りつけたくなかった」
「違う、――や、そうなんかもしれんけど、違う。……あたしが羨ましかったんは、約束してもらったことじゃなくて」

 奏の手が、ナガトのシャツの背中に皺を作った。

「…………また会えるって信じられたことが、羨ましかった」

 たとえそれがどんなにか難しいことでも、諦めることなく信じ続けることができる――そのことが羨ましかった。そんな胸の内を吐露され、どうしろと言うのだろう。僅かに身体を離して覗き込んだ顔は、鼻の頭まで真っ赤に染まっている。濡れた睫毛が文字通り目と鼻の先で上下する。
 やめてほしい。そんな顔をされたら、持っているものを全部丸ごと皿の上に載せて差し出したくなる。なにもかも。奏が欲しいと言うのなら、血を吐く心臓すら胸を開けてくれてやりたくなる。
 濡れた瞳に見据えられ、すべての神経が彼女に囚われる。その唇が紡ぐ言葉が毒であろうとなんだろうと、受け入れるより他に選択肢はない。

「消してや。忘れさせて。こんな中途半端なん、もう耐えられへん。……あたしは、ほのみたいに強くない」
「――そう」

 それを君が、望むなら。
 冷えた指先がポケットを探る。上手く取り出せないのは奏と密着しているからか、それとも取り出すことを拒否しているからか分からなかった。
 なんとか取り出して、教わった通りの手順を踏んで起動する。あとは奏の眼前でスイッチを一つ押せばそれで終わりだ。たったそれだけのことなのに、手が動かない。

「……あんたはどうか、知らんけど」
「え?」
「あたしは、遠恋とか今までしたことない。挙句、プレート越えるとか訳分からん。誰にも相談できへんし、絶対しんどいの目に見えてるし、実感してる」
「うん。だから……」
「あんたは、どうなん」

 装置を握るナガトの手を上から握り、奏は睨むように見上げてきた。睫毛が揺れる。盛り上がった雫が、再びその頬を滑り落ちた。

「あたしがあんたのこと忘れても、ええの? それで平気なん? あんたも忘れんの?」

 今度こそ、本当に息が詰まった。目の前が揺れる。そんな情けない顔は見せたくなくて、装置は投げ捨てて奏を抱き締めていた。
 忘れることなんかできるはずがない。実際、そんなことできなかった。馬鹿みたいに一年半も思い続けてきた。会えるはずがないとそう思っていたのに、いつか忘れるだろうから今くらいは、と、自分に言い訳をして。

「……無理だよ。知ってるでしょ。お前に忘れられたら、俺また泣くよ」
「やったら、っ、やったら初めからそんなこと聞くな、アホ!!」
「うん、ごめん」
「もうこれ以上、わざわざしんどい思いしたくない。生きてんのか死んでんのかも分からんような相手と付き合うんとか、絶対にきつい。あたし一人じゃ耐えられへん。そんなん分かってるけど、でも、他の誰かにくれてやる気はない。……もう手放したくない」

 なんて殺し文句だ。
 心臓を射抜かれて、もうなにも考えられなくなった。またたびを与えられた猫のように身体から力が抜ける。そうだ、すっかり忘れていた。
 この子は――……。

「……なんでそんなに、男前なの」

 こちらが提示する前から分かっているリスクを呑み込んだ上で、奏はそんなことを言う。他にはやらない、手放したくない。どこのヒーローの台詞だ。呆れそうになって、また思い出した。――この子は、正真正銘のヒーローだった。
 だから敵わない。耐えられないと言ったその口で、手放したくないと言ってくる。それはこっちの台詞だ。そう言ったら、彼女はどんな顔をするのだろう。
 揺れる声を誤魔化すようにきつく抱き締めた。呼吸さえ奪ってしまえればどれほどいいだろう。抱え込んだ頭から、優しいシャンプーの香りが漂ってくる。
 この腕の中に、奏がいる。

「ねえ、奏。これから、もっとつらい思いをさせる。しんどい思いをさせる。ごめん、もう待たなくていいなんて言えない。他の人と幸せになってって、言えない。できるだけ頑張るから、俺が幸せにしてあげるから、だから少しだけ頑張って」
「……自己中の極みやな」
「そうだよ、今更気づいた? ……ねえ、奏、もう言っていいよね?」

 「なにを、」と言いかけて、奏の身体がぴくりと強張ったのを肌で感じた。どうやら皆まで言わずとも分かってくれているらしい。そのことに安心して、思わず涙が出そうだ。
 前髪を掻き分けて、額にそっとキスをする。鼻先を擦り合わせれば、逃げるように目が泳いだ。

「――好きだよ」

 言うなと言われても、言っておけばよかった。テールベルトに帰ってから、ずっとそう思っていた。やっと言葉にできた思いは、堰を切ったように溢れ出す。今まで溜め込んでいた分が次から次へと押し寄せ、我先にと声帯を震わせた。キスに混ぜて何度も告げた。そのたびに奏は身を捩る。馬鹿だね、逃がすと思ってる?
 小さな顔を両手で挟んで、額を合わせて逃げる瞳を覗き込む。黒目の中に小さくなった自分の顔が映って見えた。一瞬でも奏の中に自分が入り込んだことに、心が情けないほど歓喜の声を上げた。


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