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「好きだ、奏」
「う、うるさいっ! そんな何回も言わんでも一回で充分!」
「うそつき。一回じゃ分かってくれないくせに」
「はあ!?」
「俺がどれだけ好きか、お前絶対分かってない」

 二ヶ月前だか三ヶ月前だかの彼氏の存在に嫉妬して頭がおかしくなりそうになっているだなんて、奏はきっと分かっていない。わざわざ言うのは男の沽券に関わるから口にしないで誤魔化したけれど、件の彼氏の感覚を塗り替えるつもりで啄む唇の動きは止めなかった。
 忘れたくても忘れられないように、全部刻み込んでしまえばいい。目から、耳から、唇から、甘ったるい思いを溢れるほどに注ぎ込んで染め変えて。
 
「……ナガト」
「ん?」
「浮気したら殺す」
「……肝に銘じとく」

 キスの合間に吐かれた呪詛すら甘い。甘美な毒を飲み込めば、内側から溶かされていくのが分かった。ひくりと震えた喉元に優しく歯を立てて、食らいつきたい衝動を必死に堪えて笑う。
 ――大丈夫。
 もう、手放さない。


* * *



 新しい自分の部屋にようやく慣れてきた頃だった。部屋の中で観葉植物を育てたいからと、日当たりのいい部屋を譲ってもらったのだ。ベッドと机の他には、植物を飾る棚がある。備え付けのクローゼットの中に入りきらない服が三段ボックスに収納されていた。
 白とピンクが溢れる部屋に、緑が息づく。壁には空の写真が多くなった。彼が飛んでいる場所だと思えば、なによりも愛しかった。
 背後でドアが閉まる。アカギはなにも言わない。まるであの日に戻ったようだった。少し違うのは、押し黙っているのは穂香の方で、必死に言葉を探しているのがアカギだということだ。

「……怒ってんのか」

 結局、悩みに悩んで選んだ言葉がそれらしい。答えるかどうか迷って、背を向けたまま頷いた。胸の奥に生まれたこの感情が怒りなのか、それとも別のものなのか、穂香自身にもよく分かっていない。けれど、言葉にするなら怒りが最も近い気がした。
 首肯を受けて、アカギが溜息を吐く。どんな顔をしているのかくらい、想像がついた。眉間の皺を深くして、どうしたものかと頭を掻いているのだろう。それくらい、昨日見たかのように鮮明に覚えている。

「……アカギさんも、ナガトさんと同じこと考えてるんですか? 忘れた方がいいって、そう思ってるんですか」

 そろそろ時期の終わるスズランを見つめながら、背後のアカギに訊ねた。答えはない。ただ、呼吸が乱れる音を聞いた。それは動揺したのか、それとも違うのか、なんなのだろう。
 自分でも分かっていた。ただの遠距離恋愛じゃない。会える保証なんてどこにもない。それでもやっと再会できて、これからも会える可能性があると言われて、未来の欠片を目の前に差し出された上で「忘れた方が幸せだ」と言われた。それがどんなにかつらいか、彼らは分かっているのだろうか。
 忘れた方が幸せだというのなら、なぜわざわざ姿を見せたのだろう。陰から記憶だけを消し去ればいい。会わずにさっさとやってくれればよかった。選択肢など与えずに、一方的に、傲慢に。
 口にしてみて気づく。怒りの他に眠っていた感情は、悔しさや寂しさが入り混じったものだった。 

「教えてください。私は、あなたを忘れた方がいいんですか?」

 綺麗さっぱり忘れて、なかったことにして。そうしてしまえば、今感じているこの悲しい気持ちも消えてなくなるんだろう。なら願ったり叶ったりだ。つらいのも苦しいもの好きじゃない。切ない思いなんてしたくない。――喪失の悲しみは、もうごめんだ。

「…………お前、性格変わったか」
「変わったとしたら、アカギさんのせいです」

 間髪を入れずに切り返せば、すぐ後ろでアカギが呻いた。そうやって困ればいい。選択肢を投げてきたのはアカギだ。だから穂香も選択肢を投げた。忘れた方がいいのか、それとも否か。
 けれど、待てど暮らせど答えは返ってこない。それを残念に思うと同時に、望まぬ答えが返ってこない事実に少しだけ安堵した。

「私は、……ずっと忘れたくない、です」

 顔を見る勇気はなかった。もし迷惑そうな顔をされていたら、きっと耐えられない。甘い香りを放つスズランに、思いを託す。
 後ろで身じろぐ気配がして、少しだけ肩が跳ねた。アカギが脇を素通りしたのを見て、どことなく寂しさを覚えて妙な期待をしていた自分を恥じる。彼は机の上に置かれたスズランの鉢を指でつつき、言葉の代わりに溜息を吐いた。他の植物はすべて棚に飾ってあるけれど、スズランだけは机の上に飾っている。
 この花が彼らの胸元に咲いていたことを知っているからだ。

「忘れた方が、お前のためだ」

 電気もつけずにいた自分の判断を、このときばかりは拍手喝采して褒めたくなった。驚くほどの速さで涙が滲み、溢れる。指先が氷のように冷えていくのが分かった。――ああ、神様。それがどんなものだかよくも知らないで、神に祈る。「ひどい」非難する声が自然と漏れた。


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