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* * *
まるで地獄だった。
佐原孝雄が自殺してから二週間が経ったが、これほど苦しい二週間は人生で味わったことがなかった。
父はすぐに無関係とされたが、マスコミは案の定、おもしろおかしく報道した。なんらかの関係があるのでは――そんな報道がされる度、家の周りを何台も車が囲み、好奇と嫌悪がない交ぜになった近所の目にさらされ続けた。
胃の奥がぐるぐると渦巻いている。佐原の母親が赤坂家に乗り込み、「孝雄を返せ! 人殺し!」と叫んだ場面が何度も脳内で繰り返され、夜中に飛び起きて吐いたことも一度や二度ではない。
――大丈夫やから。堂々と生きとったらええねん。
恥じることはなにもない。確かにその通りだ。けれどそう言った母は日に日にやつれ、目の下には濃い隈ができている。
無遠慮で、心を犯すような奇異の視線は、当然学校でも向けられた。穂香を見て、ひそひそと話す、人、人、人。人の顔があちらこちらで風船のように揺れ、小さな笑い声や嘲りの言葉一つ一つが頭を揺さぶる。
世界は、こんな風景だったろうか。今まで生きていたのは、こんな世界だったろうか。
気が狂いそうな毎日だ。いっそ、自分も佐原のように死んでしまおうか。
どうして自分がこんな目に遭わなければならないのか、これっぽっちも分からない。学校中、町中の人間が自分を見て陰口を叩いているような気がする。
人殺しの娘。悪魔の娘。あんな奴死んだ方がマシなのに。
女でも男でもなく、若くも老いてもいない不気味な声が、穂香を絶望に案内していく。
「ほのちゃん!」
はっとして顔を上げれば、目の前に呆れとも怒りともつかない表情で、郁が仁王立ちしていた。
「やっと気づいた! たっく、何回呼ばせる気なん? 次移動教室やで。先週、今日はビデオ見るからって先生言っとったやろ」
「え、あ……」
「ほーら、はよ準備する! 遅刻したらどうすんの!」
てきぱきと机の上に広がっていたペンやら教科書やらを片づけ、郁は穂香を無理矢理立ち上がらせた。
ガタン! 大きく鳴った椅子の音に、一瞬教室内が無音になる。
穂香は突き刺さるような視線を感じ、ひっと息を呑んだ。見られている。蔑まれている。責められている。
凍り付いた穂香の手を、夏でも冷え性に悩む郁の冷たい指先が捕らえた。
「なにぼーっとしてんの! はよ行くで、ほのちゃん!」
吐き気を催すどす黒い靄の中を、郁の声が突風のように吹き抜けていく。すると胸のつかえが少しだけ楽になって、ようやっと穂香は肺一杯に空気を取り込むことができた。
廊下から、夏美や春菜が気まずげにこちらを見ているのが分かったが、郁はそんなことは知らないとばかりに穂香に教科書を押しつけ、廊下へと追いやった。
立ち竦む二人にも当たり前のように声をかけ、四人で次の教室へ向かう。
夏美と春菜が前を歩き、その後ろに郁と穂香が歩く。これはあの夏の旅行のときと、まったく同じ光景だった。
「っしゃー! 間に合ったぁ!!」
「山下、うるさいぞー」
「すみませーん! ははっ、あ、ほらほのちゃん、こっち」
小走りで飛び込んだ教室には、もうすでにほとんどの生徒が着席していた。担当教師が郁を注意すると、くすくすと教室のあちこちで笑みがこぼれる。
そこでは誰も、穂香に視線を向けてはこなかった。
丸椅子を差し出す郁の眼差しには、同情もなにもない。ただいつものように、とろくさい穂香を、姉のように面倒見ているだけだ。
いつものように。なにも変わらずに。
夏美や春菜でさえ穂香の扱いに困っているのに、彼女だけはなに一つ変わらない。
「……郁ちゃん」
チャイムは、穂香が席に座るのと同時に鳴った。
窓にはカーテンが引かれ、教室の明かりが落とされる。そっと、穂香は郁の耳にだけ届くように言った。
「あのね、……ありがとう」
「ほんまほのちゃんは、しゃーない子やなあ」
ぎゅっと握ってくれた手はとても冷たいのに、熱いと感じるくらい、あたたかかった。