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 放課後、穂香は郁と共にやってきた昇降口で、妙な人だかりに出くわした。ざわざわと騒いでいるのは主に男子生徒で、正門の辺りでは部活動のユニフォームを着た固まりがうじゃうじゃと団子になっている。
 なにかあったのだろうか。周りの会話に耳を澄ましてみると、どうやら正門のところに誰かがいるらしいことが分かった。

「めっさ美人やって。芸能人かな?」

 期待したように郁は言うが、穂香にはさほど興味のない出来事だった。けれどそんなことを言えるはずもなく、自らも興味津々のように振る舞って、正門前の人だかりを背伸びして覗き込む。
 そこには確かに、目を見張るような迫力美人が立っていた。
 正門脇の花壇に浅く腰掛け、糊の利いたダークスーツをぴしっと着こなす長身の女性は、艶やかな漆黒の髪をポニーテールにして背に垂らしている。
 黒縁眼鏡が一層の知的さを醸し出しており、赤く口紅が塗られた口元には、ぽつんとほくろが存在していた。

「うっわ……。なにあれ、モデル?」
「どう、だろう。……でも、外国の人みたいだね」
「え? あ、ほんまや。英語しゃべってる」

 人だかりができても、直接彼女が質問責めになっていない理由が分かった。勇気を出して声をかけても、返ってくるのは流暢な英語だ。いくら進学校とはいえ、英語で日常会話を交わせるのはごく僅かしかいない。
 誰が呼びに行ったのか、英語教師であり、担任でもある小牧文子が小走りでやってきた。
 英語教師のわりには幾分か拙い英語で話しかけ、何度かやりとりを交わす。段々とその表情が困惑したものに代わり、小牧は首を傾げた。けれど女性はうっすらと笑みを浮かべ、同じ言葉を同じ口調で繰り返す。
 遠巻きにそれを見ていた穂香は、きょろきょろと辺りを見回していた小牧と目が合い、ぎょっとした。
 彼女は穂香と目が合うなり、ほっとしたように溜息を吐いたのだ。

「あ、赤坂さん、よかった、まだ帰っていなかったのね」

 人並みを掻き分けながらやってきて、小牧はへにゃりと笑った。当然、その場にいた全員の視線が穂香に集中する。
 ぐらり。世界が歪む。
 顔が、視線が、声が、容赦なく穂香を取り囲む。顔の見えない顔が、声の聞こえない声が、存在の知らない誰かが、皆こぞって穂香を指さして嘲笑する。
 すぐ隣で郁が舌打ちした。その音だけが、やけにはっきりと聞こえた。

「赤坂さん、あのね、あのひと、あなたの知り合い?」
「違うと思いますよ。さっき見たとき、知らん風な感じやったし」
「え、そうなの? どうしよう、それは困ったわね……。でもね、あのひと、赤坂さんのこと呼んでいるのよ。行ってきてくれる?」
「教師がどこの誰とも知れん外人に、生徒引き渡していいんですか。しかもこっちは相手のこと知らんのやし」
「それは……。でも、山下さんの問題じゃないでしょう。私は、赤坂さんに話しかけているの」

 こういう会話になってしまったら、埒が明かないことくらい穂香にも分かった。しかし身体は一向に動こうとしない。地面に根を生やしたかのようだった。どう動けばいいのか、頭ではさっぱり分からない。
 ただ人形のように立っているだけの穂香の眼前が、わっと二手に割れた。海を割ったモーゼのように、女性がピンヒールを打ち鳴らして人を分けてやってくる。
 郁も小牧も、唖然として彼女を見つめた。
 背の高い女性だ。キャリアウーマンという響きがしっくりくる。

「ハジめまシテ、ホノカ。I'm Meteor.よろシクね」
「あ……え、と、み? めー? てぃ、あー、さん……?」
「Non,Meteor.アー、ミ、ティ、ア」
「みてぃあー? ミィ、えと、ミーティア、さん……?」
「Yes! So good! イイコね、ホノカ」

 「ほらやっぱり初対面やん」と、郁がどこかずれたことを言う。
 迫力美人に抱き締められ、それまでの感覚など一気に塗り変えられた穂香の中には、困惑しか残らなかった。
 誰だ。そんな自問に、おずおずと自答する。
 拙い日本語。突然やってきた外国人。「あのとき」とよく似ている。

「アナタのおうち、連れていく、Okay? 白の、プラントのハナシ、あリマス」
「白のプラント? なにそれ」

 ぞっとした。肉を破る勢いで心臓が跳ねる。
 ――白の植物。
 やはり、この人は「あのとき」の仲間に違いない。
 なにも考えられなかった。どうしたらいいのか、どうするべきなのかがさっぱり分からない。
 混乱したまま、穂香は目の前の女性の手首を掴んでいた。

「赤坂さん?」
「かっ、家族が、知ってる人、かもしれない、から、帰ります! 郁ちゃん、ごめん、ねっ」
「えっ、ほのちゃん!?」
「赤坂さんっ!!」

 制止も視線も、気にしている余裕なんてなかった。
 頭はとうにショートしている。これ以上あそこにいたくなかった。これ以上、普通ではないと思われるのは嫌だった。
 走って学校を飛び出す穂香に、楽しそうについてくる女性が、英語ではない言葉で何事かを言った。
 
「可哀想なお嬢ちゃん」

 そんな風に聞こえたのは、きっと被害妄想だ。


* * *



 それは、あまりにも美しかった。
 空を仰ぐと、純白の雲が浮かんだ青空があった。そこには首が痛くなるほど高層の建物が何本も突き刺さっていて、空気は少しだけ淀んでいる。あちこちを走る車は、嫌なにおいと煙を吐いている。
 だが、それでも美しかった。
 青い空に溶け込むことはない、色鮮やかな緑があった。赤い花が色づき、足元では黄色い花が揺れ、水を与えられた草木がつやつやと緑の光を反射させている。あまりにも美しい光景に、足が竦んだ。ああ、そうか、これが植物か。座り込んでしまった雑踏の中、人々から視線を浴びながらそんなことを思った。
 この世界は、まだ侵されていない。過ちに呑まれてはいない。――この世界を、穢してはいけない。
 この世界の住人は、純白の穢れを知らない。

「はは、あははははっ! 見なよスツーカ、緑だ!」 

 風に揺れる緑の葉。
 香ってくるのは煙の嫌なにおいと、僅かに漂う花の香りだ。
 人々の視線が突き刺さる。ひそひそとざわめくそれらの声は、まったく耳に入ってこなかった。肩に乗った鳩がくるぅ、と、鳴いて緑に歓喜している。
 ああ、そうとも。


「これでこそ、世界だ」



【4話*end】

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