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 定時に上がるつもりが、なんだかんだと難癖をつけられてこの時間だ。周りのサラリーマン達が疲れた様子ながらも心なしか浮足立っているように見えるのは、給料日後すぐの週末だからだろうか。ドア付近で身を寄せ合って笑う若いカップルを一瞥し、奏は無意識に溜息を吐いていた。
 こんな気持ちになるのはきっと、記憶に新しい恋人と同じ香水の香りが彼氏の方から漂ってくるせいだ。――ああもう。胸中で吐き捨て、気分転換に携帯のゲームアプリを立ち上げる。
 辛気臭いことは考えたくない。今日はせっかくの姉妹水入らずのデートなのだから。



「お腹いっぱい。美味しかった、ごちそうさま」
「せやろー? ここほんまオススメやねん。って、あたしも先輩に連れてきてもらったクチなんやけど。気に入ってもらえたようでなにより」

 大阪のとある商店街の脇道に、そのレストランバーはあった。週末の夜ということだけあって、飲み屋街は随分と賑わいを見せている。あちこちで客引きの店員が声を張り上げ、路地の奥では人目を忍ぶように男女が歩いているのが見えた。
 赤ワインを三杯と、デザート代わりにサングリアを一杯。奏がこの程度で酔うはずもないが、上質な酒と美味い料理に満足した心と身体は、ほろ酔い気分でちょうどいい。
 しかしここにはこれ以上長居をする理由もないのでさっさと引き上げようかというタイミングで、奏は反射的に顔を顰めた。隣を歩く穂香も、困ったように目を逸らしている。向こう側から歩いてきた酔っ払い二人組は、なにやら機嫌よく歌っていた。どうやら野球チームの応援歌らしい。
 こういうときの嫌な予感は大体当たる。それは残念なことに、今日も例外ではなかった。

「おー、おねーちゃん、おねーちゃん! どーこ行くんですかー?」
「お仕事帰りですかー! おつっす! どこ行くんすか!」

 音量調節の馬鹿になった声が、予感通りどっと押し寄せてきた。人懐っこい犬のように纏わりついてきた男二人に、穂香が眉を下げて見上げてくる。
 男達はちょうど穂香と同じくらいの年齢に見えた。大学生だろう。未成年という雰囲気ではない。

「もう帰んねん。あんたらも気ぃつけてなー」
「飲み! 飲み行こ! はい、けってー!」
「あんたらだけで行っといで。じゃあね」
「よし行きまっしょー!」

 ――これだから酔っぱらいは。
 話が通じるわけもなく、アルコールに侵された脳はこちらの言葉を解さない。けらけらと楽しそうに笑う彼らは、すっかり二次会の予定を立ててついて回ってくる。
 似合いもしない金髪――まるでひよこ頭だ――の男が、不安そうに身体を小さくさせる穂香の肩に手をかけた。

「お名前なんてゆーんでーすかー?」
「きゃっ」
「ほのに触んなっ! 手ぇ出すんなら容赦せんで!」

 無理やり連れていこうだとか、そういう悪意は見えなかった。だからといって甘受してやる義理はない。穂香の肩を掴んでいた腕を払いのけ、ひよこ頭を強く睨む。タイトスカートにヒールの組み合わせは走るには不便だが、足の甲を思いっきり踏んでやればどれほどのダメージを与えられるのか程度は理解している。幸か不幸か、ここには人通りもある。いざとなればどこかの店へ逃げ込めばいい。
 きょとんと丸くなった瞳が僅かに細められたその瞬間、奏とひよこ頭の間に逞しい背中が割り込んできた。

「はいはいごめんねー、揉め事はよくないんじゃないかな?」

 体内に取り込んだアルコールが急激に熱を放ったのかと、そう思った。鼓動がすべての感覚を圧巻する。奏は短気な方だし、言うまでもなく喜怒哀楽は激しい。自分でもそれを分かっているから、最近では感情に振り回されないように自制することも覚えていた。入社当時、上司に「動物じゃないんだから反射で動くな」と言われたこともあった。
 考える前に行動して、そのたびに血相を変えて怒鳴られたことを思い出す。「なに考えてんだ、バカ!」そんなことを言われても、目の前のことしか考えられなかった。
 自制を覚えたはずだった。頭よりも先に身体が動かないように、そうできるようになっていたはずだった。けれど耳に飛び込んできた軽口に、目の前に現れた細身ながらも逞しい背中に、反射的に手が伸びていた。

「うわっ、」
「え、あ、ご、ごめん! すみません……!」

 ――恥ずかしい。
 今、自分は“誰”を見た。誰だと思って手を伸ばした。スーツの背を掴んでいた手を慌てて離し、口元を覆う。酔っ払い達は酔いが醒めたのか、はたまた興が冷めたのか、少しふてくされて去っていったようだった。ひよこ頭が遠ざかる。俯く奏の袖を、穂香がためらいがちに引いてきた。

「こっちこそごめんね、急に間に入ってびっくりしたよね。なんか絡まれてるみたいだったからほっとけなくてさ。――大丈夫?」
「あ、はい。ありがとうございます。てか、すみません、スーツ……」
「え? 関谷、なんかなってる?」
「あー、すんげぇ皺んなってんな。どんな馬鹿力で掴んだんだ、あんた」

 関谷と声をかけられた長身の男が、一瞬にして皺を刻まれたスーツと奏を見比べて呆れたように言った。その仏頂面が、記憶にある別の男のものと重なる。


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