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「お前ね、そういうこと言うからモテないんだよ。ごめんね、これ安物だから皺になりやすいんだ、気にしないで」
「アルマーニ着といてよくそんな大嘘つけんな、お前」
「今日のは違いますー。これはほんと吊るしの、って、お前と漫才してる場合じゃないんだっての!」

 優男が伺うように奏を見、どこか照れたように頬を掻いた。流れるような動作で名刺を渡され、すっかり根付いた社会人としての習慣で自分の名刺を渡す。品のいいフォントで印字された文字が、彼の名前を教えてくれた。どうやら長岡という彼は、某大手企業の営業担当らしい。
 関谷は「仕事じゃねえし」と名刺を断ってきたので、奏の方も渡していない。「赤坂さんね」と呟いた長岡が穂香に目をやり、「君は?」と首を傾げる。その角度はどこかあざとい。

「赤坂です……」
「え、じゃあ姉妹(きょうだい)? そっか、仲良いんだね」

 駄目だ、流される。
 長岡はきっと人たらしだ。端正な顔立ちに加えて、警戒心など微塵も抱かせない屈託のない笑みが彼の武器なのだろう。さすがは大手の営業様だ。いつの間にか立ち話にしゃれ込んでいた奏は、すっかり彼のペースに呑まれていることに気がついてはっとした。
 さりげなく穂香を背に庇い、軽く頭を下げる。

「助けてもらってありがとうございました。それじゃあ、失礼します」
「あ、待って! ――あ、えと、その……。ごめん、正直に言う。ちょっと下心があって仲裁に入った。あっ、下心って言ってもどうこうってわけじゃないけど! なんていうか、ちょっとお茶でもしたいなって、そういう意味で!」
「え……」
「駅のカフェとかでもいいからさ。――少し、話さない?」

 きっと奏よりは年上だろうに、笑うと学生に見紛うほど幼く見える。それが、押し込んだはずの記憶を無理やり引きずり出そうとする。引き絞られるような痛みが胸に走る。
 どうしよう。正直に言えば、揺れていた。興味がないわけではない。様々なことを差し引いても、純粋に長岡という人物は好感が持てた。それに相手は大手の人間だ。仲良くしておいて損はないだろう、それに、――。たくさんの理由付けが頭の中を乱舞する。
 動きを止めた奏の隣で、穂香が震える声を放つまでは。

「ごめんなさい。私達、もう帰るところなんです」

 弱々しい声音は、そのくせきっぱりと拒否の意を示す。迷う奏を促すように手を握った穂香は、どこか痛みを隠すような表情で関谷を一瞬だけ捉えた。

「あ、そっか。もしかして、二人とも彼氏とかいたりする? ごめん、久しぶりに好みど真ん中の子見つけちゃったから、つい」
「別に、彼氏とかは……」
「好きな人がいるんです。――お姉ちゃん、行こう。お父さん達待ってるって言ってたじゃない、電車間に合わないよ」

 そんな約束はしていない。この場を立ち去るための嘘は、あまりのぎこちなさからすぐに長岡達にもそうと知れたらしい。長岡が苦笑を零し、関谷が眉根を寄せた。「ごめんなさい、失礼します」慌ただしく穂香が頭を下げ、立ち止まっていては足元が崩れるとでもいうような性急さで踵を返した。
 くんっと腕が引かれて、いつもとは逆の立場になっていることに気がつく。ぼんやりとしていた奏は、まだ数歩も歩いていないのにぴたりと足を止めた穂香に思い切りぶつかった。その勢いで二人してたたらを踏む。

「ちょっ、大丈夫!?」

 慌てた長岡の声がすぐさま追いかけてきたが、その手が触れる前に大きな手に肩を支えられた。飲み屋街だというのに、煙草の臭いも酒の臭いもしない。少しだけ香る香水と、それから――……優しい緑の匂い。

「大丈夫だよ、お兄さん。心配しなくてもちゃんと連れて帰るから。――この子、俺のなんだ。ごめんね」

 今度こそ、アルコールという魔の手が口の中から胃を引きずり出し、あるいは心臓を爆発させるべく暴れ回っているのだと思った。顔が上げられない。もうなにも頭に入ってこない。肩を支える手のひらの熱だけが、やけに鮮明に感じる。
 背後で長岡が困ったように笑うのがかろうじて聞こえた。なにかをやりとりしているようだったが、詳しくは分からない。まるで水の中で聞いているみたいだ。
 睨みつけた自分の爪先が、誰かがポイ捨てした煙草の吸殻を踏んでいた。汚れたコンクリートが目に映る。それが次第にぼやけていく。多くの人が給料日を迎えた週末の夜の、それも飲み屋街だ。周囲は耳を塞いだって喧騒に塗れているはずなのに、なに一つ上手く耳に届かない。
 その代わりに幻聴まで聞こえてきて、奏は絶句するしかなかった。

「……久しぶり。変わんないね?」

 ああ、でも、ちょっと髪型変えた?
 思い出そうとしても薄れかけていた声は、そのくせ聞いた瞬間に記憶のそれと合致した。指の背で輪郭をなぞられ、汚れたコンクリートに染みが一つ増えた。踏み締めた吸殻が滲む。
 忘れようとして、実際に忘れかけていることに気がついてひどく焦った。思い出そうとすれば、はっきりと浮かぶ顔がある。それなのに声が薄れ、手の温度も分からなくなっていった。
 目元のほくろは右だったか左だったか、気がつけば曖昧になっていた。それを怖いと感じることがなによりも怖く、いっそすべて忘れてしまえと記憶を放り投げ、しっかりと鍵をかけて封じておいたはずだった。

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