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耳のすぐ後ろにくちづけられ、ぞわりと肌が粟立った。唇が離れる間際、ちゅっと小さく音を立てていく気恥ずかしさに耐えられない。立っていられないほど、足に力が入らない。それなのにナガトが離してくれないせいで、奏は身体をその胸に預けるしかなかった。
首筋に唇を乗せたまま、ナガトが続ける。
「俺は寂しい。離れたくない。このままテールベルトに連れて帰って、俺だけのものにしたい。お前が欲しい」
胸が引き絞られるような、切ない声だ。
なにを言えばいいのか分からず、奏は泣きそうになりながら息を吐いた。「かなで、」たった三文字の音に、縛られる。
抱き締める腕にさらに力を込められ、なにも言えなくなった。言葉よりも雄弁に、その力が物語る。
ふいに、首筋に触れる熱が増えた。唇でも吐息でもないそれは、つう、と肌の上を滑っていく。
「え、泣いて、んの……?」
うるさいな。震える声がそう零し、すんと鼻を啜る音が聞こえた。
溺れるような息苦しさを感じて貪るように口を開けたのに、ろくに呼吸すらできなかった。頭がいっぱいになる。伝わる熱が、思考する力を奪っていく。
重たいコートから、そして頬をくすぐる髪から漂うナガトの香りに、すべてが麻痺してしまいそうだった。
「ねえ、奏、」
「い、言わんとって!」
回された手を握り締め、奏は慌ててそう叫んでいた。窓ガラスに映る自分の顔は、今にも泣きそうに歪んでいる。抗議するように指先を強く握り込まれ、胸が震えた。
「どうして」拗ねたような、責めるような声で囁かれる。
――どうしてなんて、聞かないでほしい。
「だ、って……」
目の奥が、熱くなった。
「そんなん、言われたら、……我慢できんく、なる」
きっとそれが、最も望む言葉だろうとしても。
ナガトが告げようとした言葉は、今の奏がなによりも欲する言葉なのだろう。それを聞けば、きっと幸せな気持ちに浸れるのだろう。
触れた指先が伝えてくれる。抱き締める腕の強さが伝えてくれる。名前を呼ぶ声の優しさが、その眼差しが、彼のすべてがもうすでに語ってくれている。
その上で言葉にされてしまっては、もうどうしたらいいのか分からなってしまうのだ。こんなにもたくさんの想いを与えられてすでに溢れそうなのに、これ以上は耐えられない。
聞いてしまえば、もっと欲しくなる。
――もう、「さよなら」なのに。
「……バカだね」
「うるさい」
お互い、声はとっくに湿っていた。
どくどくと早鐘を打つ鼓動が、強く叫んでいる。
言葉にしないで。自分勝手な奏の願いは、どうやら聞き届けられたらしい。苦しげに、けれど甘く掠れた声で、ナガトは奏の名前を囁き、小さく笑った。
「もう本当サイアク。俺すっごいモテるし今まで何人も彼女出来たけど、……こんなに振り回されたの、奏が初めてだ。よりにもよってこんなじゃじゃ馬に初めてを奪われるなんて、一生の不覚だよ」
「……ケンカ売ってんの?」
「売ってる。でもどうせ、俺の負けなんだろ? 分かってるよ、それくらい。お前には勝てっこない。だから奏、――慰めて」
拘束が緩んだかと思えば、くるりと回転させられて正面からナガトと向き直った。地上からの明かりと空からの月明かりを受けて、その表情を見るのに苦労はしない。
気がつけば、濡れた睫毛を拭うように手を伸ばしていた。大人しく目を閉じ、彼はされるがままになっている。あのときと同じように、こめかみから指を差し込み、柔らかい髪を梳いてみた。そうして、ゆっくりと頬に手を滑らせる。
その穏やかな表情を見つめていると、奏の眦から涙が零れ落ちていった。
手のひらに擦り寄ってくるナガトの首に手を回し、奏はそっと踵を上げた。
「……これだけ?」
「アホ!」
頬を指さし、ナガトはそんなことを言う。こちらにあまり経験がないことは知っているくせに、あまり多くを求めてくれるな。
今の奏にはこれが限界だ。火照った顔を見られたくなくて逸らしたというのに、大きな手がそれを許してくれなかった。
そのぬくもりに、どうしてかまた視界が滲む。慈しむように見下ろされ、硬い指先に目元を拭われた。
この手を、ずっと覚えていたい。
これから先も、ずっと。
何度季節が変わっても、ずっと。
彼がいないことが、日常となってしまっても。
「もう殴らないでね。奏のビンタ、すっごく痛いから」
笑みを含んだ声が近づいてくる。
重なる熱に、声を上げて泣きたくなった。
* * *
「どっか行きてェとこあるか」
「ど、どこでも、大丈夫です……」
奏達の予想通りの会話をしているとは露知らず、穂香は気まずい沈黙の中で夜空を飛んでいた。
結局、アカギは一度も目を合わせようとしなかった。――どうして。いくら考えても理由が浮かばない。嫌われたのかと思ったが、彼はナガトよりも早く穂香の手を引いて翼を広げた。
分からない。触れてくれるのに、見てくれない。
恐る恐る腕を回して、その身体に身を預けた。最初に行きたいところを問われたきり、会話はなかった。なにも言わずに、彼が操る翼の下で、眼下に広がる町並みを見下ろしていた。