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 風がより一層冷たくなる。もう随分と飛んでいたのだろう。自分でも気づかないうちに、身体が冷え切っていた。「そろそろ降りるぞ」短く言われ、返事もそこそこに飛行樹は下降し始めた。
 そうして辿り着いたのは、山の上だ。山頂付近で視界は開けている。足元は木製の床板が敷かれているようだが、今どこにいるのかよく分からなかった。
 ――その景色を、見るまでは。

「わ……」

 この手で、星が掬えそうだ。
 眼下に広がる夜景の美しさに、感嘆の息が漏れた。満天の星空をそっくりそのまま地上に流し込んだようだ。
 一歩踏み締めるたび、かたんと愛らしい足音が鳴る。望遠鏡も設置されているこの場所は、展望台のようだった。それにしてはひと気がない。
 手摺りまで導かれるように小走りで駆け、穂香は夢中で夜景を眺めた。
 電気の消えた電子案内板に軽くもたれたアカギが、「寒くねェか」と訊ねてくれた。平気だ。彼らが来るというから、父親に頼んでお気に入りのコートとワンピースを持ってきてもらっていた。父は、入院中でもオシャレをしたい乙女心として受け取ってくれたらしい。
 あまりどこかへ出かけることがない穂香でも、ここがどこだかすぐに分かった。
 山の上の展望台。海を臨む夜景。ひと気がないのは今だけだ。だって、見舞いに来たときに郁が愚痴を零していた。
 日本三大夜景に数えられるこの場所は、ちょうど今、ロープウェイのケーブル交換で休止状態なのだと。
 特別な翼がなければ、ここには来られない。

「アカギさん、あの……」

 相変わらず視線は合わない。穂香とアカギの間には、人が二人は入れるような距離がある。これ以上は近づいてくれるなと言わんばかりに、彼はその距離を詰めようとはしなかった。
 それなのに、彼はこの場所を選んだのか。
 誰もいない、関西で最も綺麗な夜景が観られる場所を。
 こんなにも、美しい場所を。

「あの、……助けてくれて、ありがとうございました」
「ああ、いや、別に……」

 他になにを言えばいいか分からず、穂香は深く頭を下げた。引き攣れた傷の痛みより、その内側の方がずっと痛い。彼がこちらを見てくれない方が、ずっと苦しい。
 地上よりもさらに冷えた空気が、喉を通って言葉を冷やした。地元とは違って、ここには雪が残っている。今は雲一つない夜空が広がっているが、いつ降り出してもおかしくないほど寒かった。
 踏み締めた雪が、しゃくりと鳴く。

「身体、大丈夫ですか? 背中、撃たれてましたよね」
「……お前、あのときのこと覚えてんのか?」
「あ、いえ、全部は……。最後のところだけです。アカギさんが私を助けてくれたところ、だけ。あとはなにも……」
「そうか」

 白の植物に呑まれる瞬間は覚えているのに、そこから先の記憶はすっぽりと抜け落ちてしまっていた。どれだけ思い出そうとしても、心地よい白い微睡の記憶しか出てこない。唯一思い出せるのは、穂香を必死に呼んで駆けてきたアカギの姿だけだ。彼の背に赤が飛ぶのと、胸に激痛が走るのはほぼ同時だった。
 覚えてないと告げた途端、アカギがどこかほっとしたように脇腹を押さえたのを穂香は見逃さなかった。穂香には、白の植物に寄生されていたときの記憶がない。ナガトもアカギもそのときの状況は語らなかったし、奏ともそんな話をする余裕はなかった。
 ――まさか。
 想像するだけで震えが走った。

「まさか、私が、怪我させたんですか……!?」
「違う」
「ごめんなさい、どうしよう、私、なにしたんですか? 他に誰が、どうしよう、私っ……」
「違う、落ち着け!」

 怒鳴りつけられ、全身が震えた。――ああ、そうか。だからだ。アカギが目を合わせてくれないのは、穂香が化物になってしまったときのことを知っているからだ。穂香がこの手で、彼を傷つけたからだ。
 なにをしたのだろう。なにをしてしまったのだろう。
 寄生されるということがなにを意味するのか、穂香には正しく理解できていなかった。ただ身体を貸すだけで済むはずがなかったのだ。
 この手はどれだけの人を傷つけたのだろう。この口はどれだけの呪詛を吐いたのだろう。
 彼は、必死で守ってくれたのに。
 泣くまいと必死で唇を噛み締めたのに、だらしない涙腺はあっさりとその解放を許してしまった。慌てて背を向け、自分勝手な様を見せないように俯いた。
 誰もいない展望台に、アカギの溜息だけが大きく響く。

「……俺はなんともねェ。お前もなんもしてねェ。お前が誰かに怪我させた事実もねェよ、軍人舐めんな」
「でも、私のせいでアカギさん、」
「俺が勝手に飛び出したんだ、お前は悪くねェよ」
「でもっ」
「ハルナ二尉だから助かった。あれが他の人間なら、俺もヤバかったけどな。あの人が咄嗟に軌道逸らしてくれたおかげでこの通りだ」

 ぐずぐずと泣き濡れる穂香のすぐ後ろに、アカギの気配があった。
 たった一歩で距離を詰めた彼は、何度もためらうそぶりを見せ、そして意を決したように言った。

「謝んのはこっちだ。……傷、残しちまったろ」

 一瞬なんのことか分からず、振り向いて見上げた先にあった苦しげな顔を見て、合点がいった。引き攣れるこの胸の痛みは、うっすらと痕が残るという。
 アカギが核を破壊したときの傷だ。穂香を助けてくれた証だ。それなのに、どうして彼はこれほど苦しそうな表情でいるのだろう。


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