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「――おーい、カガ。書類はできたのか?」

 ざわめきの中で端末を弄りながら、振り向きもせずにヒュウガが言った。その後ろを、中腰の状態でこそこそとカガが通り過ぎようとしている。大きな身体を無理やり小さくしているせいで、とてつもない違和感があった。
 視線が集中し、中でも一際冷ややかなハルナの眼差しを受けた瞬間、カガが頬を引き攣らせながらその場で固まった。

「あ、あー……、オッチャン、その、こーゆーの苦手で……」
「そうでしょうね。今まで報告書の類は、すべて俺が代筆していましたから」
「ハルナぁ、まだ怒ってんのかよ〜。オッチャン謝ったじゃんかぁ」
「情けない声を上げんでください、みっともない!」

 泣きつくなりぴしゃりと叱りつけられ、カガは首を竦めて膝を抱えた。まるで大きな子どもだ。さしずめハルナが母親で、ヒュウガが父親と言ったところか。
 正規任務としてこのプレートに渡ってきたカガ隊の艦長には、仕上げなければならない報告書がそれはもう山のようにあるのだろう。普段ならば手伝ってやっているハルナだが、今回ばかりは手を貸さないと決めているらしい。カガが他の隊員に泣きつこうとも、ハルナの目が怖いからと断られっぱなしのようだ。
 これでは一体どちらが上官か分かったものではないが、ヒュウガいわくこれくらいが「カガにはちょうどいい」らしい。
 苦手な机仕事を泣き言全開で進めるカガとは裏腹に、ヒュウガはなんなく仕事を終わらせていた。後ろで喚くカガに軽く溜息を吐き、彼はぐるりと肩を回した。

「帰ってからが本番だぞ、カガ。今以上に書類も増える。これくらいで喚くな」
「そーゆーのはお前に任せるぅううう」
「馬鹿たれ。“テールベルトのヒーロー”はカガ隊だ。お前が出んでどうする。たまには本気出せ。――ハルナ、甘やかすなよ」
「今回ばかりは自分もその気はありませんから、大丈夫です」
「ハルナぁ!」

 スズヤに乗り上げた上で足元に泣きついたカガを「鬱陶しい」と一蹴し、ハルナは見るからに甘ったるそうなカフェオレを啜った。あんな顔をして、ミルクも砂糖もたっぷり入れたお子様仕様のコーヒーしか飲めないとはどうにも笑える。
 それにしても、「帰ってからが本番」とはよく言ったものだ。
 この一件で、テールベルトは大きく動く。緑花院、王族、空軍。それぞれが否応なく変化を求められるだろう。遠くはない未来を想像し、ソウヤは薄く笑った。

「ま、俺はのんびり見守らせてもらいます」
「ソウヤ一尉……」

 勝手をしでかした自分の処分は、最も軽いもので免職だろう。檻の中に入れられてもおかしくないことをしたのだから、その辺りは覚悟の上だ。
 途端にしゅんと眉を下げたハルナの頭に、垂れた犬の耳の錯覚が見えた。留守番を命じられた犬のように見えて、思わずわしゃわしゃと掻き回してやれば、大の男が寂しそうに見上げてくるのだからなんとも言えない。
 床に――正確にはスズヤを押し潰すようにして――寝そべったカガが、「ソウヤにばっか甘くてずっりぃ!」と訳の分からない文句を吐き出していたが、誰もが聞こえないふりで一貫した。
 なんとか自力で脱出を成功させたスズヤが、ずれた眼鏡をかけ直しながら笑う。
 レンズの向こうで、悪戯な光が見えた。

「でもでも、マミヤちゃんが動いてくれてるんだから、そう悪い方向にはいかないんじゃないですか? 案外このまま、ソウヤ一尉が次期緑王のお婿さーん! とかになっちゃってたりして?」
「なっ!?」
「マミヤちゃんも随分と頼りにしてたみたいだし? お似合いですよねぇ」

 スズヤの軽口はソウヤの反応を期待したものではなく、ハルナをからかうためのものだ。分かりやすく動揺したハルナが、ソウヤとスズヤを交互に見る。
 このまま追撃していじめてやってもいいのだが、どうにも乗る気になれず、ソウヤは軽く笑うだけに留めた。それが余計にハルナの心を揺さぶってしまったらしい。
 周りが面白がって囃し立てる中、ヒュウガが二度ほど手を大きく叩いて賑わいを鎮めた。しんとした艦内に、よく通る声が響く。

「とにかくだ! 息抜きできんのは今日だけだ。明日から気ィ引き締めていけよ!」

 「はい!」誰もがそう答え、その場で敬礼した。そして、誰ともなく噴き出し、さざ波のように笑いが伝染して爆発する。
 賑やかな職場だ。生死を懸けた戦いに身を置いているとは思えないほど、誰もが明るく笑っている。
 そんな彼らを眺めながら、ソウヤは一人静かにコーヒーを口にした。
 愛想のない紙コップで飲むそれは、極上の酒より絶品だった。


* * *



 ぴゅう、と冷たい風が前髪を掻き上げた。
 しかし、重たいコートを羽織っているおかげで、特に寒さは感じない。それよりも気になったのは、この場所の不安定さだ。頭上に広がる星空も眼下に広がる夜景もとても綺麗だけれど、今一つ集中できない。
 しっかり握られた右手があるからこそ震えるような恐怖はないが、それでも足元が揺れるたびにどきりとした。

「あっちなら、もっと遠くまで行けたんだけどね」

 ナガトの言う「あっち」とは、戦闘機型の飛行樹のことだ。聞くところによると、あれは小型の練習機だから普段彼らが乗り回しているものとはまた違うらしい。
 珍しい乗り物に興味がないとは言わないが、今は簡易飛行樹の方がよかった。その理由を悟られたくなくて目を逸らしたのに、お見通しだとでも言うようにナガトは握る手に力を込める。
 絡めた指先が、彼の頬を叩いたとき以上に熱を持っていた。


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