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 ――すぐそこで、子どもが笑う。風が吹いて、秋の匂いを運んできた。そうだ、秋だ。夏が終わり、少しずつ風が冷えてきた頃。だからこそ、宿った熱がより印象的だった。
 「おい、奏!」当たり前のように奏を呼ぶこの声に、覚えはあるか。白い翼に、覚えはあるか。
 ぐるぐると記憶が混乱していく。ぐちゃぐちゃに掻き回されたスープのように、あっちこっちに記憶が飛んで収集がつかない。
 どれが夢で、どれが幻で、どれが現実だ。
 ふわふわと漂うそれらを、なんとしてでも捕らえなければならないような気がした。一つずつ手を伸ばして集めていく。この熱が、白い靄がかかった記憶を呼び覚ます。
 ――思い出せ。散り散りになった夢幻の欠片を、取り戻せ。

「……あたし、前にもあんたのこと殴ったっけ……?」

 確信はなかった。
 ともすれば聞こえないような小声でそう呟いたのに、目の前のナガトはおろか、穂香やアカギにもしっかり聞こえていたらしい。一瞬、なにを言っているんだと呆れた表情になった三人が、途端に別々の反応をしてみせた。
 穂香は嬉しそうに目を輝かせ、涙を滲ませた。アカギは大きな溜息を吐き、「付き合ってらんねェ」とぼやいた。
 そしてナガトは、驚きに目を瞠って、苦笑しながら頷いた。

「あるよ。今と同じくらい、痛かった」

 ――ああ、やっぱり。
 この熱の記憶は、夢でも幻でもない。

「……京都」
「ドミノみたいな赤い鳥居が綺麗だったね。そういや、あのときも叩かれたっけ?」
「……白の、植物」
「それはもう、ご覧のとーり」
「ハインケル」
「大きくなってたけど、今はまた薬でチビ博士に戻ってる。向こうに帰ったらまた大きい状態で過ごすかもしれないって言ってたかな」

 浮かんだ単語を投げれば、ナガトは嬉しそうに即答していく。
 ああそうだ、この笑顔だ。
 ――知ってる。

「ミーティア」
「チビ博士と後片付けしてるよ。なんだかんだ、あの人には苦労かけちゃったね」
「カガ」
「ハルナ二尉にしこたま怒られて反省文書いてた。今も監視付きで苦手な事務仕事してる」
「ソウヤ」
「これが最後の空渡だって言って、仕事の合間にぶらっと観光してる。俺達としては、最後だなんて言ってほしくないけど」
「ハルナ」
「肋骨四本折って足の方にもヒビ入ってたってのに、今ではピンピンしてるよ。ヒビ入ってた方の足でカガ二佐蹴り倒してたし」
「アカギ」
「……奏さん、さすがにそれは妬けるんだけど?」

 嬉しそうな、けれど拗ねた声がそう言った。
 「ねえ、俺は?」甘えるような声が先を促す。明るい夜色の瞳に優しく見つめられ、喉の奥がひくりと痙攣した。
 何度も、見た。何度も、聞いた。何度も、触れた。
 耐え切れず、今しがた自分から突き飛ばした胸の中に飛び込んだ。「おっと!」慌てたように、ナガトがそんな声を上げる。
 ――嘘つき。これくらいではなんともないくせに。
 しっかりと背中に回された腕は、もう怖くない。

「……ナガト」

 呼べと言ったのはそっちのくせに、呼んだ瞬間、彼は目を丸くしてぽかんと口を開けていた。けれど、すぐにその瞳が優しく細められる。僅かに潤んだ瞳は、そういうことなのだろうか。
 胸焼けしそうなほど甘い声が、降ってきた。

「なぁに、奏?」
「ナガト、」
「うん」
「――ナガトぉっ!」

 泣いてたまるかと思っていたのに、その名を呼んだ瞬間、堪えきれずに涙が溢れた。抱き締めてくれる熱がどこまでも気持ちがいい。冷たい風が気にならないほどあたたかい熱に包まれて、嗚咽が止まらない。
 どうして忘れていたのだろう。どうして。

「うん、大丈夫。ここにいるよ。約束したでしょ? ちゃんと戻ってくるって」
「ながっ、ナガトの、アホぉ……!」
「それは奏でしょ。俺のこと、すっかり忘れちゃってさ。しかもこういうとき、フツーはキスとかハグで思い出さない? それがビンタってなに、ビンタって。まあ奏らしいとは思うけど」
「うるさい!」

 からかう声はどこまでも甘い。
 そうだ、この声だ。
 大丈夫だからと、守るからと、この声が奏に何度も言って聞かせた。大きな手に掴まれた自分の手が随分と小さく見えて、「女の子」なのだと思い知らされた。
 無事でよかった。安堵の涙が止まらない。ゆっくりと頭を撫でられ、頭皮を掻き分けるように髪を梳かれて心地よい痺れが走っていく。

「ねえ、奏」
「なに」
「ほのちゃん見てるけど、ここでキスしていい? ――っと! さすがに三発目は喰らわな、いったぁ!!」
「このドアホ!」

 振りかぶった手は防がれたが、代わりに思い切り足を踏みつけてやった。その場に蹲るナガトが、大げさに痛みを訴えて転げまわっている。
 大して痛くもないくせに。
 涙を拭ってナガトに背を向けた奏は、勢いよく抱き着いてきた穂香の身体を受け止めてたたらを踏んだ。なんとかその場に踏みとどまったが、二重の驚きに心臓が早鐘を打っている。

「ほの?」
「よかった。思い出してくれて、本当に、よかった……!」

 思い出してくれてよかった。
 よかったね。思い出せてよかったね。
 穂香はそう言って頬を濡らす。
 いつの間にか復活していたナガトが、「俺もそう思う〜」と軽口を叩いた。その肩を思い切り叩いて、奏は夜の空気を肺いっぱいに吸い込んだ。僅かに土の香りが混じったそれは、緑の存在を語っている。
 頭上には、澄んだ冬の空気に似合いの星空が広がっていた。

「――ナガト」
「なーに?」
「なんでもない」

 呼べば、応える。
 そのことが、こんなにも嬉しい。
 

 そして世界は、日常へと戻っていく。
 優しく、ときに残酷に。


【end*26】


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