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 どうやら、ここでどれだけ噛みついても無駄らしい。
 一度牙を仕舞い、奏は冷静に周囲を見回した。山の中だが、そう時間はかかっていないから、近くの鎧山だろう。こんなところに連れてくるなんてますます怪しい。
 殺気は感じないが、自分達を軍人だと言っていたから油断はできない。そうでなくても相手は男だ。奏達など力づくでどうにかしてしまえるだろう。警戒心を剥き出しにする奏をよそに、穂香は闇の中を指さした。

「中に?」
「ううん、今日はこっち。艦内じゃ野次馬が多くてさ。どうせならゆっくりしたいでしょ?」

 艦ってなに。
 穂香の指さした方を見てみるが、闇が広がるばかりでなにも見えない。蜃気楼のように時折空気が揺らいで見える気もするが、なにかがあるようには思えなかった。
 ただ、「こっち」とナガトが指し示した方にあったものは、奏の目にもはっきりと見えた。
 闇の中、木々を避けるように飛行機が二機並んでいる。よく見る旅客機とは違って、その輪郭は鋭い。時折ニュースで見る戦闘機と呼ばれる飛行機に近いが、思っていたよりも小型のものだ。
 だが、玩具のようには見えない。そんなものがどうしてここにあるのか。
 奏の警戒の色はますます濃くなっていく。

「あんたら、なにが目的なん? ほのを騙してどうするつもり。どこの国の人」
「騙してないよ。ただ、……最後にゆっくりお別れしたいだけ」
「お別れ、って、やっぱり殺す気!?」

 「ほの、こっちおいで!」伸ばした腕を掴んだのは、穂香ではなくナガトだった。離してと叫んで振り払おうとするも、強く握り込まれてびくともしない。ぎり、と骨が痛む。俯くナガトの表情が見えない。本能的な恐怖に身が竦んだ。
 力じゃ敵わない。なら、どうすればいい? どうすれば、穂香を守れるのだろう。
 逃げてほしいのに、彼女は逃げるどころか恐れる様子も見せない。大切な妹が心配げに呼んだ名前は奏のものではなく、ナガトの方だった。

「離してっ、離せって!」
「――いつもあんだけついて回ってたくせに、なんで肝心なときにこれなんだよ!」

 急に怒鳴り返されて、驚きのあまり用意していた言葉が散っていった。
 腕を掴む手が震えている。見下ろしてくる瞳には、怒りの他になにか別の感情が透けて見えた。悔しげな、哀しげな、そんな色だ。

「は、はあ? なんの話よ、意味分からん!」
「分かれよ! こっちはどれだけお前に振り回されたと思ってるんだ!」
「だからなんの話をしてんねん!」
「お前の話だよ!」

 返す刀で噛みつくようにそう言われ、あまりに予想外の言葉に呆気にとられた。
 悲痛な叫びが、震えが、全身に叩きつけられる。

「全部、全部お前の話だ! こっちの心配なんかおかまいなしで突っ走りやがって! なのにっ、なのになんで、全部忘れてるんだよ! あれだけ言うこと聞かずに無茶ばっかりしてたくせに、なんでこんなときだけ言うこと聞いてるんだよ、このバカ!」

 ぐいっと強く腕を引かれたと思ったら、傾いた身体が硬い胸板に押しつけられていた。熱い呼吸を耳元で感じる。背中に回された腕が、縋るように奏を抱き締める。
 「思い出してよ、頼むから」「なんで忘れてるんだよ」「なんで、」泣きそうな声でそう囁かれて、訳が分からなくなった。どうしてかこちらまで泣きそうになって、絆されそうになった直前、はっとしてその胸を突き飛ばした。
 身体が離れる。ばくばくとうるさい心臓を抱えたまま、奏は勢いに任せて腕を振り上げた。

「なにすんねん、このドアホ!」

 風を切った手のひらが、整った顔立ちの頬をはっきりと捉えた。乾いた音が鳴る。「お姉ちゃん!」非難するような声が聞こえたが、今はそれよりもずっと気になることがあった。
 手のひらに熱が籠もる。じんじんとした痺れるような痛みが残る手に、なにかが引っかかった気がした。
 この感覚は、一体なんだろう。

「……なあ、もう一回ビンタさせて」
「は?」

 返事も聞かずにもう一度頬を張る。一切力は緩めず、全力で叩いた。
 手が熱い。痺れるような痛みが、より一層強くなる。乱れた薄茶色の髪が、片側だけ赤く染まった頬にかかっている。柔らかそうな髪だ。触り心地は、きっといい。

「なにするんだよ!?」

 凄い剣幕で怒鳴り散らされたが、奏は熱を持つ己の右手を見つめることに夢中で、彼のことなど眼中になかった。
 なにかが引っかかる。
 この痛みを、この熱を、奏は知っている。
自分の気が強いことは自覚しているが、人を叩いたことなんてそうあるものでもない。誰かとケンカするときも怒鳴り合いで済んでいたし、幸か不幸か男性経験もないに等しいせいで修羅場も経験した覚えがない。
 なのに、この手の熱には覚えがあった。


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