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「めっちゃ丁寧に縫ってくれたらしいんやけど、それでも少し、傷残るかもしれんって」
「きず……、胸に?」
「でもな、ほんまうっすらやって。それにあとから傷を消す治療とかもできるらしいし、別にそんな目立たんって。だから大丈夫やって言ってたから!」
「そっか」

 どれほどの傷跡が刻まれているのか穂香自身はまだ見ていないから、悲しみも不安も湧いてこなかった。どこか他人事のようにすら思う。奏がここまで心配しているのだから、もしかすると酷い状態なのかもしれない。
 その胸も動くまで痛みは感じなかったし、全身が気だるい以外に感じる不調はない。打撲痕はいくつかあるようだったが、二週間の間にかなり薄くなっていると聞いた。頭がぼんやりしているが、気になるところといえばそれくらいだ。
 それにしても眠い。二週間も眠っていたらしいのに、まだこんなにも眠いだなんて。冬眠でもするかのようだ。
 そういえば、今、何月だっけ。
 頭を打ったせいだろうか。そんなことさえも曖昧になっている。確か、冬の終わりだ。春と呼ぶにはまだまだ冷えているけれど、それでも暦の上では確実に春が近づいてきている。
 あまりの睡魔に、もう眠ってしまおうかと瞼を閉じたそのとき、つきりとした痛みが胸から頭へ駆け抜けていった。

 ――穂香!

 夢を、見ていた。真っ白な世界の中にたゆたう夢を。
 誰かが必死に穂香を呼んでいて、その声に無理やり起こされたのだ。あの声は奏のものだとばかり思っていたけれど、今聞こえたそれはまったく別人のものだ。知らない声に悪寒が走る。――知らない? 本当に?
 ときに怯えてしまうほど激しく、その声は強く穂香を呼んだ。
 何度も、何度も。血を吐くほどに、強く。

「……ちがう」
「え?」

 違う。知らない声なんかじゃない。事故なんかじゃない。この胸の痛みは、フロントガラスが刺さったせいなんかじゃない。
 立てこもり事件は確かにあった。高校に銃を持った男がやってきて、耳を塞ぎたくなるほどたくさんの悲鳴を聞いた。それは事実だ。
 ――けれど。
 パジャマの上から、痛む胸元に触れた。どくどくと早鐘を打つ心臓の存在をはっきりと手のひらに感じる。
 ここに、あのおぞましい化物の核があった。どっと押し寄せるように、記憶の波が穂香を襲う。急激に靄が晴れ、鮮明になった脳内に白が暴れた。

「お姉ちゃん、アカギさんは?」
「え、ほの?」
「ナガトさん達は無事なの? みんなどうなったの? アカギさんはどこ?」
「ちょっとほの、どうしたん? 大丈夫?」

 心底心配そうな顔で見つめられ、愕然とした。優しい手が、不安げに穂香の手を握る。
 思い出したのに、思い出せない。
 白の植物はどうなったのだろう。彼らは無事なのか。白に呑まれたところまでは覚えてる。
 でも、そのあとは。

「ねえ、みんなは、」
「……ほの、起きたばっかでちょっと喋りすぎたんやな。今日はもう休み。大丈夫やから。な? そろそろ面会時間終わるから帰らなあかんけど、もし夜中に起きたら、電話とかしてきてもええから。とりあえずもう寝とき。母さんと父さん呼んでくるわ」

 頭を一撫でして病室を出ていった奏の背を見送り、穂香は痛む胸を押さえた。傷が痛むのか、それとも別のものが原因なのか、さっぱり分からない。
 あの記憶が夢だとでもいうのか。
 白の植物、異世界の軍人、巨大な化物。
 目の前で散った、赤い花。

「夢? だってそんなこと、あるわけ……」

 庇うように抱き締められた。熱を感じて、衝撃が訪れ、胸に激しい痛みが走った。焼け付くようだった。
 倒れ込む彼を支えようと伸ばした手に、熱い液体が触れたのを覚えている。自分の胸からも、同じ色のそれが流れていることも。
 痛くて、苦しくて、訳が分からなかった。倒れ込んだアカギの向こうに、銃を構えた男の姿が見えた。
 白に呑まれた穂香の記憶は、ひどく断片的にしか残っていない。

 あれが夢だったなんて、そんなことがあるはずがない。
 けれど、あの出来事が現実だとすれば、なぜ奏はなにも言わないのだろう。もしや最悪の事態が起きたのだろうか。だから奏は、穂香になにも言わずに誤魔化そうとしているのだろうか。
 泣きたくなるほどの焦燥感に襲われ、痛む胸に構わず起き上がってベッド脇のテレビ台から携帯を取り、冷えた指先で電話帳を探った。

「うそ、なんで……!?」

 電話帳の一番上。
 そこに表示されているはずの名前がない。目を皿のようにして発信履歴、着信履歴ともに探したけれど、どこにも彼らの名前は載っていなかった。――どうして。
 二週間の間に、なにがあったのだろう。
 夢だというのなら、一体どこからだ。この記憶すら、事故の後遺症だとでもいうのか。
 叱りつけるようなあの声も、玉ねぎ一つで涙を流した鋭い目も、穂香を抱き締めたあの腕も、最初から全部。その全部が夢だったのだろうか。
 取り落とした携帯が、床に落ちる。
 ピンク色の携帯電話から、大きな花をつけたうさぎのストラップが姿を消していた。




 次の日も、その次の日も、何度しつこく訊ねても、奏はアカギ達のことを知らないと言った。どんな結果でも構わないから本当のことを教えてほしいと頼んだのに、それでも奏は「なにが?」と首を傾げるばかりだ。
 知っていて隠している様子ではない。彼女は本当に、彼らのことを「知らない」のだ。
 当然の流れで、穂香は脳の検査を勧められた。大丈夫だと何度繰り返しても奏が折れることはなく、心配だからと押し切られてMRIで輪切りにされた。
 結果は異状なしだ。だが、医師は「強い衝撃で記憶が混乱することも考えられます」などと進言してくれたらしい。おかげで奏も両親も、穂香の頭が正常ではないと信じきっている。


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