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夢幻の欠片を取り戻せ *26



 白い世界に、墜ちていく。


 甘い花の香りが漂い、優しい風の音が心を洗う。歌うような小鳥の囀りも、清流が奏でる水音も、ここには心地よいと思うものがたくさんあった。
 ふわふわとしたものに身体を包まれていて、ひどく気持ちがいい。
 あまりにも幸せな夢だ。このままずっと眠っていたい。
 ここにはもう、なにも恐ろしいものなどない。誰も穂香を責めないし、傷つけない。悲しい出来事も起こらなければ、つらい出来事も起こらない。ただただ穏やかな時間が流れていく。
 望めばどんなものでも手に入る。優しい家族、かわいいペット、ひらひらとした服に、新しい靴。
 真っ白なベッドに身を沈めて、甘い香りの中で眠る。

 どこまでも優しい、白い世界。
 なのに、誰かが外からうるさく叫んでいる。扉を叩くように絶え間なく、ずっと。
 起こさないで。そっとしておいて。このままずっと眠っていたいの。このままずっと、ここにいたいの。
 そう思うのに、音は止まない。
 何度も何度も、誰かが叫ぶ。

 ――穂香!

 強く自分を呼ぶその声に、穂香はゆっくりと瞼を押し上げた。


* * *



 ――白。
 それが目の前に広がる色だった。
 独特の匂いに混じって、花の香りが鼻腔をくすぐる。光の差す方へと首を巡らせた穂香の目に、鮮やかな花の色が飛び込んできた。
 ああ、きれい。けれどこんな花を、自分の部屋に飾っていただろうか。寝起きの頭はぼうっとしているから、よく思い出せないのかもしれない。今何時だろう。学校に行かなきゃ。
 身体を起こそうとしたけれど、鉛でもつけているかのように全身が重くて動かない。瞬き一つするのすら億劫だ。硬いシーツの衣擦れの音だけが、かすかに聞こえた。

「……ほの?」

 ぽつりと落とされた声は、奏のものだ。花を飾っているのとは反対側の枕元で、奏が驚きに目を丸くさせてこちらを見ていた。
 どうしたんだろう。なんでそんなに驚いてるの?
 そう言いたいのに、乾いた喉がひりついて言葉を発することを許してくれない。そんな穂香に、奏は見る見るうちに瞳を滲ませ、縋るように手を握ってきた。どこからか伸びている何本もの管が揺れ、カチャカチャと聞き慣れない音がする。

「ほのっ、ほの! 目ぇ覚めたんやな、分かる? ほの!」

 熱い雫が、頬に落ちる。
 奏はどうして泣いているのだろう。訳も分からないまま、穂香はやって来た医師の診察と検査を受け、慌てて駆け付けた両親の涙を横たわったまま眺めていた。
 どうやらここは病院らしい。状況を飲み込めていない穂香の枕元に座り、奏がそっと頭を撫でてくる。ひんやりとする手が気持ちよかった。
 まだ頭はぼんやりとするが、水を飲んで潤した喉はようやっと声を出せるようになっている。
 泣きじゃくる両親の代わりに、奏が説明してくれた。

「あんたの学校で立てこもり事件があったやろ? そっから逃げるときに、車に跳ねられたんよ。打ち所が悪かったんか、二週間も意識不明で……。もうほんまに、心臓が止まるかと思ったんやから」
「そんなに……?」

 二週間も眠り続けていたというのなら、これだけ身体が重怠いのも納得だ。定期的に身体は拭いてくれていたようだが、さすがに髪は少し脂っぽくなっていて、お風呂に入りたいなぁとぼんやり思った。
 すでに点滴以外の管は抜かれているので身体の不自由はなくなったが、それでもベッドに縛り付けられているような感覚が消えてくれなかった。

 それにしても、立てこもり事件ってなんのことだろう。それに事故って、どれくらいのものだったんだろう。――足とか折れてるのかな。そう思って軽く足の指を曲げ伸ばししてみたけれど、特に痛みは走らなかった。
 当時の様子を思い出そうとしても、そのたびに頭に靄がかかって邪魔をする。いつも通りに学校へ行って、気がつけば病院だった。まるでタイムスリップしたみたいだ。
 よかったよかったと嗚咽を漏らす母が、泣き濡れた声で「お母さんのこと分かる?」と問うてきた。なにを言っているのだろう。質問の意図が分からないまま頷けば、母はより一層わっと声を上げて泣き、父の胸に拳を叩きつけている。
 傍にいた看護師に、名前と生年月日を確認された。今日の日付は分からなかったが、応えると彼女は笑顔で「大丈夫そうね」と言って病室を後にした。

「先生がな、頭打った影響で記憶障害が出るかもって言ってたんよ。もしかしたら、まあ……いわゆる記憶喪失? っていうのになるかも、って」
「そっか、だから……。でも、だいじょうぶ、お母さん達のことはちゃんと覚えてるよ」
「みたいやな。ほんまによかった」

 涙ぐむ奏が微笑み、優しい手が頬を撫でていく。そうこうしているうちに、看護師が両親を呼びにやってきた。どうやら医師からの説明があるらしい。
 重たい頭を動かして見回したところ、この部屋は個室のようだった。他の患者に気を遣う必要はなさそうなので安心する。
 固まった身体をほぐすように寝返りを打とうとした瞬間、胸に引き攣れるような痛みが走った。

「っ……!」
「ほの!? どうしたん、大丈夫!?」
「へ、平気……。ただ、この辺りが痛くて」
「ああ……。あのな、ほの。その……、あの、事故ったとき、割れたフロントガラスが、その、……刺さってな。結構深く入ってたみたいで、手術したんよ。でも抜いて縫うだけやから、全然心配いらんかってんで、ほんまに! あー、でも、その」

 フロントガラスが胸に刺さった。手術をした。どちらもとんでもない内容だが、それよりも奏が言いにくそうに口籠っている方に気を取られた。
 どうしたのだろう。視線で問えば、意を決したように奏が言った。


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