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「ナガトっ、ナガト!」

 助け起こして何度も揺さぶれば、やっとその目が開いた。安堵したのもつかの間、乱暴なまでに強く抱き締められ、耳元で銃声が響く。
 すぐ後ろで、濁った悲鳴が上がった。

「なにやってんだバカ!」
「無事なんやな? 怪我してない!?」

 感染者を捉え、瞬時に反応できるのなら無事だろう。そう思って詰め寄ったのに、ナガトはぽかんとしてなにも言わない。咳き込みながら身を起こしたソウヤ達も、呆れたように奏を見ていた。
 ――え、なに。なんで。
 訳も分からず辺りを見回す奏の腕を掴んで立たせたカガが、「嬢ちゃん、オッチャンに負けねぇくらい無茶すんなぁ」と笑った。
 ナガトはなにか言いかけたが、結局なにも言わずに立ち上がった。
 その視線の先に、そびえ立つ白い壁がある。よく見ればそれは固く編み込まれた枝や蔦で、籐の籠のような雰囲気だ。だが、一本一本が太く、生半な攻撃ではびくともしない。
 集まってくる感染者達から守るように、ナガトが奏の手を握る。周りを取り囲む隊員達の中、奏は白いドームを見上げた。

「これ、なに?」
「この中にほのちゃん達がいるんだ」
「スズヤ、ソウヤ! ハルナは?」
「アカギと一緒に中にいます。無線通じません!」

 頭から血を流したスズヤの報告に、カガが忌々しげに舌を打つ。
 ドーム状に覆われてしまっては、上から中に入ることもできない。かろうじて隙間は見えるが、この中では一番細身の奏でさえ、腕一本を通すのがやっとの隙間だ。どこか突破口はないのか。
 焦る奏の手をナガトは強く握り締めたまま、飛びかかってきた白いイタチに銃弾を撃ち込んだ。

「大丈夫、アカギがいる。あいつが絶対、ほのちゃんを助ける」

 不安に滲む涙を見られたくなくて、思わず俯いた。痛いくらいに握られた手が、今はなによりも心強い。

「ほのちゃんはあいつが守る。お前は俺が守る。だから信じて。大丈夫だから」

 どれほど銃声が鳴り響こうと、どれほど耳を塞ぎたくなる悲鳴が聞こえようと、どれほどの恐怖と不安に押し潰されそうになろうと、ナガトが奏の手を離そうとはしないから、耐えられた。
 手を握ったまま背に庇われ、土埃にまみれたその背を見ながら、ただ祈るように震える手に力を込める。
 大丈夫だから。それしか言葉を知らないのかと聞きたくなるほど、ナガトは何度もそう繰り返す。大丈夫だから。信じて。深く染み入るその言葉がなければ、すぐにでも大声で喚いていただろう。
 ナガトの声が奏の心を落ち着ける。
 しばらくして痺れを切らせたソウヤが、この壁はどうにかならないのかと吠えたのとほぼ同時、一発の銃声が壁の内側から聞こえた。

「キャああァあああああアアぁアあッ!」

 先ほどの悲鳴とは比べ物にならない、尋常ではないその悲鳴に息が止まった。
 「ほの?」吐息だけで紡いだ妹の名は、みっともないくらいに震えている。耳を劈くこの声は、穂香のものによく似ている。似ているけれど、信じたくなどない。
 頭が痛くなるほどの甲高い悲鳴に、目の前の感染者達が膝を折った。鳥も、犬も、猫もネズミも、次々に力なく地面へ伏していく。
 パキリ。乾いた枝を踏み折ったときのような音が、徐々に広がっていく。目の前の白い壁が端から少しずつ茶色く変色し、細く痩せ衰え、見る見る間に枯れていった。
 誰もが言葉を失った。広く開いた枝の隙間から、向こう側が覗いて見える。そこに、銃を構えた姿のまま立ち尽くすハルナの姿があった。

「え……?」

 ハルナの銃口の先に、人影が見える。ソウヤとカガが枯れた枝を掻き分け、中に飛び込んでいく。
 開けた視界の向こうに、アカギがいた。その背中が、赤黒く染まっている。瞬く間に色を広げていく液体はなんなのだろう。

「アカギ!?」

 ナガトが叫ぶ。奏の手を引いて走ろうとするけれど、奏の足は地面に根を生やしたかのように動かなかった。
 こんなの、嘘だ。
 目の前の光景が信じられない。
 アカギの腕の中に、「白」が見えた。まるでウェディングドレスのように広がった白い樹木が、少しずつ赤く染まっていく。頭を飾っていた白い枝が枯れ落ち、黒髪が広がった。
 アカギの身体が、傾ぐ。
 ぐらりと前のめりに倒れた彼は、それでも決して腕の中の存在には覆い被さろうとはしなかった。優しく抱き締めるように、守るように腕を回したまま、どうと地面に倒れ込む。

「ほの……? 嘘や、なあ、うそやろ……!」

 白く染まっていた葉が、花が、色を取り戻していく。
 冬とは思えないほどの色鮮やかで大輪の花が、あちこちに咲き乱れた。春のような甘い香りが辺りを包む。青々とした緑が広がり、生命の息吹を感じさせるみずみずしい色が溢れた。

 その中に、白が落ちた。
 青空を覆い隠した灰色の雲から、ひらり、はらり、冷たい白い花が舞い落ちてくる。奏の頬に口づけた雪は、熱い涙に溶かされ、消えた。
 
 ――違う、こんなの、違う。
 咲いてほしいのは、こんな花じゃない。
 鮮やかな色の花も、甘い香りの花も、いらない。
 咲き誇れと願った希望の花は、こんな花じゃない。
 これは、違う。

「ほのっ……、穂香、ほのかぁっ!」

 赤に、染まる。
 穂香の胸に深々と突き立てられたナイフが、白すら呑み込む深紅の花を咲かせていた。

「いやぁあああああああっ!」


 ――欠片が落ちる、音がした。


【end*25】


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