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 荒い呼吸が冷静な思考を妨げる。どうにかして落ち着こうと何度も繰り返す深呼吸が、肩の痛みをより鮮明に自覚させた。引きずるほど長かったくたくたの白衣は、今やすっかり短くなっている。ぐっと伸びた身長は確かに自分のものであるはずなのに、目線の高さに慣れず違和感があった。
 目元を覆う長い前髪も、長身を隠そうと丸めた背も、どれも突き刺さる視線から逃れるために身につけたものだった。隠しても逃げても、視線はどこまでも「ハインケル」を追いかける。存在は消せない。どれほど身を縮めても、「ハインケル」はどこにも行けやしなかった。
 だからこうして、こんな形で戻ってくる。

「……君の望みはなに」

 同じ色の金髪が風に煽られて揺れる。勝気な瞳は似ても似つかない。ドルニエは父親似だ。吊り上った目がそっくりだと、この状況でそんなことを思った。
 徐々によみがえってくる記憶に、指先まで震えた。恐怖を超えたなにかが歯の根を震わせ、心臓をよりせわしなく拍動させる。呆然とこちらを見つめるミーティアの視線を感じながら、ハインケルは一つかぶりを振った。
 目覚めるべきではなかった。この身体の中には、おぞましいものが眠っている。起こしてはならない。眠らせておかねばならない。あのときの判断に後悔はない。誰かが試さなければならなかった。自ら道を選んだのだから悔いることはなに一つないけれど、それでも恐怖は消えない。
 頼むから、目覚めるな。

「なにって、バッカじゃないの? あんたのデータに決まってんじゃない! それさえあればなぁんにもいらないの。分かる? あんたの命も、そこのオバサンの命も、なぁんにも」
「このデータは渡せない。……渡さない」
「同じこと何回も言わせないでよ、うっとーしい! あんたの意見なんてどうだっていいの。聞いてないの! ちょっと、早くやっちゃって」

 ドルニエが男達に命じ、手の空いていた一人の男がハインケルへと腕を伸ばした。逃げられないことは目に見えている。ぎゅっと固く瞼を閉ざしたのと同時、硬い声が空気を割った。

「お逃げなさいっ、ハインケル博士!」
「ミーティアさ、」
「黙ってろ!!」
「ミーティアさんっ!」

 屈強な男に腹を蹴られ、ミーティアの身体が小さな呻きと共に前に傾ぐ。苦しそうに寄せられた眉根がぴくりと動くのが見えたが、彼女の勝気な目が開くことはなかった。それでもドルニエは、男達は、愉快そうに三日月のような笑みを浮かべている。力で人を押さえつけて、それでも笑うのか。
 緑の上に伏したミーティアを静かに見つめ、ハインケルはぎゅっと唇を噛み締めた。彼女がどこまでハインケルのことを知っていたのか、そこまでは分からない。ただ優秀な科学者を自国に引き込むことが目的だったのかもしれない。それでも、彼女は言った。英雄の国でハインケルを守る、と。そこにどんな思惑があったのだとしても、優しい声をかけてくれた彼女が、こんなことに巻き込まれるべきではない。あの国は、ミーティアを失うべきではない。

「――彼女は関係ないでしょう。放してあげて」

 あれほど怯えていたのが嘘のような声が出た。
 どうしてあそこまで臆病だったのか、今となってはよく分かる。ずっと視線が怖かった。優秀な学者一族の一人として生まれ、天才児として注目され、期待される成果を残せなければ途端に罵詈雑言が飛んでくる。称賛の裏には必ず嫉妬や嘲りの声が混じっていて、その気持ちの悪さに耐え切れずに、自分は研究室に隠れたのだ。
 半ば自暴自棄になっていた。体内に核を宿すと決めたあのときだってそうだ。死ぬのは怖いと言いながら、どこかでそうなってもいいかもしれないと思っていた。だから思い切れたのだ。
 記憶の一部を失って、体内に宿った未知の恐怖に本能が怯えた。昔と同じように、突き刺さる視線に怯えた。どこまでも逃げようとして――、そして結局、捕まった。

「ちょっとどうしたのよ。あんたそんなキャラだった? ぷるぷる震えるだけが取り柄の子羊ハインケルには、ぜーんぜん似合わない! 気持ちわっるーい」
「ドルニエ、お願いだ。ミーティアさんは関係ない」
「だぁめ。だって、あんた達は選ばれたんだもの」

 「選ばれた」その言葉に戦慄する。
 記憶が戻る前のハインケルも、自らの口でそう言った。
 英雄の国の出であるミーティアと、テールベルトの鬼門であるハインケル。誰もが気づくはずの植物の変化が報告されなかった理由。

「僕らを首謀者として、この国の緑を奪う――それがテールベルトの決定なんでしょう」

 三国一の実績を誇るハインケルになら、それすら可能だ。気狂いの科学者とすら呼ばれているハインケルがどんな暴走をしたところで、もっともらしい理由さえつければ「あの男なら」と周囲は納得するだろう。ミーティアが派遣されたのだって、第二の「緑のゆりかご計画」となればビリジアンの人間が加わるのもおかしくはない。
 白色化しないブラン結合。ブランは記憶装置だ。天然の緑の植物と白の植物にブラン結合させ、無毒の緑を「記憶」させる。白の植物が蔓延したプレートでは、天然の緑であってもブラン結合を引き起こせば白に変わってしまう。だが、このプレートではそうはならなかった。――白から緑を。そうして引き継いだ緑の植物は、あのプレートにとって本当の希望となりうるのだろうか。

「ブラン結合のためには、このプレートに白の脅威が襲う。このプレートの緑が死ぬ。それを分かっていて、上はこの計画を通したの?」
「プレートナンバー3840-C。ここはそれなりに発展してて自然も残ってる。人も多くて空気も無害。だ・け・どっ、最近プレート外に接近しようとしてきて煩わしいったらないのよね〜。でも環境は文句なしだし? 実験するにはもってこいの場所じゃない? あんただってここに来たとき、ゾクゾクしたでしょ? このプレートの緑を見て、そうじゃないだなんて言わせやしない」

 確かに歓喜した。植物が育つのに必要な条件をすべて満たし、テールベルトとそう変わらない建物が並ぶこのプレートで、大地に根を張るのは青々とした緑だ。誰も緑が緑であることを不思議に思わない。植物と言えば緑だと、誰もが迷いなく答えるこのプレートに降り立ったあのとき、興奮と羨望を抱いた。
 ドルニエは意識のないミーティアの足先を軽く蹴って、煽るようにハインケルを見上げた。


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