天泣の夜に [ 7/9 ]



 ――寄るでない、汚らわしい化け物が!


 もう今は、膝を抱えてうずくまるような年ではない。
 けれどもやはりあの嫌悪の視線を受けると、胸の奥の方が小さく――そう、ほんの少しなのだけれど――痛む。別に大した理由などはなかったのだけれど、なんとなく幼少の頃を思い出して政宗はため息をついた。
 これもきっと、あの騒がしい真田の忍達がいきなり押しかけてきたからだ、と半ばこじつけのような解釈をして唇を噛む。先ほどまでうるさいくらいに賑わっていた部屋はがらんとしており、夕日の差し込む障子がやけに遠くに見えた。音は不思議とない。聞こえてくるのは自分の鼓動、吐息、それから脳裏に響くあの人の声。
 その残像を掻き消すように忍達を思い浮かべようとして、彼はふるりとかぶりを振った。そのままずるずると柱に背を預けて座り込み、高い天井を見上げる。視界の端に己の鼻先が見えたが、それは右によっているように感じた。
 ――それもそうだろう。左目でしか、見ていないのだから。
 女中達の声は聞こえず、いつもは傍にいる景綱も執務で部屋に篭っている。他の家臣たちはよほどの用がなければ訪れないし、正室の愛姫がここに来ることはまずない。正真正銘、彼は今、独りだった。
 真田十勇士達が帰ったあとはいつもこうだ。それまではひどくうるさくて消えて欲しいのだが、帰ってしまえば言葉では言い表せない空虚な思いが生まれる。寂しいといったものではない。けれど、日常がどこか遠く感じられるのだ。

「迷惑な話だ……」

 源二郎信繁はどうだろうか。いつも飄々としていて、なにを考えているか分からない。戦場で出会ったときはぞっとするほどの気迫を持つが、普段はへらりとした雰囲気を醸し出している。口調がころころと変わるのが気になるが、別にどうでもいいことだ。どんな喋り方をしようと、源二郎は源二郎なのだから。
 ひとしきり意識を彼らに向けてから、政宗はこつんと柱に頭を預ける。ゆっくりと瞼を下ろせば、幼い頃の情景が浮かび上がってきた。そこにいたのは、泣いてばかりいた弱い、自分。

「……っ」

 声が響く。近寄るな、姿を見せるな。ああどうしてお前なのだ、お前には相応しくなどない。憎悪の声だ。
 けれど何故か憎めない。いっそ恨んでしまえたら、楽に慣れたのだろう。歯のぎりりという音が、顎から伝わって聞こえた。
 手を伸ばそうと、届かない。この絶望から救い上げてくれる手は、きっと存在しないのだろう。いつまでも景綱に頼っているわけにはいかない。自分はこの城を、この地を、率いて守るべき存在なのだから。
 どれほどの思いがこの胸を襲ったところで、どうすることもない。ただ前に進むだけだ。
 さっと撫でるような風が吹いた。長い後れ毛を攫い、首筋をくすぐったそれに政宗はそろそろと瞼を押し上げる。そして飛び込んできた光景に、彼はかっと目を見開いた。

「なっ、なっ……!?」

「なんだ小僧、随分と間抜け面だな。……おや、六羅はおらぬか」

 悠然とそこに立っていたのは、一人の女だった。それもただの女ではない。髪は銀、瞳は金。鼻梁はすっと整っており、唇は紅を引いたように赤い。見目整ってはいるが、彼女の頭には髪と同色の狐の耳がひょこんと突き出し、後ろにはふさふさとした四尾が揺れている。服装は真っ白な布を巻きつけただけのようで、風もないのに揺れる衣は絹よりも美しかった。
 どこからどう見てもこの女、人間ではない。
 女はきょろきょろと辺りを見渡すと、腕を組んだまま政宗の方へ歩いてきた。反射的に息を呑み、腰に佩いた太刀を手に掛けるも、それは彼女の嘲笑じみた笑みによって遮られる。

「寄るなっ、化け物!」

「ほう……我を化け物と呼ぶか。くくっ、偉くなったものよなぁ、人も。お前がそれを言うのか、一つ目の竜よ」

 くつくつと笑いながら、女は政宗の前に屈みこんだ。金の目に視線を合わせられ、ぞくりと肌が粟立つ。刀は上から女に押さえ込まれ、動かせる状態ではない。
 女の視線が右目に移動したのを感じ、政宗はかっと頬が熱くなるのを自覚した。

「違ったか? 脆弱な人の分際で、竜と呼ばれる小賢しい小僧。それはお前であろう?」

「何故、俺のことを……」

「愚かな天狗が時折、お前の話を零すのでな。まあもっとも、今日はいないようだが……」

 ちらと再び辺りに視線を向けた女は、まあいいと呟いてどっかりと腰を下ろした。男らしく胡坐を掻いて座る様は、その容貌には不釣合いだと思ったが、口に出せるほど政宗に余裕はない。
 それでもぎっと強くねめつければ、女はおもしろそうに喉の奥で笑い声を上げた。

「なにがおかしい!」

「そうがなるな。人の子よ、名をなんという?」

「化け物に名乗るような名など、持ち合わせておらぬわ! 即刻この場から立ち去れ、でなくば切り伏せるぞ!」

「真に威勢だけはいいな。この崇高な天狐族の長を化け物呼ばわりとは……無知とは実に、嘆かわしい」

 にたりと口端を吊り上げて言った女を見て、政宗は何度か瞬いた。
 天狐。確かに今、彼女はそう言った。
 妖には詳しくない政宗でも聞いたことはある。気の遠くなるような長い時を生き、千里眼を備えた神に通ずる狐。神の一歩手前である彼らは、絶大な力を持っているのだという。
 そんな天狐の、それも長が何故このような場所にいるのだろう。

「……おや、ようやっと黙ったか? 哀れな人の子」

 この天狐は、どうやら人の気を害するのが好きらしい。漠然とそう判断して、政宗は文句を言おうと口を開ける。
 だが、大声が喉から滑り出すよりも早く、天狐のしなやかな指先が右目の眼帯に触れていた。

「触るなっ!」

 反射的にそれを振り払うも、一歩遅かった。天狐の指先は眼帯の結び目をしゅるりと解き、右目を覆い隠していたそれを訳もなく取り去ってしまったのだ。
 今まで隠されていたそこに、外気が触れる。ひやりとした感覚の数倍心臓は冷え、政宗は慌てて右目を手で覆った。眼帯を取り返そうとしてもがく反対の手は、虚しく空を切るだけだ。
 くるくると天狐の手によって遊ばれている眼帯を睨み据え、彼はついに怒鳴った。

「それを早く返せ化け物! たかが畜生の分際でよくも――」

「黙れ小僧」

 それまで飄々とした笑みを称えていた天狐の纏う空気が、一瞬にして鋭いものへと変化した。びりびりと肌を刺すそれに、自然と体が竦む。戦場では感じたことのない、はかりしえない恐怖が目の前に差し迫っていた。
 きつく細められた双眸が突き刺さる。目だけは閉じるまいとそれを睨み返したが、その途端視界がぐらりと大きく傾いた。状況を理解するよりも先に、両の手首にぎり、と鈍い痛みが走る。ついで後頭部の痛みを感じて、思わず眉根を寄せた。
 はらりと落ちてきたのは己の前髪と、この世のものとは思えない美しい銀の糸。陰になった秀麗な顔立ちの向こうに、見慣れた天井が見えた。 
 そこでようやく、組み敷かれたのだと理解する。

「はなっ……!」

「無様よの、この姿は。お前は先ほどから化け物化け物と吠えるが、どうだ? お前のこの姿の方が、よほど化け物じみておろう。人にしては、なんと醜いことか……」

「っ、うるさい黙れ! 貴様になにが分かる、得体の知れぬ化け物にそのようなことを言われる筋合いはない!」

「…………げにうるさき小僧よ。その舌、我が抜いてくれようか? さすれば、お前はなんと呼ばれるのだろうな? もはや竜ではなく、化け物と呼ばれるやもしれぬなぁ」 

 天狐の右手が離され、ひたと首筋に当てられた。見ずとも分かる。刃のように鋭い爪が首の――それも、どくどくと脈打つ太い血管の上に当てられている。少しでも動けばそれは喉を裂き、いとも容易く命を奪い去っていくだろう。
 体が感じるのは死に対する恐怖ではない。もっと本質的な、本能が訴える「死」を越えたなにかだ。ぞくりと身が震える。解放された左腕で押し返そうとするも、その華奢な体躯にどれだけの力が眠っているのかと聞きたくなるほど、彼女はびくともしなかった。
 もがけばもがくほど、右の手首が折れそうなほどに強く押さえつけられる。上から降ってくる金の視線と嘲りに、どうしようもない焦燥を覚えた。
 天狐の指がすうっと喉を滑り、顎にかかる。いっそ噛み付いてやろうかと考えたが、それを察知したのか彼女の手は早々に口元を去って、今はもう開かれることのない右目に触れた。
 ――嫌だ。
 言い表せない嫌悪感が全身を駆け巡る。ぐっと唇を噛み、無駄だと分かりつつも政宗は床に転がった刀に手を伸ばした。

「――遅い」

 ぱたた、と軽い水音が耳朶を叩いた。
 政宗は瞠目する。左手に握った刀から、確かに手ごたえを感じたのだ。無駄だと思った。人ではない、それも神に通ずる天狐に適うわけがないとそう思っていたのに、流れたのは政宗の血ではなく、彼女のものだった。
 闇雲に振りかざされた刀身を手のひらでなんなく受け止めた彼女は、滴り落ちる鮮血を眺めてにぃと笑う。政宗を押さえつけていた上体を起こすと、さらに手に力を入れて強く刀を握ってきた。
 ぼたぼたと多量の赤が流れ落ちる。それは政宗の着物を汚し、果ては畳にまで赤黒い染みを作っていった。
 半ばその光景を呆然と眺めていた政宗だったが、鼻をつく血の香りにはっとして柄から手を離した。しかし、刀は刃先を天狐に握られており、地に落ちることはない。彼女はおもしろそうに瞳を細めて刀をひょいと放り投げ、一回転させて柄を握りなおす。
 ようやっと上体を起こし、両腕で体を支えていた政宗の右目に、その切っ先が突きつけられた。

「“化け物”の血は、お前達人間と違う色をしていたか?」

 からかうようなその問いに、政宗はどくりと大きく心臓が跳ねたのを自覚した。耳の奥でばくばくと騒ぎ立てる鼓動のせいで、目の前の出来事に集中できない。ひやりとした感覚が右の瞼に宿る。刃が当たっているのだと悟ったが、恐怖はなかった。
 ただ、何度も何度も胸のうちで繰り返される「言葉」が痛い。

「我は、醜いか?」

 ――俺の右目は、そんなにも醜いか?

「我が、憎いか?」

 ――母上は、俺が憎いのか?

「どうだ、“化け物”。我を殺すか?」

 ――“化け物”だから、俺は殺されるのか?

「……っ、俺はっ、俺は“化け物”などではない! 戦場を駆ける奥州の覇者、独眼竜ぞ!」

 何度も何度も聞かされた声。
 それと同じだけ、いや、それ以上尋ねてきたこと。
 そのすべてが目の前の天狐に引きずり出され、そして霧散した。
 独眼で睨み据えるは金の双眸。右手で思い切り刀を払い除ければ、その拍子に腕が切れたのか僅かな熱が走った。かしゃん、と軽い金属音がして天狐の手から刀が離れたのが分かる。
 ふつふつと湧き上がる思いを言葉にするだけの余裕はない。それがとてももどかしく、肩で息をするしかできない政宗は黙って彼女を睨み続けた。
 白銀の天狐は微動だにしない。
 ――殺されるだろうか。別にそれでもいい。いつだって死は覚悟している。ただ、戦場でないのが残念なだけだ。
 胸中で数えたのは十。短くも長いその時間が過ぎると、天狐は突然腹を抱えて笑い出した。

「ふはははっ! なるほどな、あくまでも人の道は進まぬか。存外、己を弁えているらしいな、一つ目の竜よ。そのまなこ、竜には到底及ばぬが、大蛇ほどの強さはあるぞ」

 気に入った、と続けて笑う天狐は、ばんばんと血に濡れた手で畳を叩く。おかげでくっきりと血の手形がいってしまったその箇所をぽかんと見つめ、政宗は今の状況を理解しようと頭を急速回転させた。
 いきなり天狐がやってきた。散々人を侮辱したと思ったら組み敷かれ、あげく殺されかけた。……が、今はこうして目の前で無防備に大笑いしている。

「い、一体なんなのだ貴様っ!」

「ん? 記憶力が悪いな。天狐だ。せいぜい崇めろ」

「俺が言いたいのはそういうことでは――」

「天狐月乃女。つきのめ、だ。覚えておけ、一つ目の竜」

 にたりと笑いながら天狐――月乃女は血の滴る腕に舌を這わせ、政宗から目線を外さぬままそれを手のひらまでゆっくりと舐めあげていく。その妖艶な仕草に言葉を呑むも、立て続けに起きた現象に、彼は本日何度目か分からぬほど目を大きく見開いた。
 ゆっくりとだったが、彼女の手のひらの傷が塞がっていくのである。血が完全に舐め取られると手のひらは綺麗な白魚のそれに戻り、刀を握った痕跡などまったく見受けれない。
 政宗の視線を受けて、月乃女は「舐めてやろうか?」と意地悪く笑いながら彼の腕を指差した。

「いらぬっ、化けもっ……てん、こめが、余計なことをするな!」

 化け物、と言おうとして言い直されたその言葉に、今度は月乃女が軽く目を瞠り、ぱしぱしと何度かしばたたいて表情を緩める。

「忘れるな、一つ目の竜。化け物という言葉はな、人間が生み出した。人間だけだ。人ではないものを恐れ、忌み嫌い、避けようとするものは。自分と同じでなければ、それはもう“化け物”だ。同じように地を歩いていようが、同じように空を眺めていようが……己の思考と追いつかなければ、その存在は異質なのだよ。お前達の言う“化け物”共の間には、かような言葉は存在しない」

 己と違う存在。それが当たり前の世界。
 それなのに人は何故異なるものを排除しようとするのか。

「人は弱い。故に我らを恐れるのは仕方のないことだ。だが、人は同じ人をも忌む。我らには、それが解せぬ」

「……貴様らには、ないのか。同種族で争うことが」

「さあ、な。弱ければ突き放される。それだけだ。我らは人のように群れることがあまりない。種族にもよるだろうが……少なくとも、我ら天狐は皆が皆、自由に過ごしておる。他者との関わりはないし、関わろうとも思わん」

 ああだが、と月乃女は思い出したかのように続けた。

「人と馴れるのを好む愚かしい天狗を、我は知っているぞ。人間にも我らにも、例外はいる」

 くつくつと月乃女は肩を震わせ、すっくと立ち上がった。帰るのかと尋ねれば、泊めてくれるのかと返される。全身全霊で拒否すれば、彼女はまたしても大きく笑って四尾をひょんひょんと揺らしていた。
 人にあらざる姿。だがそれは、もう異質なものには見えない。

「地に這う一つ目の竜よ。化け物ではないと言うならば、天へ駆けてみろ。それでもまだ人にしがみつこうとするならば、憐れみをもって我はお前を人にしてやろう。……その崇高な精神、墜とすでないぞ」

「おいっ、待て!」

 それだけを言い残すと、月乃女はひらりと手を振って庭へと飛び降り、なんなく塀を乗り越えて外へ飛び出していってしまった。一人残された政宗は、思わず飛び出た静止の言葉に驚いて口を覆う。
 どうして引きとめようとしたのか、など自問しても答えは出ない。


 ――化け物。
 そう、多分俺はもはや人ではない。
 ならば、人ではなく竜となろう。人を喰らい、守るべき者達のために安穏を与える、一つ目の竜と。


 吹き込んできた夜風に目を眇めて外を眺めれば、そこはすっかりと日が沈み、代わりに太刀のように細い三日月がゆらゆらと浮かんでいた。
 落ちていた眼帯を拾い上げ、右目を覆う。そして再び、瞼を伏せた。
 そこにもう、膝を抱える子供の姿は見えない。



(なあ六羅、今日一つ目の竜の元へ行ったか?)
(ええ、源二がぜひ一度見てこいと言うものですから。それがどうか致しましたか?)
(いいや、おかげでいいものを見れた)
(……? 随分と、機嫌がよさそうですね)


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