真夏の雪 [ 6/9 ]



 ひらひらと舞い落ちてくるものを目にし、男が眉を寄せた。空に手のひらを向ければ、触れたのも分からないほどそっと静かになにかが乗る。
 まるで鵝毛のようなそれは、間違いなく雪だった。手のひらの熱にあてられてじわりと解けていく。しかし、冷たさは残らない。
 男はますます訝った。今は夏も夏、蝉がうるさく騒ぎたて、じっとしているだけで汗ばむ真夏なのだ。それなのに雪とは、異様すぎる。
 しかし、そんな男の疑問とは裏腹に澄み切った空からは絶え間なく真っ白な雪が降り続ける。しばらく空を睨んでいたが、そこで男はぴんときた。

「……才蔵」

「なに? 呼んだ?」

 音もなく生じた気配に、男は振り向く。闇に溶ける装束を身に纏い、少女と見紛う愛らしい顔立ちをした少年が特に感情を表した様子もなく立っていた。とことこと男の傍に歩み寄ってきて、もう一度彼は「なに?」と問うてくる。
 男は空を指差し、ゆっくりと視線を雪に向けた。

「この雪はお前の仕業か?」

「ああ、うん。源二郎様が暑い暑いって駄々こねるから。霧より難しかったよ」

「……珍しいな、お前が忍術を乱用するなんて」

「今すぐ雪降らせなきゃ佐助に頼んで奥州まで行く、なんて言われたら断れないでしょ」

 佐助という単語を聞いて、男は妙に納得した。
 才蔵は忍術を得意とし、特に霧を発生させる術に長ける。戦場では敵の目を晦まし、大いに役立つ忍術を応用して雪に変えるなど生半な術者ではできないだろう。雪とは言っても元の気温が高いため、冷気もなにもないが、見ていれば確かに気分は涼しくなるというものだ。
 どこか疲れた様子の才蔵を見て、軽い労りの言葉をかけてやった。すると、彼はほのかに笑んで近くの壁に背を預ける。

「この屋敷の周りにしか降らせてないから、騒ぎになることもないだろうしね。まったく、忍のくせに家信まで暑い暑いってうるさいんだよ。信じられる?」

「あいつは元からおかしな奴だろう。今に始まったことでもない。それよりも、源二郎のあの我侭の方が問題だな」

「信幸様の前では余裕綽々って感じで、汗一つ掻いてなかったのにね。それなのにあの方が帰った途端、あの調子」

 困った主だよ、と呟く才蔵の声に言葉ほどの呆れは含まれていなかった。反対に慈しむような色合いが込められており、それは舞い降りる雪に反映されているかのようにさえ思われる。
 男――由利鎌之助は、胸元をくつろげてだらりと畳に溶ける主の姿を思い浮かべて、より一層険を強めた。

「あれで嫁なんてもらえるのかなぁ……。まあ、中途半端な女じゃ認めないけど」

「それは俺達が口出しできることじゃない。源二郎が――いや、昌幸が決めることだな」

「……分かってるよ。でもさ、やっぱり…………源二郎様には、幸せになってほしいんだ」

 だから、と言葉を続けようとする才蔵の頭を、鎌之助は腕を伸ばしてくしゃりと撫でた。本当に男かと疑いたくなるようなやわらかな紫黒の髪が、指の間を滑り落ちていく。昔から撫で慣れたこの頭の形が、手のひらにしっかりと記憶されていると気づくのはもう少し先のことだ。
 大きなまなこで見上げてくる才蔵を見下ろしながら、鎌之助は胸中に溜まっていた思いをため息に変換して吐き出す。
 ちらちらと降り続く雪を視界の端に映しながら、どうしたものかと思案した。

「……いっそ、お前が源二郎の嫁になるか?」

 その言葉に、才蔵の大きな目が零れ落ちそうなほど驚愕に見開かれ、自分でもらしくないことを言ったのだと悟る。
 失言を訂正しようと鎌之助が口を開くよりも先に、未だ驚いた表情で才蔵が言う。

「びっくりした……。君でもそんな冗談言うんだ?」

「……悪い」

「別に。女みたいって言われるのは慣れてるし。それにこの顔、結構役に立ってるんだよ。まあ、確かに不愉快ではあるけど」

 さらに気まずそうに眉間にしわを刻んだ鎌之助を見て、「だからいいんだってば」と才蔵は付け加える。
 初めて才蔵に会ったとき、鎌之助は彼を少女と思い込んでいた。そのとき強烈な棘を含む皮肉を言われたものだから、今回もなにかしらの報復があると思っていたのだが違ったようだ。
 思えば初めて会った頃に比べれば、才蔵の性格も随分と変わってきた。それも少しは関係しているのかもしれない。
 それらの全ては彼らの主、源二郎の力で引き起こされたものだった。

「でも、たとえ僕が女だったとしても、源二郎様の嫁にはなれないだろうな」

「何故だ?」

「だって僕、忍だよ。当然でしょ。……それに、あの人を幸せにしてあげられるような女なんて、そうそういないよ」

「まあ確かに、言われてみればそうだな」

「……いるとしたら、一人だけ。ありえない話だけど」

 彼を本当に幸せにできることのできる人間など、果たしてこの世に存在するのだろうか。あの本人でも気づかない深い闇から彼を救い出す人間が、現れるのだろうか。
 答えは限りなく絶望に近い。だが、たった一人、心当たりがあった。けれどそれはどう足掻いても、叶わない幻想にすぎない。
 その結末は誰も望まない。否、望んではいけないのだ。
 真夏に雪が降るように、「それ」が起こる可能性は低い。こうして塗り固められた虚像ではなく、真実を得ようとするならば特に、だ。
 桜の花弁のように零れていた雪が姿を消した。才蔵の集中力と、この暑さに全て消えてしまったのだろう。外では他の雑音を許さないとでも言うように蝉がけたたましく鳴いている。儚い命の全てを懸けて、見苦しいまでに必死に生きている。

 ――もしあの人が、蝉のように大きく声をあげたのなら。
 大声で生を叫び、幸福を望み、伴侶を求めたのならば。もしも彼らの主がそうしたのならば、彼ら忍達は他のなにを投げ打ってでも彼のために駆けずり回っただろう。
 それこそこの国の北から南、全てを巡って彼に見合うような女を捜したに違いない。そして戦乱のない泰平の世に住まわせ、生涯彼とその妻のために尽力したことだろう。
 それほどまでに、生や幸福に貪欲であったのならば。
 けれど現実はそうではない。静かに、本当に静かに生を重ねる様は先ほどの雪にも似ていた。蝉とは大違いの、蝶のようなものだ。むしろ、そのさなぎに近い。
 ぼうっとしていた鎌之助の衣の袂を、才蔵が引いた。視線を落とせば、漆黒の双眸とかち合う。

「ありえない話ついでなんだけど。鎌之助だったら、どんな人を嫁にしたいわけ?」

「………………は?」

「忍だからそんなのありえないっていうのは分かってる。でも、たとえばだよ。たとえば」

「……別にない」

「なにそれ、おもしろくないんだけど。なんかないの? 独眼竜の嫁みたいなのだとか、上杉中納言殿の嫁みたいなのだとか」

 脳裏にぽんっと二人の女性が浮かんできたが、どちらも様々な意味で耐えれそうにない。さらに深くなった眉間のしわを見て、才蔵が小さく唸った。

「賢い女の方が似合いそうだけど……でも、うーん。奥方みたいなのだと、ちょっと無理だよね」

 奥方とは、源二郎の母であり昌幸の妻である山手殿を指していた。単なる気が強いというような女性ではなく、彼女は身の内に闇と刃を備えている。確かに合わないだろうと考えて、鎌之助は嘆息した。
 才蔵がこのようにありもしない話をするのは珍しい。いつもは無駄だと言って切り捨てる立場にいるくせに、今日は一体どうしたというのだろうか。
 真剣に考え始めた彼を前に、鎌之助は再びどうしたものかと思案した。そしてふと、自分の性格についてくることができる人物像が思い浮かぶ。
 ぱちぱちと何度かまたたいて、口元に手を添えて唸る才蔵を見下ろした。視線を感じてか、彼の瞳が開かれる。

「どうしたの?」

「……いや」

 外ではひたすらに生を叫ぶ蝉の声と、止んでしまった雪に不満を漏らす源二郎の声が共鳴していた。



『娘、怪我をしたくなければ下がっていろ。邪魔だ』

『……邪魔かどうかは、その目で判断しなよ。ああでも、節穴みたいだから当てにはできないけどね』

 挑戦的な笑みが抜き身の刃のような視線と共に向けられる。「彼女」が構えた鉄扇が、冬の切りつけるような寒さの中できらりと光った。
 全てが終わったそのとき、「彼女」は返り血一つ浴びずに月下のもと振り返る。ひたと据えられた双眸の強さに、戦慄にも似た感情が襲ってきたのを認めざるを得ない。
 嘲るような笑みが、舞い落ちる雪の向こうで創られた。

『――霧隠才蔵。一目惚れしそうなところ悪いけど、女じゃない。まあもし、そんな感情を抱いてたとしたら……』

 そこで「彼」が、踵を返す。

『迷いなく、殺すから』

 それが「彼」との、出会いだった。
 しんしんと雪の降り積もる、寒々しい冬のある日。生は静かに鳴りを潜める、そんな満月の美しい夜だった。


「あ、そういえばさ、源二郎様の嫁って案外鎌之助みたいな性格の女がいいかもしれないよね」

「………………それはないだろう」

「そう? そんなことないと思うけど」




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