慈雨の音は、 [ 5/9 ]



 誰も、そう、誰も。
 悲しむことなど、ない。


 深い闇の中にいた。鼻につくのは嗅ぎ慣れた鉄にも似たにおいだ。けれど、それに伴って聞こえるはずの喧騒は今はない。どうしたものかと首をめぐらせた彼の目に飛び込んできたのは、表情を消した主の姿。どうしたのかと声をかける。しかし、彼は応えようとはしない。
 突然、彼が力なく笑った。あの天狗と語り合うような笑顔ではない。奥州の竜をからかうような笑みではない。それは今まで見たこともないような――否、気づかないふりをしてきただけだった――笑みだ。
 ぞくり、と焦燥が全身を寒気となって駆け巡る。名前を呼んだ。けれど彼はこちらを見ようとせず、ただ静かに笑っている。その瞳にもはや生気はなく、ただただ死を待ち望む廃人のようにさえ見えた。違う。違う。このようなことがあってはならない。ならばここはどこだ。今、あの方はどこにいる。ああ何故、この声に応えない。
 焦りばかりが襲いたて、なに一つ満足に考えられない。すうと深く息を吸い込めば、彼がこちらを見ているのが分かった。彼の髪が風に攫われてふわりと揺れている。いつものことだ。いつものことなのに、何故だろう、この奇妙な感覚は。
 そして突然、彼は微笑み――燃えるような赤に、染まった。


「っ――! ……ゆ、め」


 ひゅうひゅうと喉の奥が掠れて風のような音を立てていた。じっとりと汗で湿った前髪を掻き上げ、才蔵は肺の中の空気を入れ替えるように大きく深呼吸をする。よほど疲れていたのだろう。柱にもたれて居眠りをしていたらしく、硬い木に押し付けていた腰がじくりと痛んだ。
 それにしても、嫌な夢だ。主が死ぬ夢など、忍が見るようなものではない。もっとも、忍が夢を見るほど眠りの世界に囚われてはいけないはずなのに。ありえないと一蹴するには、あまりにも生々しすぎる夢の感覚に才蔵の心臓は氷付けにされたかのように冷えていた。ばくばくと主張し続けるそこに手を当てて、もう一度深呼吸をする。
 これは夢。そう、現実にはありえないただの夢だ。
 そのはずなのにどうしてか、夢の中で感じていた焦燥は未だ心にくすぶっている。くそ、と吐き捨てて拳を畳に叩きつければ、その音を聞き取ったのか間近に一つ気配が生じた。

「どうした?」

「なんでもない。……鎌之助の方こそどうしたの。顔色、悪いけど」

「……ああ、別になんでも」

「ふうん……」

 奇妙な沈黙が訪れる。ようやく呼吸を整えた才蔵は、背後に立つ鎌之助の気配を感じながらゆっくりと瞼を下ろした。俯けば紫黒の髪が流れ落ちてくる。頬をくすぐるそれは、かつて源二郎が褒めてくれたものだった。闇に溶ける紫がかった黒。綺麗な色だ、と言って笑った彼の顔が瞼の裏に浮かぶ。
 鎌之助が腰を下ろしたのが畳から伝わる振動で感じられた。才蔵はぐるぐると渦巻く思考を整理して、何度か逡巡したのちうっすらと唇を割り開く。

「…………夢を、見たんだ」

「夢?」

「そう。神社みたいなところで、源二郎様が傷だらけになって休んでる。助けたくても僕はそこにはいない。ただ、見てるだけ。鎌之助も家信も、あんなにうるさい佐助だっていない。どんなに呼んでも、源二郎様は応えない。壊れた人形みたいな顔して、空を見てるんだ」

 そこで一旦才蔵は言葉を区切った。両膝を抱えるようにしてうずくまり、膝頭に顎を乗せて息をつく。
 才蔵、と名前を呼ぶ源二郎の声が耳によみがえった。

「血だらけになって、満身創痍で、つらそうなのに……ほんの少しだけ、源二郎様が幸せそうに見えた。帰ってきてよって叫んだら、誰かがやってきて……源二郎様に、刀を向けたんだ。そしたら源二郎様、笑いながらなにか言って――」

 それで、と言った先の言葉が紡がれることはなかった。しかしその先を悟った鎌之助は、そうかと頷いて黙する。
 言葉に出した痛みに、才蔵はぎりりと唇を噛み締めた。やわらかな皮を突き破って流れ出たのは血だが、それに彼が気づいた様子はない。ともすれば泣き出してしまいそうな顔をして、彼は続ける。

「……最期に、源二郎様が“悲しむはずがない、誰も。俺が消えたところで、誰も変わらない”って、言った気がした」

 俺はひとりだから。
 夢の中で、源二郎はそう言った。魂の篭らない顔で、声で、弱弱しくもありながら力強くそう言ってのけた。
 それはたとえ夢といえど、源二郎を心の底から敬愛し、守ると誓っている十勇士の面々にとってはなによりも酷い裏切りの台詞だった。
 それほどまでに我らは信ずるに値しないか。この思いは届かないか。それとも、重荷になっていただけだったのか。ああ、一体どうすれば。
 守りたい。傷ついてほしくない。血に濡れた彼は確かに美しいが、しかし本当はその身が血に濡れることなどなければいいと思う。あの両腕が抱くのは、彼自身の命だけでいい。他者の、名も知らぬような者の命を永遠に抱き続けることなど、しなくていい。
 生きて、生きて、どうか、最後まで笑っていて。
 それだけが真の願いだ。
 だのに彼らの主はそれは違うのだという。笑っていても、傍にいても、大切だと、口にしても。それでも心には薄い薄い膜を張って触れ合うことを避けている。なにがあっても守りたいのに、どんなものからも守ってみせるのに、“彼自身”から彼を守ることはできない。
 ひとりきりで果てしない闇の深淵に沈み、彷徨う恐怖といったらどれほどのものだろう。それを分かっていて救えないものの苦しみを、彼は知っているのだろうか。――きっと彼は、なにも知らない。

「…………馬鹿だよ、源二郎様」

「ああ、そうだな」

「分かってないんだ。ひとりなんかじゃない。源二郎様は、決してひとりなんかじゃないのに」

「ああ」

「夢だって分かってるけど……でも、悔しい。やっぱり僕らじゃ、あの人を救えないのかな」

 光を求めて彷徨い、己を見失い、それでも必死に生きようとしているあの人を。

「僕も……天狗だったらよかったのに」

 人でなければ、彼は心を許してくれただろうか。本当の彼を、見せてくれただろうか。人で、なければ。
 だからこそ人ではない、道具だと散々主張してきたのに、源二郎はその言葉を首を振って否定した。忍とて人間だ、心を持った大切な真田の者だ。そんな台詞を吐くくらいならば、いっそお前達はただの道具だと言ってくれた方が幾分か楽なのに。
 心を持ったと言うのなら、どうして主の死を悲しまないと思えるのだろう。絶対の信頼を示しているくせに、彼は今一歩のところで身を引いている。人間だから、だ。どれほど身分の差があろうと、本質は誰も変わらぬ人間だからだ。彼はそれを、心のどこか――本人も気づかないほど奥底――で恐れている。
 悲哀を瞳に浮かべ、才蔵はふるりとかぶりを振った。

「いつまで盗み聞きしてるつもり、家信?」

「……あっちゃー、バレてた?」

「僕のことなめてるの? ……鎌之助にしか、話す気なかったのに」

 すっと天井から降り立った家信の姿を見咎めて才蔵は呆れたように双眸を細める。後ろで鎌之助がまったくだ、と呟いて両者のもの言いたげな視線が家信へと突き刺さった。
 それを受けて居心地悪そうに家信がたじろぎ、ぽりぽりと頬を掻きながらどうしたものかと思案する。けれど盗み聞きしていたことも、また、才蔵がそれを許したことも事実だったので彼は開き直って話に加わることにした。その場に腰を落ち着けて才蔵の顔を覗きこむ。訝る彼の大きなまなこを覗き見て、ふわり、と笑んでみせた。

「なあ、才蔵。そんときの源二郎サマって、今と変わらん姿やった?」

「……うん。だけどそれがどうかした?」

「なんでもないよ。でも、それやったら大丈夫やって。源二郎サマはピンピンしてるし、あの人は……うん、たとえ殺しても死なへんよ。信幸サマと血ぃ繋がってんねんで? だいじょぶだいじょぶ」

「別に分かってるよ、そんなこと。ただの夢だし。ね、鎌之助」

「ああ」

「なんか由利ちゃん、さっきから“ああ”しか言ってなくない? そんなんやから口下手で無愛想でむっつりって言われ――」

「黙れ」

 しゃん、と金属の擦れ合う高い音が響いた。ついでじゃらりと重たい鎖の音が聞こえ、家信の頬に冷たい鎖鎌の刃先が押し付けられているのが見て取れる。両手を挙げて降参の意を示した家信に、鎌之助はため息をつきながらも鎖鎌をどけた。
 それにしても、と家信はひとりごちる。

「源二郎サマって、ほんま愛されてんなぁ……」

 このときの家信の台詞がどんな意味を持っていたかなど、才蔵にも鎌之助にも分かるはずがない。
 夢の中の源二郎は今と変わらぬ、若い姿のままだった。だから大丈夫だと、彼は言う。
 夢であれ。この不安も、焦燥も、すべて夢であれ。
 そして次に会うあの人が、どうか微笑んでくれますように。



 真田源二郎信繁
 元和元年五月七日、享年四十九で討死
 大坂の役にて奮闘するも、大坂夏の陣にて安居神社で西尾仁左衛門に首を授ける



 ――真田日本一の兵。古よりの物語にもこれなき由。



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