よくよくと、よくよくと [ 3/9 ]



 夜の山には近寄るな 血色の天狗に喰われるぞ
 朝の山には近寄るな 血色の天狗が目を覚ます
 昼の山なら入ってよし 血色の天狗は身を隠す

 童子達のわらべ歌を耳にした幸隆は、小さく笑って遠くにそびえる山を眺めた。雲の笠を被った山頂を見上げていたら、後ろから妙齢の女性に声をかけられる。
 くるりと振り向けば、そこには見知らぬ女性が立っていた。

「……どちらかな」

「よくよくと、よくよくと。鳴く鳥山の入り際に」

「おお、そうか。それは助かる。ではな、失礼するよ」

 もし第三者が彼らの会話を聞いていれば、その奇怪さに眉をひそめたことだろう。しかし幸隆は女の暗号めいた歌のような言葉を聞き、満足そうに頷いて山を目指していく。
 足取りは軽い。戦に行くときよりも幾分か高潮している気持ちを宥めつつ、彼は「天狗の棲む山」を目指した。どうしてわらべ歌の始まりは朝ではなく夜からなのだろう、などと取り留めのないことを考えながら。
 そうこうしているうちに薄く雨が降り出した。濡れ鼠になって困るほどでもないため、風流だと得意げに鼻を鳴らして進む。すれ違う者は皆、笠を着るか雨宿りができる場所に駆け込み、上機嫌に歩く幸隆を不思議そうに見つめていた。

「まつとしきかば いまかへりこむ。お前はどうだろうな、六羅」

 小さな体躯の天狗は、人形のような顔をいつも呆れと怒りに染めている。それが時折悲しげに俯くのを幸隆は知っていた。
 そしてそれを天狗自身が知らないことも、彼は知っていたのだ。
 しばらくして山のふもとに差し掛かる。既に着物は濡れて重くなってしまっているが、足取りは依然として軽いままだった。
 最早人影さえ見えぬ場所まで突き進み、大木にもたれて幸隆はそっと瞼を下ろす。

「…………誰もおまえを待ってなどおりませんよ」

 頭上から声が降ってきても、幸隆は驚かなかったし目も開けなかった。ただそれが当たり前であるかのように微笑み、そうかと呟く。
 すとんと目の前に影がかかったのを感じ、ようやっと彼は瞼を押し上げた。瞳に映ったのは、燃える夕焼けの色をした翼だ。子供のように小柄な体躯ながら、大人びた印象を与える血色の天狗。
 心優しい、不思議な妖だ。

「そうは言っても、遣いがきたぞ。“よくよくと、よくよくと。鳴く鳥山の入り際に”と言ってな」

「…………桔梗ですか。あれは勝手におまえのところへ行くのです。私はなにひとつ言いつけておりません。おまえも早く帰りなさい。風邪を引きますよ」

「うむ。それは困るが、折角来たのにすぐに帰っては勿体ないだろう。もう少しいるよ」

 帰れと言われても帰らない男。それが真田幸隆だ。
 攻め弾正や武田家きっての策略家とさえ言われる彼が、そうそう簡単に折れるはずなどなかった。髪から雫を滴らせ、葉の屋根に収まるように身を縮こまらせる。
 呆れ顔で見上げてくる六羅に満面の笑みを見せれば、彼女はため息と同時に肩を下げた。

「おまえは馬鹿ですか。この山に入ってもいいことなどひとつもないこと、童でも知っておりますよ」

「ああ、そうだなぁ。だがまあ、雨宿りに付き合う話し相手くらいはいるというものだ」

「……おまえは阿呆です。とんでもないあほうです。一度薬師を呼んではいかがですか」

「そういうお前は素直じゃないな。わざわざ遣いをやらせて呼びつけたくせに、帰れと言う」

 正確には、遣いが自ら出たくなるほど沈んだ雰囲気を出していた、というところか。
 どちらにせよこの天狗が素直に感情を示すことはないので、からかうように笑ってやる。すると彼女は眉を吊り上げ、大きく口を開いてから貝のように口を閉ざした。
 ああほら、それみろ。
 彼女は素直ではないけれど、嘘をつくのは得意ではない。違うと言えないところを見るに、どうやら相当参っていたようだ。

「雨は好かぬか?」

「どこぞの馬鹿がやってくるので嫌いです」

「よし、なら雨の日は毎度来てやろう」

「人の話を聞いているのですか」

「残念だが六羅、お前は人ではないだろうに」

「……おまえ、絶対よい死に方はできませんよ」

 むっと唇を尖らせて言い放った六羅の頭を撫でながら、幸隆は笑った。屈託のない、天気とは裏腹の晴れやかな笑顔で。

「もとより、良い死に方など望んではおらぬさ。戦で死ぬるも、病に臥すもよし。すべては天命のままにな」

「………………人はもろい。弱いいきものは、嫌いです」

 私より先に死ぬのでしょう。
 そんな声が聞こえたような気がして、幸隆は初めて笑顔を消した。どうしたものかと視線を落とし、とりあえず思うがままに手を伸ばす。
 そっと六羅の両頬に添えた手で、思い切り彼女の頬を引っ張ってみた。

「ひょっと! なにをすひゅのです!」

「おお、よく伸びるな。よしよし、いい子だ」

 意味が分からないという抗議の声には無視を決め込み、幸隆は六羅の赤くなった頬を優しく撫でる。途端に噛み付かれんばかりの鋭い視線を浴びせられたが、今更怯むようなものでもなかった。
 寂しがり屋の血色の天狗。それがひどく愛おしい。
 いつまでも弱いままの、この妖が。

「愛らしいな、お前は」


 お前が待っているというのなら、俺はすぐにでもそこへ帰ろう。


まつとしきかば いまかへりこむ。


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