つごもりの夜 [ 2/9 ]



 がきん、となにか金属同士が触れ合う音が聞こえた。耳朶に突き刺さるそれにはっと顔を上げれば、目の前には自分とさほど背丈の変わらぬ少年が鉄扇を構えている。
 それは少し通常のものよりも大きくて、小柄な少年には重たそうに思えた。
 思わず手を伸ばそうとしたところで、少年の薄い肩から滲んできた「赤」が目に付く。じわり、じわり、それは彼を侵食していく。

「才、蔵……?」

「……なに、源二郎様。今話しかけないでくれる? ちょっと危ないから」

 振り向きもしないまま、小柄な忍はそう答えた。右手に握られた鉄扇がわななく。
 そこでようやく、気づく。彼の左肩を彩っているのは、彼自身の血であると。真っ赤なそれは鉄の匂いを帯びて源二郎の鼻腔をくすぐり、彼の忍装束の布を濡らしただけでは飽き足らず、ぽたりと地面にいびつな円を描いた。
 もう一度才蔵、と呼びかけようとしたところで、風が動きを見せる。小さな影が宙を舞ったかと感じた刹那、再び金属音が鼓膜を劈いた。
 鈍い音を立ててなにかが弾かれる。落ち葉に埋もれたそれは、忍が使うクナイだった。

「才蔵、お前怪我をっ!」

「……だから黙っててってば、源二郎様。なんのために僕がここにいると思ってるわけ? ……平気だよ。このクナイに毒なんてないし、まあ仮にあったとしても僕には効かない」

「だが、お前だけを戦わせるわけにはいかな――」

「源二郎様。忍の役目を、忘れないで」

 そんな言葉と同時に、才蔵が鉄扇を横に薙ぎ払った。幾本ものクナイが弾かれ、そのうちの何本かは近くの木の幹に突き刺さる。
 ちらとそれを横目で見た才蔵が、ほんの僅かに口端を吊り上げた。
 辺りに満ちているのは闇だ。月は隠れて見えず、ただ静寂だけがその闇を支配している。耳に届くのは風の音。
 そして、相手の呼吸音。

「忍はね、源二郎様」

 すっと衣の合わせ目に手を差し入れ、才蔵は二本のクナイを取り出した。左手に構えたそれを、常人であれば見えないであろう闇に向かって静かに向ける。
 愛用の獲物がない今、常備している脇差で応戦しようかと思っていた源二郎は、そのあまりにも流麗な動作に一瞬声を失った。
 忍の髪が、風に煽られる。

「主を守るためにいるんだ。闇に潜み、音もなく舞う。どれだけ血にまみれても、主だけは守り抜く。だから僕達忍は、抜群の戦闘能力を兼ね備えなくちゃいけない。でも、時々いるんだよね。忍の基本を忘れる奴が」

 まあ僕も、こんなに喋ってちゃいけないんだけど、と付け足して才蔵は笑った。
 源二郎からは才蔵の表情は見えないが、確かに笑ったように思えたのだ。すっと伸ばされた左腕がほんの一瞬動いたかと思うと、遠くの方で大きななにかがどさりと落ちたような音がする。見れば才蔵の左手に握られていたはずのクナイはなく、目を凝らせば遠方の木の根元に人の崩れ落ちた影のようなものがうっすらとだが確認できた。
 城の裏山だからと安心していたが、やはりどこでも暗殺の可能性はあるらしい。散々勝手な行動を慎むようにと言われていただけに、若干の罪悪感が源二郎の心にくすぶった。
 才蔵がぱちんと綺麗な音を立てて鉄扇を閉じ、ゆっくりと踵を返す。正面から見た彼の顔は特に表情もなかったが、僅かに口端が吊りあがっているように見えた。

「勝てると思って油断するなんて、馬鹿以外の何者でもないよ。今のあれ、音立てすぎ」

「……さすがだな、やはり忍は常人とは違うみたいだ」

「当然だよ。さ、帰ろう、源二郎様。でないと家信とか鎌之助がうるさいよ」

「そうだな。佐助も騒がしくなるだろうし」

 佐助の名前を出した途端、才蔵の眉間にしわが深く刻まれた。あからさまにむっとした彼に苦笑しつつ、源二郎はすたすたと岐路を辿っていく。珍しく隣に並んで歩く才蔵の横顔を眺めていると、彼の訝しげな視線が突き刺さった。
 足音は相変わらず聞こえない。どれほど耳を澄まそうと、才蔵だけに留まらず、真田十勇士の者は皆足音一つ立てぬのだ。衣擦れの音さえ聞こえぬその動作に感心するのは、今に始まったことではない。
 深紅に染まった肩は、才蔵が源二郎を庇ったせいだ。彼ら忍は、自らの命を削って源二郎を守ろうとする。そんなことで苦しんでほしくないのにと思うのだが、それが彼らの宿命らしい。

 お前の剣となり、盾となる。望みとあらば目でも腕でも足でも、命でもくれてやる。
 
 そう言ったのは、真田十勇士の由利鎌之助だ。初めて対面した日はぎろりと睨まれただけだったが、しばらくしてからそう告げられた。あまりに真剣なその瞳に、体が武者震いを覚えたのを源二郎ははっきりと記憶していた。
 それはとても小さな頃の話だったのだが、脳裏に鮮明によみがえってくるのだ。
 ああけれど、できれば、そう。
 できれば、「命でも」だなんて言ってほしくはなかった。忍とて人間だ。感情もあり、考えもある。それなのに何故、そう易々と命を捨てろなどと言えるだろうか。

「……源二郎様、今、余計なこと考えてたよね」

「え? いや、そんなことはないぞ?」

「ふうん、ならいいけど。……そうだ。前から気になってたんだけどさ、源二郎様って、若干性格変わるよね。口調とか、態度とか……まあほんの少しだけど。独眼竜には特にそう見える。なんで?」

「そうか? 別にそんなつもりはないけど……」

「うん。独眼竜いわく、口調は僕に似てるらしいよ」

 どこか嬉しそうにそう言った才蔵は、こつんと足元の石を蹴った。

「でも、だったら僕“が”源二郎様に似てるってことだよね」

「何故そうなる? 別に俺が才蔵に似ているのでもおかしくはないじゃないか」

「忘れないで、って言ったでしょ。忍はね、主の道具。道具に似てる人間なんておかしいよ。だから、僕が源二郎様に似てるってこと」

 城が見えたところで、才蔵は音もなく掻き消えた。しかし気配だけは感じ取れるようにしているのか、闇の中でもその存在を認識することができる。この辺りだろうかと検討をつけて気を見上げれば、どこからともなく「違うよ」という声が降ってきた。
 本当に忍という職種の人間は、軽く人の持つ能力を超えている気がする。
 ため息混じりに歩みを進め、源二郎は胸に落ちてきた言葉を反芻させた。
 ――忍は主の道具。
 いつもいつも、彼らはそれを口にする。そうでなければならないかのように、彼らは言うのだ。まるで見えない戒めのようなその言葉は、きっと彼らが思う以上に真田の人間の心を締め付けている。刃で切り裂くような痛みはない。だが、真綿でゆっくりと絞められるような、そんな感覚が胸を襲うのだ。
 忍とて人間だ、その身を案じてなにが悪い。
 以前そう言ったら、真田の忍達は様々な反応を見せた。しかし真田十勇士だけは、皆が皆、悲しげな顔をしていた。佐助が悲しそうに笑って、礼を述べたのを源二郎は覚えている。

「覚えておいてよね、源二郎様。僕らは影。源二郎様や真田のためだけに存在する、生きた道具。本当なら人間扱いなんてしなくていいんだよ。剣や槍みたいに、挿げ替えの可能な武器を使うみたいに扱ってくれていいんだ」

 淡々と、いつもの声が降ってくる。
 それは雨のように激しくはないが、雪のように穏やかでもなかった。ただひたすらに染み入るそれを受け止め、源二郎はゆっくりと瞼を下ろす。立ち止まったのに合わせて、才蔵の気配もそこに止まった。

「真田家の人は、優しすぎるよ。――道具のはずなのに、僕らはそれを忘れてる」

 え、と聞き返そうと思って顔を上げたが、視界に広がるのは星空だけだった。きょろきょろと周りを見渡すが、才蔵の気配は感じられない。それ以上才蔵がなにかを喋ることはなく、源二郎もまた、彼がもう口を開くことはないだろうと悟っていた。
 だから静かに再び歩き出し、夜の空気で肺を満たす。時折感じる人の気配が心地よく、水泡のようにはかなく浮かび上がってくる思いに源二郎は気づかないふりをした。
 細い三つ編みがひょんと揺れる。誰もがこの髪型を奇妙だと言うが、鎌之助はそんな周囲の様子を見て、長かった髪を躊躇いもなく切って源二郎と揃いの髪型にしてのけた。おかげで今では、奇妙だのなんだのと言われることはない。――おそらく、陰口を叩かれているのは鎌之助の方だ。
 守られている。そう、いつでも。
 どんなときだって、自分は彼らに守られているのだ。だからこそ、この手で彼らを守りたいとも思うのに。
 それでも彼らは首を縦に振ろうとはしない。


 夜風がなにも語らず、ただ静かに才蔵の血の香りを運び届けた。


(大丈夫、源二郎様を守り抜くまでは死なないから)


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