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声が枯れそう、


hi


 そこからどうやって家に帰ったのか、よく覚えていない。しかし身体はいつものように自転車の鍵を玄関脇の籠に入れ、靴を脱ぎ、制服を着替えてリビングのソファに横たわっていた。習慣とは便利だ。
 そして、習慣とは残酷だ。
 紅茶の匂いがしない。青色のクッションを使えない。スカートでソファに寝転べない。お笑い番組を見てどんなにおもしろくても、大口を開けて笑えない。
 短期間で染みついた習慣は、きっと、同じぐらいの時間をかけても消えてくれないのだろう。紅茶の匂いがしないのも、青色のクッションを使えないのも、スカートでソファに寝転べないのも。他にも、全部全部、あの人がいたからだ。

 ――ごめんなさい。

 泣くつもりなんてなかった。泣いてはいけなかった。あたしが泣いちゃいけなかったのに。
 この数日で枯れ果てたと思っていた涙が、またせり上がってくる。喉が、鼻が、頭が、締め付けられるように痛む。まだ泣くのか。この期に及んで。
 決めたはずだ。だから動いた。――なのに、まだめそめそとするのか。
 しゃくりあげそうになる嗚咽を殺すように、肉球型のクッションに顔を埋めた。息を殺す。そうすると、自然に涙も治まるような気がした。

「……あら、帰ってたの」

 玄関からそんな声が聞こえて、姉が帰宅したのだと知る。慌ててティッシュを数枚引き出して鼻をかみ、なんでもないふりをして「おかえり」と返してみたが、どうせ全部お見通しなのだろう。
 部屋で着替えを済ませた姉は、なにも言わずにソファの空いたスペースに腰を下ろしてきた。いつもの香水の匂いがしない。よく見れば、いつもは綺麗に塗られているマニキュアが少し剥げていた。ぼうっとしたままテレビを見つめるだけの姉は、どこか諦めたような顔をしていた。
 なにも言えなかった。姉が望んでいるような選択はできなかった。
 あたしは、逃げたのだ。逃げることしか、できなかった。

「茉莉花、今日はカレーでいい?」

「えっ……、あ、うん」

「激辛のやつ。あれでいい?」

「……うん」

 姉はカレーにはこだわりがあるらしく、昔から我が家のカレーは姉が作るのが恒例だった。香辛料から作るカレーは外で食べるものやレトルトのものとはまったく違っていて、辛さもそこらのものとは比べ物にならない。あたしも両親もさほど辛いものが好きではないのだけれど、カレーだけは慣れもあってか姉好みの激辛でも平気だった。
 けれど、あの人は――悠さんは、辛いものが大の苦手だった。一口食べただけで汗が吹き出し、顔を真っ赤にして、「我慢して食べろ」と姉に叱咤されて半分ほど食べたところで、腹痛を訴えて倒れたのだ。それ以来、姉特製の激辛カレーが食卓に上ったことはない。
 随分と久しぶりだった。
 完成して目の前に並べられたカレーとサラダ、それから牛乳。口を刺す特有の刺激と、鼻に抜けるスパイスの香り。
 テレビは今日のニュースを流し続けている。どこか遠くの町で殺人事件があった。猫の親子が仲睦まじげに寄り添っていた。有名アイドルの熱愛が発覚した。
 どうでもいいような情報を、カレーの刺激が掻き乱す。じんわりと火照った頬を、そっと拭った。雫が指先に触れる。
 食べ終える頃には、つんとした痛みが鼻の奥に宿っていた。




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