さようなら、 [ 16/29 ]

さようなら、


hi


 思えば、昔から欲しいものはなんだって手に入った。
 五歳の頃。晩餐会に訪れた音楽隊の持っているバイオリンが羨ましく、父にねだった。そのバイオリンは次の日、枕元に置いてあった。熱中して演奏を習ったのは数ヶ月ほどで、一年も経たないうちにどこかへやってしまった。それがとても高価なものだったと知ったのは、随分あとの話だ。
 七歳の頃。庭師の息子が遊びに来ており、彼は市場で買ったという青い鳥を肩に乗せていた。さすがに年下の子供にそれが欲しいとねだるわけにもいかず、ただ黙って羨ましげに見つめていた。一ヶ月後、屋敷の一角に温室ができた。そこには青い鳥も含め、様々な鳥が飛び交っていた。
 十二歳。手品のタネが分からず、三日三晩悩んだ。ある日手品師が屋敷を訪ねてきて、目の前で手品を行ってくれた。頼めば何度も繰り返し実演してくれ、タネ明かしもしてくれた。タネが分かってから見た手品は、あまり面白くなかった。
 十六歳。舞踏会で知り合った女性に一目惚れをした。なんとか声を交わし、何度か逢瀬を重ねるようになった。――ある日、その女性が「公爵家のおぼっちゃんってサイコーよね」と友人らと笑っているのを聞き、二度と連絡を取らなくなった。

 欲しいと口にすれば、それはやがて手の中に落ちてくる。口にせずとも、いつかは必ず手に入る。
 いつの間にかそれを当たり前に思っていたのだろう。
 それはシンフォルズーア・リクター領の公爵という立場が与えてくれたものだったにも関わらず、自分で得たのだと思っていた。
 そして、忘れていた。そうして手に入ったものは、あとで必ず苦い思いをしていたということに。

 欲しいと思った。
 あの子が。あの子のすべてが。
 肩書きで俺を見ない、平凡なあの子が欲しかった。

 あまりにも傲慢だった。
 あの子に惹かれた理由の中には、肩書きで俺を見ないということも含まれていたのに、肩書きが通用しないことにどこか落ち込んでいる自分がいた。
 どんな手段を使ってもあの子が欲しい。どうせいつか手に入るだろうと日和ってあぐらを掻いていた横から奪われ、ようやく気がついた。己の傲慢さに。その汚さに。
 こんな男の隣に、あの子はきっと似合わない。それくらい分かっていた。分かっていたけれど、やはり諦めきれなかった。
 だから泣かせたのだ。磨き上げられたガラスを粉々に砕いて、傷つけて、その結果、あの子を追い詰めた。
 震える小さな身体が目に焼き付いている。涙の膜を張った瞳は弱々しく、――とても、綺麗だった。
 故意に傷つけた。リスクは承知の上だ。たった一人、ビジネスホテルの質素な天井を見上げて大きく息を吐く。タカナシくんに殴られた頬の腫れはとっくに引いていた。

「……マリカちゃん」

 あの子はどんな決断を下すのだろう。それがどんなものであれ、次こそは彼女の決定に従わなければならない。やれるだけのことはした。やってはいけないことをした。
 だから。最後は、最後だけは、せめてあの子の心をこれ以上犯さぬように。

「ごめんね――なんて言ったら、またリィに殴られるかな」

 独り言に苦笑する。ベッドサイドに置いていた携帯がけたたましく鳴り響いた。どうせかけてくるのはリィしかいない。ろくに表示も確認せず電話に出た。

「はい、もしもし」

 応えがない。間違い電話だったろうかと画面を確認しかけたそのとき、か細い声が俺を呼んだ。
 悠さん。どこかためらいがちに呼ばれるそれは、少し震えていて。ああ、決めたんだな。そう悟らせるには十分な堅さだった。

 ――お話したいことがあります。

 うん。ぽつりぽつり、落とされていく言葉を聞き漏らさないよう携帯を耳に押しつける。マリカちゃんは日時と場所を決めるとき、俺の都合のいいときに合わせると言ってきた。
 馬鹿だね、君は。いいんだよ、こんなときまで俺に気を回さなくて。いいんだよ。君が勇気を出せる日で。
 待ち合わせ場所は、マリカちゃんの家から近い公園になった。日時は明後日の金曜日。学校が終わってからなのだろう。指定は夕方だ。確かにこの時間ならば、小さな子供は夕食で帰宅していることだろう。
 それじゃあ、と言われて通話が終わったあと、俺はしばらく携帯をじっと眺めていた。どんな決断であれ、あの子が電話をかけてくるのはひどく勇気がいったろうに。

「あさって、かあ……」

 大丈夫。
 もうこれ以上、あの子を傷つけない。


+ + +



 あの子の決定をアタシは知らない。
 一緒に出かけてケンカもしたあの日以来、アタシも茉莉花もお互いにその話題には触れなかった。どうしたいの、なんて聞いておきながら、やっぱりアタシはどこかで期待している。それを押しつけそうになってしまうから、なにも言えなかった。
 勝手に比較して、勝手に線引いて、勝手に落ち込んで。アタシがいるから、なんて。馬鹿ね、ほんと馬鹿。アンタ自分で考えなさいよ。そう言って突き放した。
 それだけであの子が変わるなんて思っちゃいない。そんなのはマンガの世界だけだ。あの子はそれほど強くない。だからやっぱり迷って、悩んで、夜な夜な泣き濡れていたことにも気づいてる。
 でもこれ以上は手を貸せない。公正でいられなくなる。アタシが望む道に誘導しそうになる。
 
 だから、アンタが連れてって。
 アタシもきっと迷子なの。だからアンタが道を決めて。それがどんな道でも、一緒に歩いてあげるから。


+ + +



 その日は雨が降ることもなく、気持ちいいぐらいに晴れ渡っていた。午後になっても天気は崩れず、夕方の公園は小学生達で溢れ返っている。縄跳び、ドッヂボール、鬼ごっこ。楽しそうにはしゃぐ子供達がぽつぽつと減っていった頃、公園に取り付けられた時計台は待ち合わせ時間の十分前を告げていた。
 日が傾く。影が伸びる。静かになっていく公園のベンチに座り、ぼんやりとブランコを見つめる。
 ああ、こういうときにはブランコに乗っておく方が雰囲気出るんだっけ。そんな知識を得るくらいには、俺はこの世界に馴染んでいた。
 もうすぐ。もうすぐだ。
 心臓が走り始める。落ち着かず、足下の土を蹴り上げた。指先が冷えていく。公園の出入り口に人影が見えるたびに心臓が跳ねるのだから情けない。
 そんな寿命が縮まりそうなことを何度か繰り返し、待ち合わせ時間を三分過ぎた頃、自転車のブレーキ音が耳に届いた。
 顔を上げた先には、制服のスカートを正してこちらに向かってくる一人の女の子がいた。随分と久しぶりのような気がした。ぎゅっと引き結んだ唇が小さく震えている。一歩一歩しっかりとこちらに向かってくる彼女は、俺と目が合うなり逸らしかけ――、一度強く目を瞑り、しっかりと目を合わせてきた。
 ――そっか。思わず笑い出したくなった。この子は覚悟を決めてきた。俺なんかよりずっと強いんだ。

「ええと……、久しぶり、かな?」

「……はい」

 声が揺れている。その震えた声すら愛おしい。
 しばらくお互いなにも言わなかった。沈黙が降りる。俺から切り出した方がいいのかな。――でも、なんて?
 今口を開けば、きっとろくなことを言わない。好きだよなんて、今言うべき台詞じゃない。本当は立って向かい合った方がいいんだろうけど、そうすると余計なことをしてしまいそうだったので、俺は座ったままマリカちゃんを見上げていた。

「あ、のっ……、はるか、さん……」

 胸が、ざわめく。
 期待と、不安と、恐怖と、それから様々な感情が絡み合い、言い表せない震えとなって鼓動を急かす。自然と微笑みが零れた。

「ん?」

「あの……、え、っと、……この、前の、」

 ゆっくりでいいよ。無理しなくていいよ。

「うん」

「あた、し、その……っ」

 いいよ。
 決めてって頼んだのは、俺だろう?


「――ごめん、なさいっ……!」


 泣き声に近いその声が突き刺さる。
 きっと彼女はその続きを用意していただろうに、それ以上の言葉が出てくることはなかった。泣かないように必死で噛みしめる唇が、きつく握られた拳が、そのすべてが、なによりも雄弁に語る。
 ――馬鹿だなあ、マリカちゃん。なんで君がそんな顔するの。どこまで優しいの。泣く必要なんてこれっぽっちもないけれど、泣きたいのに我慢する必要だってないんだよ。馬鹿だなあ。
 本当に、ばかだなあ。

「……そっか」

 気の利いた言葉を返せない俺は、きっと誰よりも情けない。
 ごめんなさい。それは予想の中にあったけれど、できれば聞きたくないと願っていた言葉だった。彼女の性格を考えればそれが選ばれることは目に見えていたし、そうしてくれる彼女を改めて好きだと思う、どうしようもない自分がいる。
 横恋慕したのは俺だ。馬に蹴られて当然だ。

「そっかー」

 濡れた声でもう一度「ごめんなさい」が聞こえた。いいよ、謝らないで。君はもう少し賢くなるべきだ。もう少し、強かになるべきだ。
 そんなだから、俺みたいなのに付け込まれたんだよ。
 制服の真っ白いシャツが夕焼けに染まっている。オレンジ色に染まった彼女はとても綺麗だった。堪えきれなくなった涙が頬を滑り、地面に落ちていく。俯いて目元を拭う様子は、どこか儚げだった。

「ねえ、マリカちゃん」

 立ち上がった俺に、マリカちゃんが僅かにびくつく。怖がらせるつもりはないんだ。大丈夫だよ。大丈夫だから。
 ――今までごめん? いいや、謝っても謝りきれない。そうじゃない。今告げるべき言葉はそうじゃなくて。
 これが最後だ。柔らかな黒髪に触れることくらいは許されるだろうか。それくらいは見逃してもらえるだろうか。未だ女々しい考えに自嘲する。
 少しでも拒否されたらすぐに引くつもりで手を伸ばした。彼女はなにも言わない。ただ静かに、指先が髪に触れることを許容してくれた。
 柔らかな、リィとは違うシャンプーの香り。こんなことならもっと触れておけばよかったな、なんて。
 手放せなくなる一歩手前で手を戻す。さあ、せめて最後は潔く。社交会用の、とびっきりの笑顔で。

「――ありがとう、マリカちゃん」

 メールでも電話でもよかった。リィに伝えてと頼むこともできたはずだ。でも彼女はそれをしなかった。怖いだろうに、不安だろうに、俺と会うことを決意してくれた。
 こんなにも震えているくせに、苦しそうに涙しているくせに、しっかりと俺の目を見て答えを出してくれたんだ。
 ありがとう以外に、なにが言える? 
 これ以上彼女が苦しむことがないように。彼女が幸せになれるように。そんな願いを込めて、手を振った。
 彼女の隣をすり抜けるとき、さすがに口角が下がりそうになった。スカートの裾が揺れる。もうきっと、それを見ることはない。

「じゃあね」

 帰ろう。あの世界へ。俺がいるべき場所へ。
 歩きだした背に、マリカちゃんの息を飲む音が聞こえた。ひっくり返った不細工な声が、精一杯の大きさで投げられる。

「はるかさんっ!」

 ああ、ごめんね。俺、今はちょっと振り返ることはできそうにない。
 前を見たまま足だけ止める。マリカちゃんは何度も鼻をすすり、はっきりとした口調で言った。


「――さようなら、」


 まったく。
 そんな声を出されたら、連れ去りたくなるだろう?



(振り向けない己の弱さに、嫌気が差した)



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