ほら、起きて [ 6/29 ]

ほら、起きて


hi

 泡となって消えましょう。
 そう言えたら、どれだけ幸せだろう。

 
「ジャスミンちゃん、こっち向いて」

 日の暮れかけたリビングに、白いレースカーテンを通した西日が柔らかく射し込んでくる。あったかいオレンジ色が、彼の横顔をふんわりと染めた。
 全身の力が抜けてしまうくらい、彼は優しい声で、表情で、手を伸ばしてくる。彼の方が断然大きいのに、身体を小さくして下から上目遣いで覗き込んでくるのはずるいと思う。透き通った綺麗な眼差しはどこか怖くて、ついつい目を逸らしてしまう。
 分かってない。この人は、自分がどれだけの力を持っているのか、これっぽっちも分かってない。その声に呼ばれた名前が、どれだけ特別な響きを持つのか、絶対に分かっていない。
 「こっち向いて」今度は少し拗ねたように言って、彼の指先が頬に触れる。たったそれだけで跳ね上がった心臓に、情けないと叱咤したいくらいだ。

「ジャスミンちゃん? どうしたの。こっちに集中して」

「はる、か、さん……」

 目の前で柔らかな前髪が揺れた。これは香水のにおいだろうか。男の人とは思えないいい香りが、五感すべてを惑わせるように漂ってくる。

「マリカちゃん、好きだよ」

 ああ、ほら。
 この人は、こんなにもずるい。

「悠さん……、あたし、は……」

「ねえ、マリカちゃん。逃げないで。俺から触るのが怖いなら、マリカちゃんから触って。どこまでなら触ってもいいか、教えて。ねえ、マリカちゃん。――キス、して?」

 大人の男のくせに、うんと恋愛経験あるくせに、どうして。どうして、そんな子供みたいな目ができるの。
 上目遣いで首を傾げて、今か今かと子犬のように唇を待つその人は、なによりも欲しい言葉をもう一度くれた。

「俺は、マリカちゃんが好きだよ。マリカちゃんが欲しい」

 影が揺れる。
 ――キスしてと言ったのは、そっちのくせに。


+ + +



 いつもそこで目が覚める。
 目覚めは最悪だ。ぐっしょりと寝汗を掻いた頭と背中が冷たく、湿ったパジャマの感覚が気持ち悪い。
 思わず唇に手を当てて、自分の指の感触にぞっとした。馬鹿みたい。あんな夢を見るなんて、どうかしてる。
 あんなこと、現実ではあるはずがないのに。だってあの人は、あたしなんか見てくれるはずがない。あの人が見ているのは――あの言葉を伝えているのは、あたしのたった一人の姉なのだから。
 淡い色の髪をした、どこか日本人離れした尾崎悠さんという人は、片倉栗子の恋人だ。本人達はなぜか否定しているけれど、そうでなければ半同棲のような真似はしないだろうし、あれほど仲もよくないに違いない。
 誤魔化す理由は簡単だ。あたしの気持ちに気づいている姉が、黙っていてほしいとでも言ったんだろう。でもねお姉ちゃん、あたし、そんなことされても嬉しくないよ。

 ――そう、惨めなだけだ。

 昔から、比べられることには慣れていた。なにもかもが人並み以上に優れた姉と、人並みな妹。たとえ『普通』でも、優秀な姉がいれば人より劣っているように思われる。
 「お姉ちゃんはよくできる子なのに、妹ちゃんは残念ねえ」今日はいい天気ねえ、と同じくらいの感覚で吐き出された言葉が、どれだけの傷をつけるか考えもしない大人達によって、心は随分前に麻痺したはずだった。
 確かにコンプレックスだけれど、でも、姉が完璧でないことくらい知っている。強くなくちゃいけないと覚悟を決めているせいで、人前では泣いたり弱音を吐いたりできないあの人が、実は誰よりも泣き虫だってことくらい、知っている。
 人よりもうんと強いくせに、繊細なんだってことも、知っている。知ってる、から。
 幸せになってほしい。でも、幸せになりたい。
 比べられるのには慣れてる。敵わないことにも、慣れている。
 それでもつらいのは、どうしてなんだろう。

「はるか、さん……ッ、悠さん……!」

 すきです。だいすきなんです。いいえ、だいすきでした。
 ごめんなさい、あきらめるから。もう、あきらめたから。
 あたしには、もったいないくらいの素敵な人がいる。好きだって言ってくれた人がいる。だからそれに応えなくちゃ。
 こんな気持ちのままでは失礼だって、分かってる。だからこそ、あたしはあの人を好きにならなくちゃいけない。

 あんなの、ただの悪夢にしかすぎないんだから。




「――りか、茉莉花! どうしたんだよ、ぼーっとして。疲れたなら休むか?」

「えっ? あっ、ああ、ごめんね。大丈夫だから、平気」

「そ? ならいーけど。最近元気ないし、今日もほんとは無理かと思ってたんだけどな。俺としては会えて嬉しいけど、しんどいなら無理してなくていーから」

「ううん、ほんとに大丈夫なの。ちょっと眠れなかっただけだから。……心配かけてごめんね」

 ほとんどが氷だったコーラを一気に飲み干したあとで、まるでなにかを誤魔化すようだったと思った。けれど小鳥遊くんは特に気にした風もなく、「そっか」とはにかんで、黄色い悲鳴の絶えないジェットコースターの方に視線を向けた。
 これはいわゆる、デート、なんだろう。
 そこそこ大きな近場のテーマパークは、連休だということもあって人が大勢いた。二時間近く並ぶアトラクションがほとんどで、特に絶叫系のものが人気みたいだ。小鳥遊くんが見ているジェットコースターも、電光掲示板に二時間待ちの表示がされている。
 誘われるままにいくつか乗ってみたけれど、あのぐるぐる回るコースターは最悪だった。今は昼食も兼ねて、ワゴンで買ったフランクフルトを食べながら休憩中だ。

「あのさ、その……、あー、やっぱいいわ。なしなし。聞かなかったことにして」

「えと……そう言われると、気になるんだけど」

「いーから! もうほんっとくだんねーから。それよりさ、次どれ乗るか決めよう。な?」

「気になる。教えて」

 いっつもはきはきとものを言う小鳥遊くんがここまで渋るのには、なにか訳があるのだろう。
 ――もしかしたら、気づいたのかもしれない。
 気づかないでほしい。でも、どこかで気づいてくれればいいのにと思っている浅ましい自分がいて、嫌になる。
 お前なんかいらないと言ってくれたら、こんな罪悪感は覚えなくてすむのに――そんなことを思っているなんてあの人に知られたら、きっと目も合わせてくれないだろうに。

「茉莉花って、たまーに頑固だよなあ……。大人しいだけかと思ってたら、痛い目見そうだ」

「小鳥遊くんが気になる言い方するからだよ。ほら、早く言って」

「しかも、なんつーか内弁慶? 慣れてきたら、急に強気にな――」

「小鳥遊くん」

 誤魔化さないで。
 口に運びかけていたアイスコーヒーを奪って、本心を飲み込ませないようにする。
 確かに彼が言うように、あたしは内弁慶なのかもしれない。他の人にはあんまり強気に対応できないけれど、小鳥遊くんにはわりと大きくでられるようになった。
 心を許してきてる、ということなのだろうか。だったらきっと、あたしは彼のことが好きなんだろう。彼があたしを好きだと言ってくれるのと、同じくらいに。

「分かった、言う、言うから! ただし絶対引くからな、絶対! 俺だってどん引きしたんだから」

「いいから、早く」

「あーもう、だから、その……寝不足って、俺のせいかな、とか……ああああっ、忘れろ、今すぐ忘れろ! もしくは俺を殺してくれ今すぐに」

「…………別に、小鳥遊くんのせいじゃないけど」

「……デスヨネー」

 小鳥が遊ぶ、悠久の少年。
 そんな風に紹介されることが多い彼は、がっくりと頭を抱えてうなだれてしまった。
 学校じゃ、爽やか好青年として人気の高い人なのに、どうしてよりにもよってあたしなんかを好きになったんだろう?
 マンガみたいにファンクラブができるほどかっこいいってわけでもないし、バレンタインはチョコが溢れるってわけでもないけれど、上下関係なく人に好かれるのは事実だ。
 「なんで片倉さんと付き合ってるの?」と聞かれるくらいには、彼は周りに評価されている。なんで、なんて、あたしが一番聞きたい。

「……でも、楽しみにはしてたよ」

 ばっと勢いよく顔を上げた小鳥遊くんの頬が、少し赤みを強くする。なにありきたりな、こっ恥ずかしい問答を繰り広げているんだろう。自覚した途端に、かっと顔に熱が上った。
 嘘はついてない。楽しみにしていたのは事実だ。
 そっと小鳥遊くんの様子を伺うと、彼は顔の半分を隠すようにしながら言った。

「茉莉花って、ほんっとずりぃ」

 今のは反則だろ、といじけたように呟いて、小鳥遊くんは空になった紙コップやら包み紙やらを捨てに行ってしまった。ぽつんと一人残されて、彼の背中をぼんやりと眺める。そういえばオシャレな格好してるんだな、とそのとき初めて気がついた。別にこれが初めてのデートではないけれど、普段は圧倒的に制服姿の方が見慣れているから、なんだか新鮮だ。
 制服を着ているときの小鳥遊くんは、今よりも少し、幼く見える。学校って不思議だな。
 勉強は確かにあたしの方ができるけれど、彼は決して馬鹿ではない。赤点は英語くらいだと聞いたし、それを補えるだけの人望がある。
 小鳥遊くんもまた、姉寄りの人間なのだ。
 それなのに、どうしてあたしみたいな平凡な相手を選んだのか、本当に不思議でならない。『片倉栗子ブランド』に近づきたいがため、でもないだろうし。
 小鳥遊くんに限らず、誰かに好きになってもらえる要素なんてこれっぽっちも思いつかないあたしにしてみれば、他の誰が思っているよりも疑問が深い。

「あのさ、茉莉花って少し変わってるよな。や、別に悪い意味じゃなくて」

「……小鳥遊くんの方が、相当変わってると思うけど」

 心外だとでも言いたげな顔をした小鳥遊くんは、少しだけ笑ってパンフレットに目を落とした。次はこれにしよう。そう言った彼が示したのは、パーク内でも人気の高いお化け屋敷だった。



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