ごめん、ね [ 5/29 ]

ごめん、ね


hi

 ずっと見てたわけじゃなかった。
 でもなぜか、見てなきゃいけないと思った。


 ――彼氏です。
 震える声で言った彼女を思い出し、眼前の色が消えた。そのときなんと言ったのか覚えてはいない。けれどきっと、俺は笑っていたのだろう。
 うん、そっか。それだけはきちんと覚えている。うん、そっか。そのとき撫でた頭の感触が、手のひらから消えてはくれない。視界の色はすべて失ったのに、どうしてあの柔らかな髪の感触だけは忘れられないのだろう。
 こんなことになるのなら、あのとき――

「……で?」

「え?」

「アンタ、結局なにがしたいわけ? こんなことなら、どうせなら、なんで、ってそればっかり。アタシがぐだぐだしてんの嫌いだって知らないわけじゃないんでしょ」

 学校から出て、近くのファミレスに居座ること早い一時間。文化祭はまだ途中だから、人はまばらだった。
 くすんだ白いコーヒーカップを片手に湯気越しに俺を睨んでくるリィは、赤い口紅を親指で拭いつつ呆れたようにため息をつく。
 その大人びた様子は、彼女の方が年下だということを感じさせなかった。

「茉莉花に彼氏ができるのだって別におかしくはないでしょ。アタシ何回も言ったよね。ぐずぐずしてたら盗られるよって。それでも動かなかったのはアンタじゃないの?」

「……うん」

「アンタさあ、なんのためにコッチに来たの? なんのために、アタシはアンタを連れてきたの? リュカじゃなくて、アンタを。……このまま、茉莉花のコト諦めて向こうに帰るわけ?」

 帰る。その言葉がやけに重く響いた。リィは冗談や脅しで言っているわけじゃない。射殺すような目がそれを証明していた。
 俺がこのまま答えを出さなければ、彼女はきっと力づくで向こうの世界に追い返そうとするだろう。そして代わりにリュカをこっちの世界に連れてきて、自分で掴んだ幸せを満喫するんだ。
 分かってる。それくらい、俺にでも。

「――帰らないよ」

「は? じゃあなに、アンタまだ諦めないの?」

「……うん。諦めるつもりは、ないよ。リィに言われたからじゃない。初めからそんなつもりなかったんだ。俺は、あの子を手に入れるために、ここに来た」

 口にするのは思ったよりも簡単だった。葛藤とか不安とか、諦念とか、そういった感情が声を封じるものだと思っていたから。
 けれど案外あっさりと口をついて出た言葉に、驚きもしていないのが事実だった。受け入れている。この表現はどこかおかしいのかもしれない。受け入れているのではなくて、初めからそう決意していたのだ。
 決意。浮かんできた単語に笑いそうになる。
 そうだ、決めていたんだ。
 あの子の写真を見たときには、なんとも思わなかった。話を聞いて興味を持って、この世界にやってきた。そのときはまだ、『決意』だなんて重たい感情はなかったのかもしれない。

 けれど、あの子に会って、言葉を交わして、少しだけ触れ合って。

 そうしていく間のどこかで、決めていたんだ。
 あの子の傍にいたい。心が欲しい。絶対に、手に入れる。
 ――そう決めていた。

「……アンタにしては、随分と強く言い切ったのね」

「それが本心だからね。……ちょっと、遅くなったけど」

「遅すぎんのよ。で、どうするわけ? 茉莉花は例の……ユウ君だっけ? ともう付き合ってるんでしょ。もしかしたら相思相愛……ってか、あの子の場合好きでもない相手と付き合うことはまずない。アタシが言いたいこと、分かるわよね?」

 いらっしゃいませ、二名様でしょうか。そんなウエイトレスの声がリィの言葉の奥でひっきりなしに響いている。グラスの触れ合う音が絶え間なく聞こえる中で、俺はぼんやりとタカナシくんのことを思い出した。
 真面目で明るそうな子だった。少し日に焼けた肌が健康そうで、高校生という若さを存分に体現している。まるで少女漫画から抜け出してきたようだ。きっとタカナシくんと付き合えば――実際付き合っているが――、ジャスミンちゃんは幸せな高校生活を送れるだろう。
 青春という言葉がぴったりと当てはまるような、理想の思い出が生まれるに違いない。
 このあと二人がどうなっていくのかは分からない。今の間にも別れ話が始まっているかもしれないし、卒業しても付き合っているかもしれない。
 けれどこの先よほどの未来が待っていない限り、二人は穏やかな笑みと共に語るだろう。高校時代の美しい思い出を。
 ジャスミンちゃんは子供に語って聞かせるかもしれない。お母さんが高校生のときにね、と。
 小鳥が遊ぶ、悠久の少年。なんてうらやましい名前だ。きっといつになってもジャスミンちゃんは彼のことを覚えているに違いない。ハルカ・オザキ・リクターのことは忘れても。

「分かるよ、リィ。分かってる」

 俺がやろうとしていることは、傷一つなく磨き上げられたガラス玉に、金槌を振り下ろすのと同じことなのだ。
 無傷では済まない。跡形もなく粉砕する。下手をすれば、飛んできた破片で俺自身も怪我をするかもしれない。でもそれは、二人が味わう痛みに比べたらなんともないものだろう。
 ごめんね、マリカちゃん。ごめんね、タカナシくん。
 心からではない、上辺だけの謝罪が零れる。
 俺も結局は権力者だったのだ。領地を治め民衆の税で生活をする、他者の苦しみを半分も理解できない人種だったのだ。
 ごめんね。今度は心からそう思った。ごめんね、マリカちゃん。

「……我侭、言わせてもらうよ」

 自分のことしか考えていない、最低の大人だ。
 ねえ、ハルカ。リィが静かに微笑んだ。

「リィ?」

「ハルカ。……歯ぁ食いしばれ」

「え? いっ――!」

 派手な音と同時に頬に衝撃が走る。太腿を濡らしたのは、倒れたグラスから零れた水だ。一瞬にしてざわめく店内に、ひしひしと突き刺さる視線。
 殴られたと自覚したのは、リィが痛そうに拳をさすっているのを見てからだった。

「感謝しなさいよ。……アンタがもう一つの方選んでたら、一発じゃ済まさなかったんだからね」

「リィ……」

 喋ると口の中に血の味が広がった。逸らされた瞳がなにを意味しているのか分かってしまい、苦笑が漏れる。
 うん、そうだね。諦めていたら、きっとリィは記憶から完全に俺を排除しただろう。
 遠慮がちにおしぼりを持ってくる店員に曖昧に微笑んで謝り、店を出る際に迷惑をかけたことをもう一度詫びた。不機嫌顔のリィをちらと見やり、レジにいた店長らしき中年男性が「仲良くな、にいちゃん」と耳打ちしてくる。どうやらカップルの痴話喧嘩と思われていたらしい。
 
「ねえ、リィ」

「なに」

 拗ねた口調に、思わず吹き出しそうになる。

「ジャスミンちゃん、『あっち』にお持ち帰りしてもいい?」

「ダメに決まってんでしょ、ドヘタレが。調子乗ってんじゃないわよ」

「ああ、やっぱり?」


でも俺は、また我侭を言うんだろう。



(泣かせてごらん、百倍返しにしてやるわ)
(……気をつけます)


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