ひみつ、なの [ 4/29 ]

ひみつ、なの


hi

 ――片倉ってあんただよな? よろしく。
 ――うん、よろしく。……えっと、『たかなし はるか』くん?
 ――ははっ! 小鳥遊は読めたのに、下で間違うんだ? 俺はユウっつーんだけど。
 ――あ、ごめん、なさい……
 ――別に? でもあんたの名前も変わってるよな。全部くさかんむり付いてる。


 そう言って彼は、いたずらっ子のように笑った。
 それはまだ、このクラスに入って間もなかった頃のこと。



 九月も半ばだとはいえ、さすがにあれだけ照明を浴びていたら汗もかく。それに衣装は通気性なんてまったく考えていないし、このウィッグだって頭が蒸れる。
 更衣室で着替えをしながら、友達のきゃあきゃあと騒ぐ声を聞いていた。
 よかったね、すごかった! 感動したよー! ――なんて声があちこちから聞こえてくる。あんまり話したことのない子でさえ、わざわざあたしのところまできて「片倉さん、可愛かった!」と言いにきてくれたりした。
 衣装は洗って返さなければいけないため、スーパーの袋に詰め込んで鞄に入れた。使い慣れた鞄の中から少しくたびれた台本が顔を覗かせて、なんともいえない気持ちになる。
 『ラーヴァの秘密』それが今回の劇のタイトル。普通に考えて、あたしは文化祭の劇で主役を飾るような人間じゃない。クラスにはもっともっと目立つ子とか、可愛い子がわんさかいる。それなのにあたしが主役になってしまったのには、単純な理由があった。

 くじ引き、だったのだ。
 劇にすることに決まったとき、脚本を誰が書くかはすぐに決まった。文芸部の大野さんは夢見がちな女の子で、オリジナルの作品を作るんだと意気込んでいた。
 その大野さんの提案で、面白いからと男女ごちゃ混ぜ、恨みっこなしの大抽選会に発展してしまったのだ。
 そこでくじ運のないあたしが、不幸にもヒロイン役を引き当ててしまったわけで――。
 あのときのみんなの微妙な反応を思い出すと、今でも思い切り叫びたくなるほど恥ずかしい。どうせならはっきり言ってくれればよかったんだ。あんたなんかに主役ができるの、って。

 まあそれもすべて済んだこと。台本もそのまま押し込んで、更衣室を退室した。お金持ち学校じゃないから、廊下に冷房なんてついてない。それでも外から入ってくる新鮮な空気がおいしくて、思わず胸いっぱいに深呼吸してしまった。
 やっぱり山の近くだから、都会みたいな濁った空気じゃない。田舎っていいなあ、ってこういうときに感じる。普段は結構不便なんだけど、慣れてしまえばそれなりにそれなりに。
 文化祭を一緒に回ろう、と誘ってくれた美咲はD組だ。初めは……そう、彼女と回るつもりだった。小学校から一緒の友達で、唯一あたしが気兼ねなく付き合える子。
 しばらく更衣室前の廊下でぼんやりしていると、軽快なスリッパの音が近づいてきた。

「まーりーかっ!」

「美咲。あの、今日はごめ――」

「いいっていいって! それよりさ、劇すごかった! さっすが元演劇部だよねえ。みんなびっくりしてたよ」

 ぎゅう、ときつく抱き締められて息が詰まった。それでも美咲のスキンシップ癖には慣れているから、宥めるつもりで背を叩いて迎えてやる。
 美咲は離れてからも興奮気味にあたしの手を握り、上下にぶんぶんと振り回した。いつか肩抜けそうだなあ、なんて頭の隅で考える。

「ありがと、美咲」

「どういたしまして! いっやー、それにしても茉莉花がついに私とのデート断るようになったかー」

「デ、デートって……」

「だってそうでしょ? ――あれ? なんかあっちの方、騒がしくない? なんかあったのかな……」

 西棟の方からざわつきが移ってくる。美咲と二人してきょとんとそっちを眺めていたら、次の瞬間目にした信じられない光景に心臓が飛び上がった。
 好奇の目を一心に浴びながら全力で廊下を走る男性――淡い色の髪に端整な顔立ち、すらりとした長身。そのどれもに見覚えがある。

「は……るか、さん!?」

 なんで?
 向こうもあたしに気がついたのだろう。一瞬険しい顔をして、悠さんはさらにスピードを上げた。美咲が「知り合い?」と尋ねてくるが、あたしには返事を返す余裕なんてない。
 ――やっぱり、来てたんだ。
 さっさと捨てておけばよかった、プリントなんて。絶対に行くからね、なんて意気込んでた姉の姿が脳裏を過ぎる。
 悠さんがいるってことは、当然あの人も来ているんだろう。あんなに急いでどうしたのか――そう思ったときにはもうすでに、悠さんは目の前までやって来ていた。

「はる――」

「ジャスミンちゃん!」

「え、きゃっ!」

 どん、と大きな衝撃が走って二、三歩よろめいた。そしてなによりも、驚いた。
 痛い。悠さんの大きくて優しい手が、あたしの肩を押さえ込むように掴んでいる。抱き締められる寸前、といったような体勢で、すごく――痛い。
 肩に額を押し付け、悠さんが荒い呼吸を整えているのが分かる。ときどき聞こえてくるのは、なんの意味も持たないあたしの名前だった。つんと香った汗のにおいで、悠さんが汗だくになっているのに気づく。
 美咲は不思議そうにあたし達を見ていたが、なにも言わなかった。

「あの、悠さん……?」

「聞いて、ほしいことがあるんだ」

「あ、はい」

 真剣な口ぶりにどうしたらいいのか分からなくなる。悠さんの触れているところが、とてつもなく熱い。
 あたしが気の抜けた返事をしたところで、美咲が気を遣ってか小声で「じゃあね」と言い残して行ってしまった。正直傍にいてほしかった――なんて言ったら、神様はあたしを我侭だと嗤うんだろうか。

「ずっと、言わなきゃって思ってた、ことなんだ。今までずっと逃げてたんだけど、今日、やっと決心できた。俺、ジャ――」

「――茉莉花!」

 酔いそうだった。真っ直ぐに見つめてくる、普段よりもずっと近い真摯な瞳に呑まれそうだった。
 ねえ、悠さん。どうしてあなたは、そんな目で、そんな声で、あたしを呼んでくれるんですか?
 ぼうっとしてたあたしを現実に引き戻したのは、聞くだけでどんな相手か分かりそうな声。話の途中で邪魔されたことに驚いたのか、悠さんがはっとして顔を声の方に向ける。つられてあたしも見た先にいたのは、案の定彼だった。

「お疲れさん。ってか、その人誰?」

「え、あ、この人は尾崎悠さん。……お姉ちゃんの、彼氏」

「栗子さんの!? うっわあ、さすがおっとこまえ〜」

「だからジャスミンちゃん、それは違うって何度も!」

 さすがに距離を置いた悠さんとあたしの間に、さり気なく彼――小鳥遊(たかなし)くんが入ってくる。
 人好きのする満面の笑みを浮かべて、彼は悠さんに手を差し出した。

「はじめまして、小鳥遊です」

「こちらこそ、初めまして。タカナシ……なにくんかな?」

「あ、ユウっていいます。ほら、この」

 小鳥遊くんは当日配られたパンフレットを片手で取り出し、演目の下に書かれてある自分の名前を指差した。
 その途端、どくりと拍動が早くなる。けれどもう彼の行動と悠さんの目をふさぐことなんかできなくて、あたしは訳の分からない罪悪感から逃れるように目を閉じた。

「コトリユウ、ハルカ……」

「え? ぷっ、あはは! 俺の名前、そんなに読みにくいですか? 『小鳥が遊ぶ』に『悠久』のユウで『タカナシ ユウ』、です」

「ねっ、ねえ小鳥遊くん! そろそろ……」

「ああうん、そうだな。あ、でも彼氏さん来てるってことは栗子さんも来てんだろ? 一緒に回らなくていいのか?」

 悠さんの顔が見れない。どんな顔をしてあたし達を見ているんだろう。
 小鳥遊くんが屈託なく笑って、反応を見せないあたしの顔を覗きこんでくる。あまりに近いその距離に肩が震えた途端、後ろからぐっと腕を引かれてよろめいた。

「悠さん……?」

「ごめん、タカナシくん。マリカちゃん、少し借りてもいいかな」

「え? あ、はい。別にいいっすけど……」

「ごめんね。じゃあ」

「はーい。じゃあ茉莉花、終わったらまたあとでメールして。迎えに行くからさ」

 そう言って小鳥遊くんと別れたあたし達は、特に目的もなく――少なくともあたしにはそう思えた――学校内を突き進んでいた。時折感じるクラスメートからの視線に居心地の悪さを感じつつ、手首をしっかと掴んで歩く悠さんの背中を見る。
 初めてだった。無言の悠さんも、強引な悠さんも、歩調を合わせようともしてくれない悠さんも。
 買い物に行くとき、悠さんの背中を見たことがなかった。それは多分、悠さんがあたしの歩調に合わせてくれていたからだ。考えてみればこのコンパスの違いなんだから、悠さんの方が早く歩くことは当たり前だ。それでも隣を歩いてくれていたのは、彼の優しさだったのだろう。
 二人きりになると少し困ったように眉尻を下げて笑って、ねえジャスミンちゃん、て優しい声で会話が途切れないよう話題を提供してくれる。スーパーの帰り道、眩しすぎる夕日を眺めながら悠さんが言ったことを思い出した。

 ジャスミンちゃんは、リィのこと好き?

 あたしはなんと答えただろう。姉ですから、とでも言っただろうか。だとしたらなんて可愛くない答えなんだ。でも多分、あたしの口から零れた答えはその程度だ。
 シスコンというわけではないが――ああでも、ある意味重度のシスコンか――、あたしは姉が大好きだ。けれどそれを悠さんに告げることはなぜだか憚られた。いいや、理由なんて一つしかない。
 悠さんが大好きなあの人を、あたしも好きだということがとても悔しいのだ。
 好きだと言えば、彼は嬉しそうに笑う。そっか、俺も。きっとそう言うに違いない。ねえ悠さん、気づいてますか。あたしは、あなたがあの人を呼ぶたびに、あの人の話をするたびに、あなたのことを少しずつ嫌いになっていくんです。
 ――そんな嘘が言えたらいいと、痛切に思う。
 嘘が真実であれば、あたしは悩まずに済んだのに。早足でもつれる足を懸命に動かしながら、そんなことを考えた。

「……マリカちゃん」

「は、い……?」

 急に立ち止まった悠さんは、あたしの手を離そうとはしない。その熱がやけに熱く感じて、無性に泣きたくなった。離してほしい。でも離さないでほしい。そんな浅ましい思いが胸に渦巻く。
 けれど、あたしはこの手を振り払わなければいけない。もう決めたから。だから。

「一つ聞きたいんだけど、いいかな」

「そ、その前に、あの、手……」

「え? ああ、ごめん。えっと、その……ね。マリカちゃんは……その」

 手が離されたあと、悠さんは気まずそうに目を逸らして口ごもった。なにかを言いたくて、でも言えない、そんな様子だ。はるかさん、と呼びかければ、彼は困ったように眉を下げ、「そうだっ」となにかひらめいたように言う。
 それは明らかにもともと言いたかったこととは違う、たった今思いついたばかりの言葉のようだったけれど、あたしは気づかないふりをして彼の言葉を待った。

「ねえ、ジャスミンちゃん。さっきの子、友達?」

「美咲ですか? はい、クラスは違うんですけど」

「あ、ううん、その子じゃなくて。タカナシくんの方」

 どくり、と心臓が跳ねる。
 どこかほっとしたような、安心しているような悠さんの顔を見ることができなかった。これは罪悪感だろうか。だとしたら、一体なにに対して?
 分からない。だけどあたしは言わなければならない。この一言がすべてを変えることになるとしても、それは紛れもない事実だから。言ってしまえば元には戻れないけれど、もう――決めたことだから。

「その……、小鳥遊くんは――彼氏、です」

 その瞬間、あたしと悠さんを繋ぐ橋は崩落した。




(付き合おう、と言ってくれた彼の笑顔がよみがえる)
(大丈夫、きっと彼なら好きになれる)


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