おきつねさまと待雪草 [ 7/22 ]

おきつねさまと待雪草


hi
(澄み渡った氷の空気、
 よどみのない君の声、
 さよならを知らない、無邪気な笑顔)


 降り積もった雪を蹴散らし、美しい景色を容赦なく破壊していく。ざくざくと踏みつければ、痛みを訴えるように足下の雪が固まった。
 完璧な美しさを殺がれた銀世界に溶け込む、一匹の銀ぎつね。白銀の毛並みに大きく揺れる四尾が、さらなる優美さを醸し出す。
 吐いた息はほんのりと白く染まり、狐の眼前を僅かに曇らせた。澄んだ空気とは裏腹に、重々しい色の雲を敷き詰めた空からは深々と雪が舞い降りてくる。一片ひとひらが鵝毛のようで、狐は静かに降りしきる雪の原点を見つめていた。
 まるで一点から生まれ出でているように見えるのだが、それが実はそうではない。
 見渡す限りの景色の色を奪ってしまう冷たい花は、艶やかな毛並みを徐々に濡らしていく。ふるりとかぶりを振った狐は、狐らしからぬ風体でふうと息をついた。
 傷一つない平らな地面を見て、牙を立てるように顔を突っ込む。しばらくその場を荒らしたあと、舞い上がった粉雪に狐は満足したように後ろ足で頬の辺りを掻き、暖かそうな四尾をひょんと振った。

 ――この姿になるのも久方ぶりだ。

 通常の狐とは明らかに異なった姿は、壮麗で誰の目でも奪うだろう。力を持たないただの狐と比べると、白銀の狐はやや大きな体躯をしている。しかしそれはとてもしなやかで、地を跳ねればまるで弓のような美しい曲線を描く。重さを感じさせない軽やかな動きはさながら舞いのようで、数羽の小鳥がじいと眺めるほどだった。
 大分降り積もった雪はいとも容易く狐の足を飲み込み、その度に傷つけられて美しさを欠いていく。
 ぼすり、ずぶり、ばふり、と音を立てながら穴を開けていった狐は、やがてそのことにも飽きたのか一際高く跳躍すると、真っ白に化粧を施した木々に着地した。大きな体躯を支える細い枝は、二、三度しなっただけでとても安定している。
 狐は器用に四尾を動かして体についた雪を払い落とし、青い影をつける雪原を見下ろした。くるり。不安定な場所にもかかわらず、狐は体を丸める。
 無音だ。耳を汚すのは降り続く雪の音だけで、今は風一つ吹いていない。
 それがとても心地よく、狐はそっと瞼を下ろす。しかしすぐに耳障りな音が鼓膜を揺さぶり、鋭い獣の虹彩が露わになった。
 ――いつぞやのことを思い出し、ほんの僅かに狐の毛が逆立っていく。
 人間には聞こえるはずもない音を拾って、狐は忌々しげに半眼で彼方を見やる。だんだんと近づいてくる音――雑音よりもたちの悪い声だ――に小さく唸ったあと、狐は口からひゅう、と青白い炎を吐き出してその場から姿をくらませた。

+ + +

「せーめーさま、せーめーさま! ほら、真っ白!」

 馬鹿な子ほど可愛いというが、これはさすがにいきすぎだと晴明は頭を抱えた。
 小さな手を真っ赤にし、それだけでなく鼻も耳も、外気に触れているすべての肌を染め替えた少女が全身雪まみれになって、雪の上を転がっている。
 このままでは衣も髪もびしょ濡れになって風邪を引く――と注意してやりたいものの、あまりにも呆れてものが言えない。何事かを吐き出そうと開いた口は、そのまま冷えた空気だけを取り込んで貝のように閉ざしてしまった。
 雪だなんだとはしゃいだ少女――つきのとに無理やり屋敷から連れ出され、ひと気のない山の麓まで式神に送らせたのは、一刻以上前のことだ。屋敷を出た途端に人目も憚らず転げまわられたのではたまらない、という理由からここまでやってきたのだが、彼女は満足そうに四半刻以上も雪の上を転がっている。
 滑っているのでも泳いでいるのでもなく、ただひたすらにごろごろと転がっているのだ。
 目が回らないのかとか、寒くないのか、といった質問はとうの昔に「まったく!」の一言で切り捨てられた。今彼にできることはといえば、これからの看病の予定を立てることくらいなものである。
 
「なあ、つきのと。雪遊びはそれくらいにして、そろそろ――」

 帰らないか、と言いかけたところで晴明ははっとして視線を上げた。しかしそこに、予想した姿はない。
 確かに気配は感じたのだがと首を傾げた拍子に、ぼずり、と筆舌に尽くしがたい音と共につきのとの悲鳴が耳朶を叩く。

「むんぎゃっ!」

「つきのと!? ……………………げっ」

 慌てて視線を戻した先にいたのは、哀れ雪に埋まって足しか見えないつきのとと、その上に遠慮や思いやりという言葉を一切排除した様子で乗っている、白銀の狐だった。
 思わず口端を引きつらせれば、金の双眸が剣呑に細められる。獣の姿なのに見るからに不機嫌だと分かる様子に、晴明は思わず後ずさった。
 狐がふん、と鼻で嘲笑うかのような仕草をし、雪の中でもがいている少女の上にどっかりと腰を下ろす。その瞬間、苦しそうな声が一際大きくなった。

「むー! うむーーー!」

「…………月乃女、どいてやってくれ」

 ため息を喉の手前で押し込んで紡ぎだした言葉に、狐は一瞥をくれただけで動こうとはしなかった。仕方なく強硬手段に出ようと手を伸ばせば、鋭い牙が向けられる。
 我が身可愛さに手を引っ込めた晴明は、どうしたものかとしばらく逡巡したのち、己の矜持を雁字搦めにして深い水底に沈め、浮上できないように蓋までしたあと、呼吸を整えた。心中でゆっくりと三つ数え、狐に向かって深々と頭を下げる。

「お願い申し上げます、天狐様。そこな娘の非礼、どうぞお許し下さい」

 返事はない。しかし四尾の揺れる気配はあった。
 我慢だ我慢。相手はあの、傍若無人天上天下唯我独尊、傲岸不遜という言葉はまさにこの者を表すためにあるとさえ思われる天狐月乃女だ。
 大切なのは忍耐力。忘れてはいけない言葉は我慢。これも一つの精神修行だと思えばいい。耐え切れなくなった途端、肉体修行に変わるだけの話だ。
 どれほど頭を下げていただろうか。ぶわりと風が髪を煽ったと感じたら、苛烈な神気をまとった不機嫌極まりない秀麗な天狐が、依然少女を下敷きにしたまま仁王立ちしていた。

「貴様ら、覚悟はしておるか」

「してませんできてませんしたくありません」

「愚か者共が」

「ほわらっ!」

 冷たい一瞥を投げつけ、月乃女がつきのとから足をどける。その際一層の力を込めて踏みつけたのが丸分かりな少女の悲鳴に、晴明は頭痛がしてくるのを感じずにはいられなかった。
 我慢我慢我慢、と念仏のように唱えながら埋まってしまった少女を引き上げ、全身についた雪を払ってやる。もともと雪まみれだったのに加えてこの襲撃。ずず、と洟をすすった少女に、屋敷に戻ったら――無事に戻れれば、の話だが――温かいものを飲ませてやろうと決意した。

「あう……あれ、おきつねさま?」

「晴明、今すぐそこの野兎を連れて消え失せろ。さもなくばその血、一滴残らず我が糧とする」

「悪かったって……って、あんた今さらっと恐ろしいこと言ったよな」

「我が命が聞こえぬか? 失せろ、ハル」

 真名に等しい言霊で魂を縛られ、急に大きく脈打つ心臓に晴明は目を瞠る。ああこれだから、彼女と会うのは嫌なのだ。
 どくどくと早鐘を打つ心臓を抱えながら、額に伝う冷や汗を手の甲で拭った。下からつきのとが心配そうに見上げてくるが、それに返事をして安心させてやる余裕などない。
 どうやら月乃女の休息を邪魔してしまったらしい彼らは、どれほど理不尽だろうとその場を立ち去らざるを得ないのだ。

「晴明さま、大丈夫ですか? もう、おきつねさま、あんまり晴明さまをいじめないでください!」

「……いい、から。黙ってろ、つきのと」

「でも……」

「ほら、帰るぞ」

 これ以上月乃女の機嫌を害すと、本気で殺されかねない。
 冷え切ったつきのとの手を引いて晴明が踵を返したそのとき、ごうっと唸るような風の音が全身にぶつかってくる。それに伴って巻き上げられた雪が、瞬きをする暇さえ与えずに彼らを襲った。
 風は次第に強くなり、視界が悪くなるほどの吹雪になる。
 ふぶき。その言葉が唐突に脳裏に浮かび、なにかと結びついた。
 そろそろと後ろを首だけで振り返れば、先ほどの凍てついた雰囲気が幾分と和らいだ天狐の姿が白い靄の向こうに見える。愛おしそうに、どこか切なそうに吹き付ける雪と風を感じている様は、冷酷非道と評される天狐族の長からは随分とかけ離れていた。
 だがそれも一瞬のことで、彼の視線に気づいた彼女が再び鋭い眼光を浴びせてくる。慌てて雪道を踏み進んでいくと、ようやっと肌に刺すような怒気が弱まるのを感じた。



「……死ぬかと思った」

「大丈夫ですか、晴明さま? 安心してください、今度おきつねさまにお会いしたら私がきつーく言ってやりますから!」

「やめてくれ」

 嬉々として腕に抱きついてくるつきのとに本心からそう零すと、晴明はふいにその小さな手がとても暖かいことに気がついた。
 よく見れば、あれだけ濡れていた少女の衣がすっかりと乾いている。

「つきのと、寒くないか?」

「え? あれ……。そういえば、さっきからぜんぜん……うわっ!」

 ぺたぺたと己の全身を確かめるように手で触れ回っていたつきのとの懐から、ぴょんと青白い小さな狐が飛び出してきた。手のひらに収まってしまうような小ささのそれは、まごうことなき狐火だ。
 触れても火傷をするような熱はなく、ほんのりと暖かな体温が感じられる。
 しばらくつきのとの手の中に納まっていたそれは、一度こんと鳴き、風に乗るようにしてどこかへ行ってしまった。どうやら、あの狐火が衣を乾かしてくれたらしい。

「…………月乃女にしては、随分と親切な」

「おきつねさまっ、だいすきです!」

 どこか気味悪そうに身を震わせた晴明と、嬉しそうに手を振って狐火を見送るつきのとには果てしない温度差があった。
 手頃な場所で式神を呼び、屋敷へと戻る。
 掻き消えた気配を感じ、天狐が静かに笑んだことなど彼らは知る由もない。


+翌日+
(げっふ、ごっほ!)
(きゃああああ、せーめーさま! 死んじゃいやです!)
(死なない……風邪じゃ死なないからつきのと、頼むから静かにしてく――ぐぇっほ!)
(せーめーさまああ!)
(…………しぬ)
(死んじゃやだぁ!)

 悪循環。


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