おきつねさまと二匹の狐 [ 8/22 ]

おきつねさまと二匹の狐


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「実に嘆かわしいな、晴明。お前の嫁は繕い物一つまともにこなせぬか」

 ――憐れ、実に憐れよ。
 ご丁寧にもそう付け足した天狐月乃女は、つきのとに晴明が買い与えた扇で口元を覆いながら、愉快そうにくつくつと笑った。片膝を立てているせいで、真珠を練り込んだような純白の衣が肌蹴て、大変艶めかしい大腿部が露わになっている。もしも彼女をよく知らなければ、そこに色を感じたのだろうかと、晴明は現実逃避に考えてみた。
 神に最も近い天狐族の長である彼女の外貌は、整いすぎていると言っても過言ではないほど美しい。だが、外が整いすぎている分、反動は内に生じたと晴明はひっそりと思っている。――そのようなことを口にできるほど、彼は命を軽んじてはいない。

「そら、跳ねてみろ野兎。針など持つだけ血の無駄だ、やめておけ」

「うきゃあ! なっ、なにするんですかおきつねさま!」

「蹴鞠だ」

「けま――!? わたくしは鞠ではございませんっ! 針が刺さったらどうするんですか!」

 長い足を横に滑らせてつきのとの尻を蹴った月乃女は、頬を膨らませて抗議する彼女を見て意地悪く口端を吊り上げるだけだった。このやり取りをもう何年見てきたことかと、晴明は痛み出す胃の辺りを押さえながら脳内で指折り数えてみる。
 もう両手で足りなくなってきた頃合だろうか。それなのに、どうしてだかこの光景に変わりがない。
 変わったことといえば、自分が老けたことと、つきのとが少女から女へとなり、そして妻となったことくらいなものだ。目の前で傲岸不遜に佇む天狐には、内外の微塵の変化も見られない。――ああ、一つ。彼女がつきのとのことを、『貴様』ではなく『お前』と指すようになったことだ。大抵は『野兎』と呼ぶため、つきのとが気づいている様子はない。

 晴明はため息を一つ吐き出すと、広い庭から聞こえてくる葉擦れの音に耳を傾けた。もうすぐ夏がやってくる。新緑の時期である今、庭には青々とした葉がたくさんの木陰をもたらしていた。
 その鮮やかな緑の向こうで、一瞬なにか白いものが揺らめいた。ぎゃあぎゃあと騒ぐつきのとを足で転がしていた月乃女が、ちらと晴明を見て不敵に笑む。「やっと気づいたのか」――小馬鹿にする物言いは、今に始まったことではない。
 目を凝らして緑の奥を眺めていると、白いなにかが生き物であると分かる。そこで晴明よりも遥かに視力のいいつきのとが、彼の目線の先を追って「あれ……」と声を上げた。

「真っ白の……きつねさん?」

「狐……?」

 ずり落ちた内掛を直しながら、つきのとは這いずって晴明の隣までやってきた。こんなことだからいつまで経っても野兎と言われてしまうことを、彼女はまったく気づいていない。――否、たとえそうしなかったとしても、あの天狐は呼び続けるだろうが。

「ツキシロ、ユキシロ、来い」

 すると、間髪入れずに二匹の子狐が木々を縫って飛び出してきた。真っ白な子狐達は晴明とつきのとを一瞥しただけで素通りすると、迷うことなく月乃女の傍らまで跳躍して甘える素振りを見せる。差し出した手のひらに顔を擦り付ける仕草はとても愛らしく、つきのとが目をきらきらと輝かせるほどだった。
 別段このような子狐が月乃女に侍ることは珍しくない。彼女の遣いということもあるし、同じ天狐族の者のこともある。第一、彼女はすべての狐――無論、神となった空狐を除く――から敬われる存在なのだから、それも当然のことなのだ。
 しかし晴明はどこか引っかかりを覚え、眉間にしわを刻んだ。
 なんだろうか、この妙な感覚は。気づいても気づかなくても後悔しそうな気のする、途方もなく嫌な予感に彼は身を震わせた。

「おきつねさま、この子達ぎゅーってしても構いませんか?」

「たわけ。我が息子に野兎程度が触れようなど、百年早いわ」

「そうだぞ、つきのと。こんな奴の子供になんて、手ぇ出さない方が身のた――」

 ぴたり。
 晴明とつきのとが無言で顔を見合わせ、そして勢いよく同時に子狐と月乃女を見比べた。
 ふるり、と夫婦で仲良く肩を震わせる。

「おっ、おきつねさまの」

「子供ぉおお!?」

 二人の絶叫に月乃女は煩わしそうに狐の耳の片方を手で折りたたみ、背に隠れた子狐の後ろ首をつまみ上げて一匹ずつ晴明の方に放り投げてきた。
 ぽて、と小さな狐が二匹重なって転がる。
 呆気に取られている二人を無視し、月乃女は何事かを口内で唱えた。それが強い言霊を持つ呪(しゅ)だと気づいたのは、さらなる変化が二匹に起きてからだった。

「夫婦揃って馬鹿面だな、お前達。――ツキシロ、ユキシロ、それが野兎と晴明だ。よく血の香を覚えておけ」

「待て、なにを覚えさせてんだなにを。それよりもこの二人――って、わ、おい! 噛むな!」

 ようやく立ち上がった晴明の片手を水干姿の童が二人で掴むと、その小さな口に指を含んだのだ。まだ短いながらも鋭い牙が、人ではないことを嫌でも悟らせる。
 純白の髪は顎の辺りで一線に切り揃えられており、瞳はどちらの童も澄んだ金茶色をしていた。背丈は拾った頃のつきのとと同じくらいだ。晴明の腰の辺りにも満たないので、下手に動くと蹴飛ばしてしまいそうになる。
 どうにか指を引き抜こうと手を引いてみるのだが、童達は必死に歯を立てるばかりで離してくれそうにない。がじがじと噛まれているうちに柔らかい指の腹が突き破られ、人の舌よりもざらついたそれが傷口に這わされたのが分かった。
 あまりの幼さゆえに激しい抵抗もできず、晴明は半ば諦めの境地で己の指をくわえる童を見下ろした。
 人間離れした顔立ちは、確かに月乃女に似ていないでもない。
 ――だが、最大の疑問がある。

「あ、あのー、おきつね、さま?」

「なんだ」

「この子達、一体誰の子なんですか?」

「我の、と告げたはずだがな。もう忘れたか?」

「そうじゃなくて!」

 晴明の気持ちを、つきのとが果敢にも代弁する。

「母親がおきつねさまだとして、父親はどなたなんですか?」

「別に誰であろうと構うまい。答える必要などないわ」

「あ、もしかして、しせ――」

「ツキシロ、ユキシロ、喰っていいぞ」

 言いかけたつきのとを晴明が止めるよりも先に、月乃女がぱん、と拍手を打って遮った。
 彼女の言葉に反応した二人が晴明から口を離し、軽い身のこなしで一目散に飛び掛る。

「え? うっきゃああああああ! せーめーさまああ!」

 かぷかぷとどちらかと言えば甘噛みを繰り返す二人をなんとも言えない気持ちで眺めていた晴明の背筋に、なにか冷たいものが滑り落ちる。恐る恐る月乃女を見れば、彼女は金の双眸を冷ややかな怒りに染めていた。
 どうやら先ほどのつきのとの発言が逆鱗に触れかけたようだ。
 あちこち噛まれてくすぐったいのか、つきのとは月乃女の様子など知った風もなくけたけたと笑い声を上げている。これがもしあの名前を口にしたのが自分だったなら、間違いなく殺されていただろうなあと思い晴明は乾いた笑いを浮かべた。
 きっと今頃、言葉通り彼女の子供たちに『喰われて』いるところだろう。

 このあと、笑いすぎて息ができなくなるまでつきのとは噛まれ続け、結局詳細は分からないままだった。
 最後に月乃女は、幼い我が子の頭を撫でながら言い残した。


「誰の子か知りたければ、鏡をよく見るんだな」


 この理解しがたい言葉のせいでつきのとが恐ろしい勘違いをし、夫婦関係の危機が訪れたのは――また別のお話。



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