後 [ 5/22 ]

おきつねさまのおとしもの


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 守りたいものがある。昔はなに一つ持っていなかった自分が、大切なものを持った。手のひらにそっとそれを載せてくれた者は、あとはなにも知らないと言って背を向けた。
 壊すのも、失うのも、奪われるのも嫌だと言ったら、だったらしっかり握っていろと一喝された。
 その通りだと納得したから、今自分はここにいる。
 無数の刃が雨のように降り注ぎ、絶え間なく身を裂く苦痛に顔が歪んでも、それでも彼は己の矜持に欠けて目を逸らしはしなかった。

「随分と見苦しい姿になったな、晴明よ」

 頭上でくつくつと笑う白銀の天狐を、晴明は思い切り殴り飛ばしたくなった。全身に負った裂傷を気にかけるでもなく、二対一の状況に怒るでもなく、はたまた助太刀する様子もない月乃女は夜空に浮いたまま笑みを浮かべている。
 なんのために来たんだ、という文句をぐっと飲み込み、晴明は投げつけられた衣をまじまじと見下ろした。

「なんだぁ、安倍晴明。天狐様のお助けか?」

 そう言った男の髪は、結うこともできない長さに切られた常識外れのものだ。そもそもこの男の存在自体が常識外れなので、今更そこを気にする必要などないのかもしれない。晴明はそう冷静に判断して、手に握った数珠をじゃらりと鳴らした。
 人間相手に術を使うことは許されていない。だが、相手は人間だけではなかった。長身の男の後ろにいる影――というには綺羅綺羅しいが――は、どこをどう見たところで人ではない。
 ゆるく波打つ長い金の髪は、一つに束ねられている。濁った黒い双眸は、どろりとした粘着質の闇を髣髴とさせた。晴明の脳裏に、一対の双眸が風のように流れ込んでくる。
 あの瞳は底が見えないくらいに深く透き通っていて、黒曜石でさえ裸足で逃げ出す色をしている。輝く闇。そんな矛盾した表現しか、晴明には思い浮かばなかった。
 それは眼前の淀んだまなこと同じ黒という言葉で表現するのが嫌なほどで、知らず知らずの間に舌打ちをする。

「あの天狐が助けてくれるつもりなら、もうとっくに貴殿は黄泉へ渡っていますよ」

「ほぉ、えらく信用してんじゃねぇか。でもそういうことなら……あの天狐様はテメェを助ける気はねぇ――だな?」

「ご確認せずとも、お分かりでしょう」

 形だけの礼に気分を害した様子はない。身の丈も体つきも晴明より遥かに屈強な男――蘆屋道満は、腰に佩いていた刀の鯉口を切った。その瞬間、黙って傍観していた“人にあらざるもの”が同時に動く。

「“戻れ”」

「それを返しなさい、道満」

 声が届いたのは同時。だが、力を持った言霊は白銀の天狐の方が上だった。冬の湖に月の光を一滴垂らした色合いの刀身は、きらりと光を弾いて月乃女のもとまで流れるように飛んでいく。それを危なげなく掴み、彼女は口端を吊り上げて笑った。
 濁った闇が彼女を見据える。

「さすがですねぇ、月乃女様。人間なぞ放り、己だけを確実に手に入れる……ああ、素晴らしい」

「黙れ。……ああ、それからそこの男。“動くなよ”」

「おやぁ? まだ人間に構いますか? 貴方様ともあろうお方が、珍しい」

「黙れと言った。聞こえなかったのか、紫閃」

 下方に向かって放たれた月乃女の言霊は、相当の術者であるはずの道満の動きをいとも簡単に止めて見せた。驚いたのは人間二人で、身動き一つできない道満を前に、晴明は「こんな簡単に止められるんなら、もっと早くに助けろよ」と悪態をつく。
 彼女がもし早めに言霊を使ってくれていたら、自分はこんなにも血まみれにならずにすんだのだ。

 月乃女が「シセン」と呼んだ男は、月明かりに照らされて輝く青白い顔で、にぃと笑う。こけた頬は危うい陶器のような印象を与えるが、濁りきった瞳がその者の美しさから完璧を奪っている。紫閃は長い前髪を払い、己の肩ほどまである長い尾をひょんと揺らした。
 金毛九尾――妖狐の中でも天狐に次ぐ高位の狐。神のような力は持ちえていないものの、その妖力は並みの妖を遥かに上回る。人々はそれを九尾の狐と呼び、一般には天狐と同じと考えられていることが多い。

「おっと…………久しぶりですね、その名を聞くのは。久しぶりすぎて、自分の名だということを忘れていましたよ」

「我とて、聞かされるまで忘れていたさ」

 静かな気迫が満ち始めた。
 晴明と道満など初めからそこにいないかのように、彼らは神気と妖気をぶつけ合う。未だどちらも動いていないことが不思議なくらいで、緊迫した空気は今にも爆発しそうなほどだった。
 月乃女の鋭利な爪が迷いなく紫閃を狙い、その腕を裂く。爪から伝わった肉を抉る感覚は、彼女にとっては久方ぶりのものだった。ぬるりとした液体が指を這い、爪と肉の間に紫閃の肉片が詰まる。それをぴんと弾いて手を払い、血の滴る指先を黙って見下ろした。
 紫閃は動く気配を見せず、ただただ嬉しそうに瞳を細めて月乃女を見つめている。
 秘められたのは、狂気。

「貴様、どういうつもりだ?」

 紫閃は答えない。月乃女が目にも留まらぬ速さで切っ先を喉もとに突きつけるが、彼が瞬き一つしなかった。
 逆に自ら刀身をきつく握り締め、滴り落ちる血を見て恍惚の表情を浮かべる。

「答えろ。いかずちを宿す金毛九尾の狂った狐よ。我が尾を御することは不可能だ。そして、我に逆らうは大罪。やせ細った九尾など、敵ではないがな」

「相変わらず勘がよろしいですね、月乃女様。ですが、私はただ貴方様にお会いしたかっただけなのですよ。そして、我が妻に……と」

「笑止。貴様には尋ねる価値などなかったようだな。もはや用はない。滅びろ」

 怒りで月乃女の目元が赤く染まる様を、晴明は初めて目にした。術を解こうと四苦八苦している道満から距離を取り、腕に負った深い傷を押さえるようにしながら座り込む。
 血を多く失ったせいか、どんどんと意識は霞んでいった。駄目だと必死に己に言い聞かせるも、体が言うことを聞いてくれない。ここで気を失えば、道満が動けるようになったときに確実に首を落とされる。
 彼はなぜか晴明を憎んでおり、心の底から殺したいと望んでいるのだ。そのために今回、かの九尾の狐と手を組んだのだという。
 狐憑きになったのかと問うた晴明に、彼は「利害が一致したからな」と不敵に言った。それがどういうことなのかはよく分からないが、月乃女と紫閃の会話を聞く限り、あの二人が関係してくるのだろう。
 ひゅっと掠れた音を出す喉を唾液で潤した晴明は、ぼんやりする意識の中、月乃女の怒鳴り声を聞いた。

「――晴明! さっさとその衣を被って伏せろ!!」

 鼓膜を突き刺す大声量に、気を失いかけていた晴明は瞠目した。なにしろ初めてだったのだ。彼女の、これほどまでに必死の声音は。
 ほぼ反射で衣を被った晴明は、鼻を突く香に眉根を寄せた。鉄にも似たこの香は、間違いなく血臭。己の流す血で鼻は慣れているのに、どうして今更それを嗅ぎ取ったのか――出された答えは、一つだった。

「おい月乃女! なんでこの衣、血まみれなんだ!?」

「天照からの土産だ。あまり加護は期待できんが、それなりの盾にはなるだろう」

 「分かったら大人しくしてろ」と吐き捨てるように言って、月乃女は一閃を薙ぎ払う。己の尾である刀は紫閃の髪を幾本か切断し、彼の頬に一筋の赤い線をつけた。
 つう、と唇の端にまで伝ってきた血を舐めとり、紫閃は首を傾ぐ。

「どうなさったのです、月乃女様? なにゆえ、あのような人間を庇うのです?」

「別に庇うつもりなどないさ。あれをどう使うかはあの馬鹿次第。――いいか、晴明。それを見てお前がどう思おうと勝手だがな」

 月乃女は紫閃から目を逸らさぬまま、困惑する晴明に言葉を投げる。

「それは冥土の土産ではない。まあもっとも、お前がそれを冥土の土産にしたいのであれば、話は別だ」

 その意味が解せぬほど、晴明は愚かではなかった。
 だが、それでも心が痛む。斑に染まった衣。多くの血を吸い、重くなった衣。
 そして力を持つ、血。

「…………つきのと、は」

 きっとこの声量じゃ月乃女には届かない。だが、尋ねずにはいられなかった。

「野兎が晴明晴明とうるさい。お前、帰ったらきちんと躾けておけ。……ゆえに、今は“眠れ”」

 それは遠回りをした、問いへの答えだった。
 あの子は無事だ。あの子は死んでいない。だから、死ねない。ちゃんと帰って、ただいまと言ってやらなくては。
 でなければきっと、あの子は泣く。
 安堵して気が抜けたのか、晴明はふっと意識が途切れるのを感じた。それが月乃女の言霊だということを知ったのは、後になってからの話だ。そのときの言霊が、晴明だけでなく道満に対しても有効だったとしることも。

「ふふふ、いつの間にそのようにお優しくなったのですか、月乃女様。貴方様らしくないですよ。なんでしたら、私が奴を引き裂いて差し上げましょう。そうだ、それがいい。貴方様のお顔が紅に染まる様……ぜひ見てみたいものです」

「相変わらず無駄口の多い……まあいい。去ね」

「おお怖い。ですが本望ですよ、貴方様に殺されるのであれば。欲を申し上げますと、貴方様のすべてが欲しかったのですが……そう、月黎様の嫡流である貴方様の」

 月乃女の凄絶な神通力に紫閃の肌が裂けるが、彼は気に留めた様子もなく続けた。
 「げつれい」という名に、月乃女の眉が僅かに震える。
 月黎――それは、月の力を掌握した太祖の狐。今や空狐となり、この世に神として君臨する。その血を受け継ぐ狐は強大な力を持って生まれると言われ、妖狐の中で名を知らぬ者はおらぬと言われているほどだ。月黎の嫡流は皆、その名に月を継ぐ。
 名に月を持つ月乃女も、その血を色濃く受け継いでいた。

「……そうか。貴様の目的は姉上か」

「ええ、そうですとも。目障りなのですよ、あの月落としは。大した力も持たないくせに、月黎様の血を引いている。そして貴方様の寵愛も欲しいまま……これほど理不尽なことなど、ないでしょう?」

「裏切り者に手を下すのは一族の長。その愚鈍な脳でも忘れたわけではあるまい? それに貴様は天狐ではない。――九尾の狐風情が姉上に手を出してみろ。生き地獄へいざなってやろうぞ」

 ほんの一瞬妖艶に微笑んで見せた月乃女は、爆発する怒気を隠しもせずに紫閃を斬りつける。ざっと肉を抉った感触が柄に伝わり、刀を通して滲み出る神気が彼を身の内から焼いていく。
 どろりとした血が滴るのをぼんやりと眺めていた紫閃が、ようやっと痛みに顔を歪めた。体を駆け回る天狐月乃女の白炎は、内腑を喰らいつくそうと蛇のようにうねり心の臓にとぐろを巻く。
 徒人であれば見ただけで死んでしまいそうな眼光を浴び、紫閃が喉を鳴らした。

 留まることを知らない憎悪、怨嗟。それに切り付けられ、紫閃の心は歓喜に打ち震える。
 冷徹無慈悲と仲間内からでも恐れられる天狐月乃女。彼女は誰に対しても平等だ。それは、誰に対しても冷酷になれるからである。
 だがたった一人、彼女の特別がいる。
 唯一彼女に愛された脆弱な狐。あの月黎の血筋にありながら、月を授からなかった無能の狐。一族からも見放されたあの狐が、今まで生き延びてこれたのには理由があった。

「ねえ、月乃女様。どうして貴方様はあの無能を守るのですか? あのような恥さらしが貴方様の守護を得るだなんて、考えられませんよ」

 ずっと。
 生れ落ちてからずっと、月乃女は双子の姉を守ってきた。一族で最も力を持って生まれたのが月乃女で、その姉はまったく神通力を備えていなかった。
 生まれたときから九尾の狐と、一尾の狐。
 本来ならば殺されていたはずの月乃女の姉。
 妖狐の誰もが口を揃える。――なぜ、と。

「貴方様はお変わりになられた。非常に残念ですよ、月乃女様。かような人の子にまで慈悲をおかけになるとは……」

「勘違いするな。我は人間を助ける気など毛頭ない」

「天照の加護を得た衣で盾を授け、我々の神通力から守ってやっていても……ですか? それに、貴方様は先に道満の動きを止めた。あのまま放っておけば、二人とも死んでいたのに」

「……ならば紫閃、一度しか言わぬ。よく聞いておけ」

 月乃女の手から刀が掻き消え、まばゆい光が渦巻いた。瞬き一つ分の間に尾へと転じたそれは、月乃女の後ろでひょんと揺れる。
 強大な力を持つ天狐の尾は、九尾ではなく四尾。


「ただの気まぐれだ。紫閃、覚悟しておけ。――格の違いを見せてやろう」


 凄絶な笑みが、轟く雷鳴に彩られた。



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