中 [ 4/22 ]

おきつねさまのおとしもの・中


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 記憶の中にいるあの人は、いつも穏やかに笑んでいたような気がする。どんな顔をしていたのかさえ思い出せないが、不思議と声だけははっきりと耳の奥に残っていた。それから、優しく頭を撫でてくれたあの手のひらの温度も。
 愛しているかと問われれば、すぐに是とは言えない。即答できるだけの思い出がないからだ。だが、慕っていることは確かだった。幼い頃はよくあの人を呼んで泣いていたそうだから、愛しているのだろう。
 彼はいつの間にか、自分の心さえ分からなくなっていた。

+ + +

 これは、つきのとが安倍邸に訪れて二年の月日が流れたときの話だ。
 半蔀(はじとみ)を上げた幼い少女は、大きな目をくりくりと輝かせて、庭の隅にいた影を見つめていた。はっきりとした形には見えないが、少女のまなこには黒い靄のようなものが映っている。庭へ降りようかどうか迷っていた頃合に、立てかけていた几帳がかたりと音を立てた。

「……おきつねさま?」

 この屋敷に無断で訪れることができる来訪者といえば、銀毛四尾の天狐しか思い浮かばない。動きやすい水干の袖を風に遊ばせ、つきのとが几帳の方に目を向けた。だがそこには生絹がひらりと揺れているだけで、誰の姿も見えない。
 あれ、と首を傾いだ彼女は、日の暮れ出した空を見てこの部屋の主を思い浮かべた。
 彼は出仕に赴く際はきちんと身なりを整え、それこそ貴族のように気品を漂わせるが、一度屋敷に戻ってきてしまえば身なりなど気にしない。結わずに下ろされた髪がぼさぼさになろうと、単衣の襟がへにゃりと曲がろうと、お構いなしなのである。そのくせつきのとの衣服にはこだわり、やれ丈が短いだの合わせ目が乱れているだのと注意する。
 そのおかげで見違えるほど小奇麗になった彼女は、艶やかな黒髪をいつも彼の式に結ってもらっていた。
 彼の名は安倍晴明という。おきつねさまこと月乃女に紹介されてから三月ほど、彼女は彼のことを本物の狐だと思い込んでいた。彼はこの年で十八になり、六つになったばかりの彼女にとっては大層大人に見えた。
 つきのとにとって、晴明はすべてだった。事実上家から捨てられ、真夜中の神社を一人で彷徨い、一度見えた希望を潰されたところで彼は現れた。名前さえ持たなかった童女に自ら名を与え、光をくれた。どれほど泣きじゃくっても彼は怒らず、困ったように笑って抱きしめてくれた。
 それだけで、もう十分だった。
 この人に一生ついていこう。この人の傍にずっといよう。幼い胸に、なによりも強い決意が宿っていることを彼はきっと知らない。
 本人でさえ気づかない、熱い、大人にも負けない感情が根付いていたことを、まだ誰も知らなかった。
 きゅう、と締め付けられるような痛みが胸を襲う。それは唐突にやってきて、気まぐれに帰っていく。そのときはいつも周りに誰もいなくて、大抵こうした夕暮れで、つきのとは、ああ、と悟る。けれど彼女はその痛みに名前をつけなかった。泣きたくなるくらいの痛みが襲っても、彼女は知らないふりをし続けた。

 言えるはずがない。――寂しい、などと。
 
 晴明は朝廷に出仕しなければならない。彼の父もまた、同じことだ。彼はどこか遠くを見ながら、母はいないとだけ告げた。この屋敷はとても広いのに、女房の一人もいなかった。それでも屋敷の隅々まで手入れが行き届いているのは、晴明の放つ式達が働いているからだ。
 つきのとに異形を見る力はない。だが力ある者の近くにいるせいか、ぼんやりと靄が見えるようになってきた。式達は彼女が望めば姿を現してくれるだろうが、別に見たいとは思わない。
 人の姿をしていても、それは人ではない。……彼女が望むものではないのだ。
 円座を引っ張り出して、彼女は腰掛けた。小さな頭を壁に預けて、瞳を閉じる。
 この屋敷にいる人間は、彼女だけ。

「……晴明さま」

 だんだんと脳が上に引っ張られるような感覚がして、眠りに落ちようとしているのだと分かる。せめてあの人が帰ってくるまでは起きていて、一番におかえりなさいを言いたいのに。だからまだ寝られない。なのにどんどんと周りの音は遠ざかって、やがて少女の闇は白い霧で覆われた。
 

 塀を飛び越え、いささか乱暴に屋敷に訪れた月乃女は、すうすうと寝息を立てる少女を見て目を丸くさせた。最初は壁にでももたれていたのであろうが、ずり落ちて床に直接寝そべっている。円座の上で猫のように丸まりながら、つきのとは胸にしっかりと晴明の衣を抱いていた。ぎゅう、と小さな体で抱き締められた衣はくしゃくしゃになり、見るも無残な姿になっている。
 月乃女は足音を殺し、そっと少女の脇に腰を下ろした。鋭い爪が備わった手を伸ばしかけ、少女の髪に触れる直前に引っ込める。それは彼女にしては珍しい、躊躇いを表す行動だった。

「あの馬鹿が死ねば、貴様はどうするのだろうな」

 泣くだろうか。絶望して自らも死を選ぶだろうか。それとも、なにもなかったことにして、新しい人生を歩むのだろうか。
 月乃女にしてみれば、彼女がどれを選ぼうとどうでもいいことだった。この少女の人生など月乃女にはまったく関係のないもので、生きようと死のうと本当にどうでもいいのだ。
 しかし、どうでもいいとはいっても、興味があった。数奇な運命を辿る星宿を持って生まれたこの人の子が、どこまで耐えられるのかを見てみたい気がした。
 恨むだろうか。嘆くだろうか。真っ白な心が闇に塗り替えられ、やがて悪しきものに堕ちるだろうか。
 もしもそうなれば、晴明は月乃女を許さないだろう。たとえ死んでも、彼は冥府から月乃女になにかしようとするだろう。

「くだらんな……」

 そう一人ごちて、月乃女は欠けた己の尾を眺めた。妖狐の中でも最も高い位置にいる、銀毛四尾の天狐。誇り高い天狐族の頂点に立つ彼女は、今まで誰にも見せたことのない憂い顔を浮かべて息をついた。
 銀の髪がさらさらと零れ落ちる。つきのとはそれに頬をくすぐられ、ゆっくりと瞼を押し上げた。

「おきつね、さま?」

「いつまで寝ている気だ。さっさと起きろ愚図」

「うー……おきつねさま、晴明さまは、まだですか?」

 ごしごしと目を擦りながら起き上がったつきのとは、辺りを見渡しながら尋ねた。日はとっぷりと暮れ、細い三日月が空に浮いている。普段ならばもう帰宅している刻限のはずだった。しかしそこには月乃女以外の誰もいない。
 あれ、と思ってもう一度室内を見渡しても誰もおらず、精一杯気配を探ったところでこの屋敷に誰かがいる様子は感じられなかった。

「あれ……、おきつねさま、しっぽが一本足りない……」

「晴明はそれを探しに行った。おそらく今夜は帰ってこれぬな。いや……もう二度と、帰らぬやもしれん」

「え? どういう、こと、ですか?」

 驚きに見開かれた目は、次第に恐怖と不安で染まっていった。それを無感動に見下ろしながら、月乃女は残酷な言葉を言い放つ。

「下手をすれば死ぬ。そういうことだ」

「……どうして? せーめーさま、どこに行ったの? なんで死んじゃうの? ねえ、なんで!?」

「野兎。貴様は晴明を助けたいか」

 考える必要などない。大きく何度も頷いたつきのとは、大きな目を涙で滲ませて真っ直ぐに月乃女を見上げた。衣を握り締める手に力を入れ、しっかりと掻き擁く。――まるでそれが、晴明自身だとでもいうように。
 なんで、を繰り返す少女の声は、次第に嗚咽に変わっていく。相変わらず耳障りなそれに眉を寄せた月乃女だったが、さほど力を入れずにつきのとの手を掴み、持ち上げた。

「助けたくば、貴様の血が必要だ。一滴二滴では済まされぬ。下手をすれば貴様が死ぬ。……それでも、あの馬鹿を助けたいと望むか」

 うん、とこれまた大きく頷いたつきのとは、しゃくり上げて震える唇を動かす。

「せ、めいさまが、だいじょ、ぶ、ならっ、いいの!」

 一瞬月乃女の目が剣呑に細められ、次いで呆れたような光を灯した。
 細い手首に浮き上がる血管と己の爪を交互に見やり、手首を握る腕に力を込める。
 罪悪感はない。悪いなどとは微塵も思っていない。だからこそ、痛みに息を呑んだ少女を見ても、彼女は腕の力を緩めようとはしなかった。

「いいか、よく聞いておけ。我が与える恩情は、ただの一度きりだ。ゆえにこの先、貴様になにがあろうと我は知らぬ。貴様に晴明を引き合わせたのは、ただの気まぐれだった。だがこれは、我が唯一かける最初で最後の恩情だ。――貴様は薄くとも、天照の血を引いている。あの腐れ爺を父に持ったこと、感謝しておけ」

 つきのとは最初、なにを言われているのか理解できなかった。アマテラスは神の名前だ。今の晴明を助けるのに、なんの関係があるのだろう――と。そこでふと、昔晴明が教えてくれた話がよみがえる。
 天皇家の一族は皆、天照大神の子孫なのだという。代を重ねるごとにそれはどんどん薄くなっていくが、遥か昔は帝本人が悪霊調伏できるほどの力を持っていたらしい。
 幼いつきのとには、天照の血が流れているということがなにを示しているのかは理解できなかったが、晴明を助けることができるのならばと頷いた。

 拾われた者にとって、拾った者はすべてだ。その人がいなければ、世界は崩壊する。
 どんなに寂しくても我慢できた。それは彼が必ず帰ってくると信じていたからだ。笑ってくれなくても、頭を撫でてくれなくても、それでもその声が聞こえるだけで安心できた。
 だけど。
 あの人がいなくなるのだけは、耐えられない。

「後悔するな」

 冷たい響きのそれと同時に、手首に焼けるような痛みが走る。月乃女の鋭い爪で裂かれた皮膚は、ぱっくりと裂けて深紅の血を吐き出し続けた。あまりの痛みに小さな唇からは絶叫が迸り、きつく瞑られた目尻からは滝のように涙が流れ出す。
 ぼたぼたと絶え間なく流れ続ける血が、晴明の衣に吸い込まれていく。墨色のそれは血が染み込んだ部分だけさらに黒く染められ、つんと独特の香をさせていた。しばらくして、月乃女の腕に重みが宿る。気を失ったらしいつきのとの顔色は紙のように白くなり、唇からは色が失われていた。
 彼女は手首を自分の方へ近寄せると、赤い舌を傷口に何度か這わせ、細腕を伝う血を晴明の衣で拭う。おびただしい赤で濡れていた手首には、不思議なことに傷つけられたような痕は見られなかった。
 ごとりとその場に転がし、月乃女は衣を持って立ち上がる。濃さを増した藍色の空に消えようとしたところ、背後に気配が生じた。

「つきのと様はわたくしが面倒見まするゆえ、どうかお急ぎを」

「ほう……止めぬか、吹雪」

「このお屋敷を血臭で染められましたことより、我が主のお命が大事にございまするゆえ。そうは申し上げましても、この吹雪、今にも貴方様を殺して差し上げたいくらいですが」

「だろうなぁ。我も貴様を八つ裂きにしてやりたいわ。裏切り者の吹雪よ」

 振り返らないまま淡々と言葉を紡ぐ。

「ああそれとも、こう呼ぶべきか? ――姉上、と」

 誇り高い天狐でありながら、人間の式へと降った愚かな女。一族の裏切り者は、皮肉にも時を同じくして生まれた双子の姉だった。
 しかし彼女に月乃女のような神通力はなく、人の姿をとる際には耳も尾も消え、人そのものとなる。狐の姿のときに発揮される力とて月乃女の足元にも及ばず、天狐とは到底呼べない弱さを持っている。
 暗黙の了解で姿を合わせることのないこの二人の関係は、晴明でさえ知らない。
 急激に低下していく室内の温度に合わせて、柱の一部がぴきりと鳴いた。よく見れば、梁の一部が凍り付いている。

「早くお行き下さいませ」

「そう怒るな。なに、晴明とてしばらくはもつだろう。あれは早々簡単には死なん」

「紫閃(しせん)が出てこなければの話でございましょう」

「……懐かしい名だな」

 くっと喉を震わせて嘲笑し、月乃女は首だけで振り返る。初めてその金の目に映した姉の姿は、自分とは似ても似つかぬほど平凡な顔立ちをしていた。

「なんのために、神剣をお作りになったのですか」

「なぁに、単なる気まぐれだ」

「いいえ、紫閃をおびき出すためにございましょう。貴方様は我らが主を利用することに、なんの躊躇もなさらない。そしてあの方が死のうとも、心を痛めたりなどなさらない。わたくしは紫閃も憎いですが、貴方様も憎い。もしあの方が死のうものなら、わたくしは命を賭してでも貴方様を屠ります」

「ならば期待している」

 音もなく跳躍し、軽々と庭の木に飛び移った月乃女は最後にそう言った。腕に力なく横たわるつきのとを抱え、吹雪は唇を噛む。
 力があれば。
 そう願うのに、なにも手に入らない。

+ + +

 一人は嫌だ。すごく怖くて、寂しい。
 そう嘆いていた幼い頃の自分に、凛とした声が投げられた。

『馬鹿かお前。一人を寂しいと思うのは、お前が本当は一人ではないと知っているからだ。傍にいてくれる誰かがいることを知っているからこそ、周りに誰もいないと不安になる。我には誰もおらぬから、寂しいなどとは思わぬな』

 救い上げてくれる手の暖かさを知っているから、寂しいと感じるのだ。愛されていることを心の奥で感じているから、寂しいと思うのだ。
 孤独じゃないと教えてくれたのは、意外なことに冷酷無情と恐れられている銀毛四尾の天狐だった。
 どこまでも傲岸不遜で、絶対に敵わない白銀の艶麗な天狐。
 彼女に奪われたものはたくさんある。大切な人も、矜持も、たくさん壊された。けれど彼女は、たった二つ、大切なものを与えてくれた。
 それはとても大切なもので、今までたくさん壊されてきたことを帳消しにしてしまうくらい、かけがいのないものだった。
 だから彼は、彼女の我侭を聞いてしまうのだ。
 
「――遅かったな、安倍晴明」


 それによって、さらにたくさんのものが壊されてしまうのだと分かっていても。




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