春告げの草 [ 15/22 ]

春告げの草


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「霞始雲逮―カスミハジメテタナビク―」

 りん。
 鈴の音と共に、青年は符を空に放った。薄っぺらな一枚の紙が、まるで意思を持っているかのように、迷いなく一直線に飛んでいく。風の影響など微塵も受けず、ただ目標に向かってまっすぐに。
 青年が足を動かした。印を結ぶ手と呪(しゅ)を唱える口は、一瞬たりとも休むことがない。

「草木萌動―ソウモクメバエイズル―」

 符が、青年の眼前にある枯れ木にぴたりと張り付いた。ぼう、と、符から淡い光が蛍のように発せられる。赤い色をしたそれは、炎とは違った。柔らかく、どこか優しい匂いをしている。
 強く吹いた風に烏帽子を吹き飛ばされながらも、青年は気にした風もなく、枯れ木に向かって微笑んだ。

「春告げの草よ、芽吹け」

 刹那、ぱんっと破裂音を響かせた符が弾け、強烈な赤い光がその場にいた人々の目を焼いた。風が耳を削ぐ。翻る衣が肌を叩く。
 そして風に乗って、あの香りが鼻先を掠めていった。
 風が収まり、人々はそっと目を開ける。あちこちには、吹き飛ばされた烏帽子や扇子が転がっていた。しかし誰もそれに気にとめた様子はない。ぼさぼさの頭で、乱れきった衣で、ただただ呆然とある一点を見つめていた。
 その場には静寂が降り立っていた。誰もなにも言わない。口をぽかんと開けたまま、両のまなこにそれを焼き付けている。
 青年が足下に転がってきた烏帽子を拾い上げたところで、ようやっと人々に時が戻ってきた。その場がわっと湧く。

「さすが、さすがは安倍晴明よ! あの枯れ木を見事、蘇らせよった!」

「希代の陰陽師殿! いやはや、すばらしい! すばらしい! ささ、こちらへ。茶を!」

「はよう! 皆の者、花見酒としようぞ!!」

 歓喜に湧く男達に手を引かれ、青年こと安倍晴明は微苦笑を浮かべた。
 ここは、とある大臣の屋敷だ。今この場にいるのは、つい先日個人的に依頼を受けたからだった。美しく咲いていた庭の梅が、去年突然朽ちてしまった。それ以来、大臣の血筋にはよくないことばかりが起こるというのだ。なにかの呪詛かもしれないから祓ってくれと頼まれ、権力をちらつかされては断るわけにもいかず、ついつい頷いてしまったのだった。
 来てみれば、確かに呪詛の類だった。木には、狐の霊が憑いていた。
 戯れに狩られた子狐が、自分が死んだことも分からずさまよっていたところ、この木に吸い寄せられてしまったらしい。梅の木自体に霊力が宿っていたため、溶け込むのは用意だったろう。

 お前はすでに死んでいるよ。
 告げると、子狐は言った。

 ――どうして? おっかあは?

 分からない。でも、お前はもうお逝き。

 ――おっかあは? どうして?

「どうして、か……」

「晴明? どうされた」

「ああ、いえ……。なんでも、ございません」

 美しく咲き誇った梅を見ながら、注がれた酒をちびりと舐める。赤く、小さな花がこちらを見ていた。甘い香りがしているはずなのに、どこか苦いように感じたのは酒のせいだろうか。
 大臣が早くも顔を赤らめて笑っている。皆、大臣を囲んで、酒を注ぎに回っている。
 狐が憑いていたなど、言ったところで誰も聞く耳を持たないだろうことは明白だった。それに、言うつもりもなかった。
 言ったところで答えは決まっている。狐を散々なじり、そして意味ありげに晴明を見て、笑うのだ。「ようやってくれた」と。

 どうしてと問いかけてきた狐に、答えてやることができなかった。理由などないからだ。狐狩りは貴族の嗜み――遊戯だ。娯楽という理由を説明したとて、恨みを芽生えさせるだけだろう。
 そういえば、あの子は「どうして」と尋ねてくることはなかった。母は外つ国に行ったと聞かされて育った子供は、晴明に引き取られてから一度たりとも、「どうして母はいないのか」と聞いてくることはなかった。
 天狐にでも聞いたか、それとも悟ったか。どちらにせよ、楽なようでいて、ほんの少し心苦しさを覚える。
 あの子はけして我儘を言わない。十二分に甘えたふりをして、その実どこかまだ遠慮している。

「……俺は、聞いたぞ」

 かかさまはどこ。どうしてかかさまはいないの。
 ――どうして、きつねのこと呼ばれるの。
 そのたびに父が目を伏せ、痛みを飲み込むような表情をした。それでも、聞き続けた。どうして、と。
 返ってきた答えを受け入れるまで、何年もかかったのだ。

「晴明! どうだ、今宵は屋敷に泊まっていかんか」

 上手い酒を用意しているぞ。晴明の肩を強く叩いた大臣は、赤ら顔で豪快に笑った。失礼にはならぬよう、微笑しながらその手をそっとどける。
 その手に一枚の符を握らせて、晴明は深く頭を下げた。

「これなる符は、今後も貴方様の身に降りかかる災厄から守ってくれることでしょう。どうか、お納めください。大変心苦しいのですが、私はこれにてお暇を頂戴致します」

「ふむ。そうか、では仕方あるまい。ようやった、晴明。さすがは大陰陽師よ。またなにかあれば、そなたに頼む」

「ありがとうございます。では、これにて――」


+ + +



 ちくり。ちくり。
 一針一針、思いを込めて破れた衣を繕う。晴明は宮仕えの仕事以外にも、大変な仕事をこなしてくることがある。そのときには、決まって衣をぼろぼろにして帰ってくるのだ。
 普段は式の吹雪が縫い繕っているが、最近は吹雪に教えてもらいながら、つきのとが主に針を持っている。
 この衣一枚とて、晴明の身を守る大切な鎧になりますように。この思いが、大好きな彼を守ってくれますように。願いを込めて、一針一針を大切に通すのだ。
 気がつけば、手元に落ちる影が随分と色をつけていた。衣が赤く染め変えられ、日暮れだと知る。燃えるような夕日の色に、つきのとは眩しげに目を細めた。傍らの吹雪がふとその手を止め、顔を上げる。

「吹雪さん?」

「晴明様のお帰りです。迎えに行きますか?」

「はいっ!!」

 慌てて立ち上がったせいでどこかへ落ちてしまった針は、吹雪がきちんと見つけてくれた。はしたないと怒られてしまいそうなくらい必死に、つきのとは戸口までひた走った。息が弾み、同時に心も弾んだ。屋敷の壁がどんどんと流れていく。
 沓を脱いでいる途中の晴明を見つけ、つきのとは構わずその胸に飛び込んだ。

「おかえりなさいっ、せーめーさまっ!!」

「うおっ! 危ないから飛びつくのはやめなさいって言っただろう、つきのと。たっく……、ただいま」

「だってだって、早くお会いしたかったんですもん! わたし、ずーっといい子で待ってたんですよ!」

「はいはい。いい子いい子」

 大きな手にわしゃわしゃと頭を掻き混ぜられると、いつだってほっとした。これが陰陽師の力なのだろうか。やっぱり晴明さまってすごいんですね、と一人ごちて、つきのとは彼の烏帽子を預かる。
 ぴょこぴょこと跳ねるようにしてついて歩きながら、いつものように今日あったことを語って聞かせた。
 庭に雀の親子が遊びに来たこと。少し暖かくなってきたこと。縫い物が上達したこと。梅の花が咲いたこと。
 廊下で着替えを待ちながら声を張り上げていると、相槌がぴたりとやんだ。衣擦れの音も聞こえない。

「晴明さま?」

「ああ、いや……。梅が咲いたのか」

「はい。赤くって、ちっちゃくって、とーってもかわいいんです! あとで一緒にお花見しましょう?」

 再開した衣擦れも、すぐにやんだ。顔を出した晴明の手を引いて、庭に降りる。梅が咲く時期とはいえ、日が落ちると寒さが戻ってきていた。小さく震えたつきのとの身体が、一瞬にしてふわりと浮き上がる。
 唐突な温もりに目をしばたたかせると、すぐ近くに晴明の顔があった。どうやら抱き上げられたらしい。溢れ出る幸福感を素直に顔に出しながら、つきのとは「あっちです」と梅の木のある方を指さした。
 今朝見たときよりもずっと間近に見ることができた梅の花は、ふわりと甘い香りを届けてくる。

「ね、晴明さま、かわいいでしょう?」

「ああ、そうだなあ。……綺麗だな」

「梅のお花は、もうすぐ春だよって教えてくれてるんですって。さみしい冬は終わりだよって。あったかくって、優しい春が来るんだよって。新しく生まれてくる命を、かんげいしてくれてるんですって」

 でもわたしは、冬も好きですよ! だって、雪がとっても綺麗なんです!
 はしゃいで付け足したものの、晴明はぼうっと一点を見つめたままなにも言わない。どこか強ばった表情に、つきのとは違和と同時に不安を覚えた。
 小さな手で、彼の頬を挟む。ようやっと、晴明の目がつきのとと重なった。

「せーめーさま? どうしたんですか?」

「……いや、なんでもないよ。梅花が綺麗だから、つい見とれていた」

「そう、ですか……? でもせーめーさま、なんだか、つらそうです……」

 どこか怪我でもしているのだろうか。それとも無意識に、なにか傷つけることを言ってしまったのだろうか。
 どうすれば元気になってもらえるのだろう。どうすれば、笑ってもらえるのだろう。
 不安に揺れた瞳を慰めるように、晴明はつきのとの背を撫でた。「大丈夫だよ。俺は平気だから」穏やかな声音は、つきのとを庇うものだった。

 ――ちがう、違うんです、晴明さま。わたしは、晴明さまを守りたいんです。

「……晴明さま、どうして、泣きそうなんですか? ……どうして、…………どうして、なにも言ってくれないんですか?」

「え?」

「なにかつらいこと、あったんですよね? いじめられたんですか? そんなの、このわたしがびしっと言って――」

「――どうして、か」

「ふえ……?」

 独り言のように呟き、晴明は梅の花を見上げた。どこか懐かしむような、けれど僅かに哀愁さえ漂うその眼差しに、つきのとの目は釘付けになる。
 ぎゅ、と、己を抱く腕に力が込められたのを感じた。

「お前は、こういうときにだけ、『どうして』と言うんだなあ」

「あの……?」

「自分のことはなーんにも聞かないくせに、俺のことばかり、どうしてどうして――と。損な性分だなあ」

 責められているのか感心されているのか、つきのとには判断がつかなかった。
 父のようであり、母のようであり、兄のようでもあるその人は、つきのとの小さな身体を抱き上げたまま、じいと梅を見つめている。
 赤く小さな花を。春を告げる、その花を。

「え、っと。あの、わたし……、むずかしいことは、よく分からないんですけど……。でも、損なんかしてませんよ。だって、せーめーさまのこと、もっともーっと知りたいんですもん」

 笑っているなら、その理由を。そして一緒に、笑い合いたい。
 悲しんでいるなら、その理由を。そして半分引き取って、少しでも早く心が治るように。
 どんなことだって知りたい。
 だって彼は、つきのとにとっては大切な世界なのだから。

「わたしのことは、これから自分で知るからいいんです。どうしてって聞かなくったって、わたしは、わたしですもん。でも、わたしかしこくないから、晴明さまのことは聞かなきゃ分からないんです。――どうして晴明さまは、隠し事がお上手なんですか?」

「つきのと……。――そうか。そういう子だな、お前は」

「せーめーさま?」

「長くなりそうだが、聞いてくれるか? なにしろ、今日のことだけじゃなく、俺の昔話にまで遡りそうだ」

 ちょんっと鼻先を合わされて言われた言葉に、つきのとは胸が切なく締まるのを感じた。どこか痛いような感じがするくせに、その痛みが心地いい。これも晴明のまじないだろうか。
 ぎゅっと首に抱きつけば、晴明の好んでいる香の香りが梅のそれと溶け混じる。

「もっちろんです! せーめーさまのお話、いーっぱい聞かせてください!」





 思い出したんだ。
 どうしてと訊ねる狐の子を見て。
 望んでもいないのに、背負わされた運命に嘆いていたあの頃を。
 どうして自分だけがこんなに苦しんでいるのかと、嘆いていたあの頃を。

 なあ、つきのと。


 どうしてお前は、俺を好いてくれるんだろうな。




(大好きだからですよ、せーめーさま)





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