九尾のおきつねさまに望むもの [ 16/22 ]

九尾のおきつねさまに望むもの


hi

 ――あのひとの背中が、すべてだった。


「ああっ、美しい月乃女様……! どうしてあのお方は、あれほど磨き抜かれた魂を持っているのでしょう! こんなにも愛おしいなんて……!」

 いつもこうだ。
 くすんだ金髪に、こけた頬。目の下には隈がくっきりと刻まれている。耳にはぴょこんと狐の耳が生えており、九尾が揺れる様はとても不可思議なものだった。それもそのはずだ。このひとは、人間ではない。
 彼のような存在を、九尾の狐と人は呼ぶ。
 そしてその彼が慕うお相手が、月乃女というらしい。白銀の髪と尾を持つ、美しく強い、神族の末席に連なる天狐だ。何度か見かけたことがある。とても、とても綺麗な姿をした女性だった。
 その月乃女を、彼――紫閃は愛おしいと言う。
 けれど、蛟にはそれがあまり理解できなかった。

「……紫閃さまは、月乃女さまのどこがお好きなんですか?」

「お前は愚かですね、蛟。決まっているでしょう? あの美しさ、あの強さ、まさに完璧ではありませんか。深紅の血に宿る神気、そこに共存する禍々しい妖気。あのお方の強さを愛おしいと言わずしてなんと言うのです?」

「……ですが、紫閃さま。それは、愛ではない気がします」

 ぽつりとした小さな呟きを拾い、紫閃はすっと目を細めた。一瞬にして蛟の肌を指す強烈な妖気が、ぐっと肩に圧し掛かってくる。立っているのもままならない重圧に、呼吸が乱れた。座り込んで見上げた紫閃の目は、震えるほどに凍てついている。
 空気が重い。どうやら彼の機嫌を損ねたらしい。ある程度は覚悟していた。けれど、頭のてっぺんから足の先までを恐怖に支配されると、心はいとも容易く覚悟を打ち砕いてしまう。後悔がどっと押し寄せてきた。
 ごめんなさい。そう言うよりも早く、頭に痛みが走った。紫閃が髪を乱暴に引っ張ったのだ。ぶち、と音がして、何本かが地面に散っていく。痛みに浮かんだ涙など気にするわけもなく、彼はぞっとする笑みを浮かべて唇を歪めた。

「面白いことを言いますね。誰からも愛されたことのないお前が、愛を語りますか」

「あ……」

「お前を生かしておいてやる理由は、愛だとでも思っていましたか? 愚かな。お前のような薄汚い人の子など、私はどうでもよいのですよ。そこらでのたれ死のうが、生きたまま野犬に内腑を食われようが、慰み者にされようが、どうでも。生きていようがいまいがどうでもよい存在のお前が、愛されているはずがないでしょう?」

「……ごめんなさい」

 声は掠れ、最後まで音になっていたか定かではない。俯きたくとも、紫閃が髪を掴んでいるせいでそれは叶わない。嘲笑と侮蔑の視線が、容赦なく蛟に降り注ぐ。
 矜持や己の意思など関係なかった。本能が生存を選んだ。ごめんなさい、ごめんなさい。許して。言葉はするすると零れていく。死の恐怖に怯えた身体は、ひたすらに許しを請うた。許されなければ死ぬ。蛟の生命線は、紫閃の手と直結していた。彼の機嫌を損ねては生きていくことなどできない。まだ幼い蛟が今の今まで生きてこられたのは、彼の「気まぐれ」があったからだ。
 本当ならば、自分はもうとっくに死んでいた。
 村を夜盗に襲われ、家は焼かれた。帰る場所などない。この狐についていくことしか、生きる術はなかった。

「紫閃さ、ま、ごめんなさい……!」

「興が冷めました」

「しっ! 紫閃さま!! 待って、待って下さい! しせんさまっ、おねがい、待って!」

「もうお前に用はありません。――さようなら、蛟」

 くつりと嗤い、紫閃は乱暴に蛟を突き飛ばした。九尾の狐の腕力は、並の人間のそれよりも遥かに強い。幼い子供の身体など容易く吹き飛び、顔も肩も、全身を地面に擦りながら蛟は転がった。したたかに木の幹に打ちつけた背中が、ぎしりと嫌な音を立てた。手首が熱い。頬が草木で切れている。息をするたびに、胸が痛んだ。
 立ち上がろうとした足がもつれ、無様に顔から地に伏した。どろり。鼻に手をやると、赤い血が指先に付着する。
 紫閃は蛟にちらとも目を向けず、背を向けて歩き始めていた。九尾が遠のく。声を上げようとした喉から、鉄の味が広がった。

「しせっ、しせんさまっ! 待って下さい、お願いしますっ、紫閃さま、紫閃さまぁあああああっ!」

 日の落ちた山中に怪我を負ったまま放置されて、ただの子供が一晩越せるはずもない。今は冬だ。夜は身を切る寒さが襲ってくる。この山には野犬も出れば、狼さえ棲んでいる。血のにおいを漂わせておいて、襲うなという方が無謀だった。
 そしてなにより、闇の中、たった独りにされる恐怖が幼い心を押し潰す。
 全身が痛んだ。きっと手首も足首も、捻ってしまっている。切り傷も擦り傷も、打撲も、身体中のあちこちで痛みを訴えている。だが、それでも蛟は立ち上がろうともがいた。痩せ細った足で必死に走ろうとして、何度も転ぶ。そのたびに傷が増える。
 それでも。――それでも、追いかけなければならなかった。

「……ま、って……! 置いていかないで……っ」

 死にたくない。死ぬのは怖い。生きたい。助けて。怖い怖い怖い怖いこわいこわい、コワイ。
 くすんだ金色の九尾が、視界から消えた。残されたのは、不気味な獣の遠吠えが聞こえる闇だけだった。

「置いて、いかないで……!」

 どれだけ泣きじゃくろうと、狐はその声を聞こうとはしなかった。


+ + +



 ――本当なら、もうここにはいないはずだった。

 村は夜盗に襲われ、家は焼かれた。親はいない。流行り病で、二人とも物心つかぬうちに死んだ。自分を育てていたのは、近所の夫婦だった。夫婦は常々言っていた。「お前はいつ死ぬのか」それでも、心のどこかで夫婦に感謝していた。日に一食を与えられるかどうかの生活だったが、それでも、口減らしのために捨てたり、殺されたりすることはなかった。自然と衰弱して死ぬことを望んでいたのだろうが、自分はしぶとく生にしがみついていたのだ。
 家が焼かれたあの夜、たった一人逃げ出した。夜盗は女を慰み者にし、ほぼ息がなくなったところで刃を突き立て、細切れにして川に流した。いつ死ぬのかと、お前は生きていても無駄だと、名を呼ぶ代わりにそう言っていた夫婦が、目の前で殺された。縋りついたところで帰ってこない。怒り狂った業火が空を舐める。血が吹き上げ、人々の悲鳴と夜盗達の笑声が響く混沌の中、幼い子供はひた走った。
 弱った身体に受けた傷は致命傷には至らずとも、十分に命の砂を落としていく。息が上がり、視界がぼやけ、やがて感覚が麻痺していった。
 気がついたときには、降り積もった雪の上に倒れていた。冷たいとも思わない。ただ、柔らかかった。母の腕の中は、このようなものなのだろうか。鵝毛のように降り落ちる雪が、そっと身体を覆っていく。
 かあさま。すでに声は出ない。それでも呼んだ。かあさま、とうさま。顔も知らない。声も知らない。三途の川を渡ったところで、会える自信などこれっぽっちもなかった。
 この世でも独り、あの世でも独り。
 それだけは、嫌だった。
 生きたい。もう、ひとりはいやだ。だれか。だれか、――。

「たすけ、て」

 助けて。死にたくない。生きたい。誰か助けて。
 もうなにも感じなくなっていたはずの額に、あたたかいものが触れた。声が聞こえる。「お前、名は」声はなんと言っただろう。なにを尋ねたのだろう。ここはもう黄泉か。冥府か。
 ふわり。浮き上がった身体を、無理やり引き戻されるような感覚を覚えた。胸が熱い。どく、と痛いくらいに心臓が跳ねた。
 そして、今度ははきと聞こえた。

「……お前、名は」

 どこも動かないと思っていた瞼が、のろのろと押し上げられた。答えたいのに、声が戻らない。魚のように口が動く。やっと出たのは、ひび割れた小さな声だった。

「――みずち」

 生きたい。どうしてと問われた気がした。しかし、生きたいと望むことに理由がいるのだろうか。問われて初めて、自分がこれほどまで生に執着する理由を考えた。なにも思いつかない。はくりと唇を動かして空気を貪ると、まるで猫の子にするように顎の下をくすぐられた。
 あたたかい。あまりの心地よさに、すうっと意識が沈んでいく。
 今思えば、それがすべての始まりだった。



 目が覚めたとき目の前にいたのは、大きな狐だった。くすんだ金色の毛並みに、九尾が揺れている。そのあたたかく柔らかな毛並みに包まれるようにして眠っていたのだ。「ああ、起きましたか。――蛟」狐の化け物は大きな欠伸を一つして、舌を覗かせた。龍の子よ。舌舐めずりと共にそう言われ、ぞっと背筋に寒気が走る。
 食べられるのだろうか。後ずさりしようにも、洞窟のような場所にいるせいで逃げ場はない。

「別に取って食いやしませんよ」

 面倒くさがってそういった狐の化け物は、紫閃と言った。紫の閃光。鳴神の異名だと知ったのは随分あとの話だ。紫閃は、自分をいずれ龍となる存在を意味する「蛟」と呼んだ。元の名は消え失せ、新たな蛟となったのだ。
 それでもよかった。自分は一度死んで、もう一度生まれ変わったのだ。そう思えば、しあわせだった。
 紫閃は蛟を気まぐれで拾ったと言った。「お前などどうとでもよいのです」それは彼が慕う天狐月乃女を真似ただけの、命を命とも思わない行動から引き起こされた偶然だったのだ。
 それを裏付けるかのように、紫閃は蛟の世話という世話をしなかった。当然食事などない。彼は言った。

「生きたければ自分で生きなさい」

 空腹に泣く蛟に、それでも食べていなさいと目の前に放り投げられたのは、腐りかけて蛆の湧いた鼠の死骸だった。見ただけで空っぽの胃が痙攣を起こし、僅かな胃液を撒くはめになった。紫閃はそれを見ても目を細めただけで、代わりのものを差し出すこともない。
 二日までは耐えられた。けれど、それが限界だった。初めて口にした土は、不快感しか与えなかった。雑草も、木の根も、蟻も、蜘蛛も、腐りかけの鼠だって食べた。生きている動物を狩るような素早さは、幼い子供に備わっているはずがなかった。
 何度も吐いて、腹を下し、いっそ死んだ方が楽になれるのではないかと思う日々が続いた。四ヶ月ほど経つと、弱った兎や鳥の雛を捕まえられるようになった。必死に懇願すれば、紫閃は狐火を生み出してくれた。やっと火の通った肉を食べられるようになると、体力も徐々に回復していった。
 一年ほど経った頃だろうか。季節は巡り、また冬になった。兎も鳥も見当たらない。蛟は真夜中に人里に下り、盗みを働いた。当然見つかれば、殴られるし蹴られる。顔の造作が分からぬほどに暴行を受けたこともある。家畜以下の扱いを受け、人としての尊厳さえ奪われるようなこともあった。
 そんな蛟を見ても、紫閃はまったく気を向けることはなかった。気遣いなどない。ただ、どうしようもなく死にかけたときにだけ、赤い狐火をくれた。唇を割って押し込まれた狐火は、とくんとくんと脈打つ心臓を直接あたためてくれるようだった。
 草の根を食べ、泥水を啜り、盗みなど最早日常だった。そんな日々がどれくらい続いたのだろう。ある日、紫閃がふらりと出向いた先に、美しい狐の姿があった。
 目を瞠る美しさの銀毛に、ふさふさとした豊かな四尾。夜の神域で月を背負うその狐は、彼が日頃から口にしていた「つきのめさま」なのだとすぐに分かった。大きな体躯の狐は、瞬く間に人の姿に転じた。

「何用だ、厭わしい九尾の狐よ。我の神域を穢す気か? 即刻立ち去れ。でなくば……」

 びゅお、とまっすぐに立っていられないほどの突風が全身を叩く。腕を交差させて顔を覆ったが、目を開けていられるような状況ではなかった。凄まじい音を立てて紫閃の衣が翻り、髪は好き放題に棚引く。それでも、ちらと覗いた彼の顔は、筆舌に尽くしがたい笑みで染まっていた。
 例えるなら、狂気。

「――屠るまでだ」

 瞬間、蛟の身体は地を転がっていた。なにが起きたのか分からない。したたかに打ちつけた背中が痛んだ。目の前で、激しい閃光が目を焼く。轟音が腹の底を響かせ、重苦しい空気がねっとりと四肢を絡め取っていくのが分かった。
 恐ろしい。人のものとは比べるべくもない力がぶつかり合っている。膝を抱え、蛟は小さくなってそれが終わるのを待ち続けた。空気を震わせるものが己の呼吸のみになったとき、蛟の目に映ったのは血にまみれ、ぐったりと地に横たわる紫閃の姿だった。

「っ、紫閃さま!!!」

「……ん? 貴様、人の子か」

「紫閃さまっ、紫閃さま! しっかりしてください、紫閃さまっ! しせんさまぁっ!」

「…………耳障りよ」

 美しい天狐はそう吐き捨て、あっという間に姿を眩ませた。しかし、今の蛟にそれに気がつくだけの余裕などなかった。どこから出血しているのかさえ分からない様相の紫閃の脇に膝をつけ、必死にその身体に縋りつく。
 心臓は動いている。荒いが、呼吸だってある。紫閃は人ではない。だから、そう容易く死にはしない。何度も何度も言い聞かせるようにそう心中で叫び、蛟は紫閃の身体を抱き締め続けた。
 ――あの日の自分がそうだったように、あたたかなぬくもりに包まれていると、必ず目が覚めるのだと信じて。


+ + +



「……あ、気がつきましたか?」

 ふわりと、優しい香りが鼻先をくすぐった。耳に届いた声は、自分のものではなかった。自分よりも幾分か高く、柔らかい声だ。ゆっくりと瞼を押し上げる。一瞬黒い紗幕が下ろされているのかと思ったが、それは自分を覗き込む少女の髪だった。随分と長く、綺麗に櫛が通されている。あの優しい香りは、彼女のものだろう。
 これは夢の続きだろうか。久しく見ていなかった、懐かしい夢を見ていた気がする。紫閃と出会った頃の夢など、ここ最近はとんと見なかったのに。
 ぼんやりしている蛟の額に、ひんやりとしたものが乗せられた。水に浸し、堅く絞った布のようだ。

「あ、起きちゃだめですよ。お熱あるんですから。お着替えはわたしと吹雪さんでお手伝いしましたから、大丈夫ですよ。だから、もうちょっとゆっくり休んでくださいね」

「え……?」

「みずちちゃん、ですよね? お久しぶりです。覚えてますか? 前に一度会ったでしょう? わたしです、つきのとですよ」

 つきのと――その名には、覚えがあった。紫閃と生を共にするうちに出会った少女だ。彼女は天狐月乃女とよく共にいた。傍らには陰陽師の男が控え、笑ったり怒ったり、くるくると表情が変わるのが印象的だった。
 蛟が紫閃に拾われる理由となった少女だ。年は蛟よりも少し上だろうに、幼い雰囲気を漂わせている。以前顔を合わせたのは割と昔の話だろうに、ちっとも成長していないようにさえ見えた。
 つきのとは微笑みながら、蛟の頭を優しく撫でる。

「おきつねさまがね、みずちちゃんを見つけたんです。それで、晴明さまが飛んでいったんですよ。みずちちゃん、三日も目を覚まさないから心配しました。でもね、大丈夫です。晴明さまがちゃーんと回呪の符を用意してくださいましたし、おきつねさまだって少しだけ力を貸してくださったんですよ」

「…………ここ、は」

「晴明さまのお屋敷です。ゆっくり休んで、おいしいものたっくさん食べてくださいね。元気になったら、わたしと一緒に遊びましょう」

 優しいその言葉は、寝返り一つ打てない身体の痛みよりも遥かに峻烈な痛みを胸に刻む。熱いものが眦を伝った。つきのとが苦しそうな顔をする。
 情けないくらいか細い声で「出て行って」と告げると、彼女は綺麗な衣を翻し、ゆっくりと部屋を後にした。
 綺麗な髪。いいにおい。汚れ一つない顔。滑らかな手。しあわせそうな笑顔。弾む声。
 広々とした室内で、蛟は一人唇を噛み締めた。すぐそこまで出かかっている名を、必死で押し込める。どうしてよりにもよって、この屋敷の人間に拾われたのだろう。どうして、あの天狐は自分を助けたのだろう。どうして、あの女の子が自分の面倒を看るのだろう。
 それでも、生きながらえたことに安堵している自分がいる。
 思考を落ち着けるためには、眠るしかなかった。瞼を下ろし、夢を見ないように祈りながらゆっくりと意識を沈めていく。夢を見ては目覚め、与えられるがままにあたたかい飯を食べ、綺麗な衣を着せられ、数日が過ぎた。
 一月もすれば、蛟の身体はすっかり癒え、以前よりも格段に体力はついていた。肌には艶さえ戻っている。庭に下りたつきのとが、花摘みを手伝ってほしいと言ったので、蛟も同じように庭に下りていた。

「ねえねえみずちちゃん、お花、とーっても綺麗でしょう? これね、晴明さまが植えてくれたんです。お花は心を優しくしてくれるからって」

「……そうですか」

「きっとみずちちゃんにも似合いますよ! ほら!」

 紫色の花が、蛟の短い髪を飾った。「すっごくかわいいです!」きゃっきゃとはしゃいで跳ね回るつきのとは、とてもしあわせそうだった。

「……あなたは、本当に野兎のようですね」

「え? のうさぎ? もうっ、みずちちゃんまでおきつねさまみたいなこと言うんですね!」

 唇を尖らせるつきのとの、血色のいい頬に蛟は手を滑らせた。柔らかい頬だ。見つめ返してくる大きな瞳は、きらきらとしていてまったく淀んでいない。
 くてんと首を傾げたつきのとは、なにかを思い出したように笑った。

「あのね、みずちちゃん。晴明さまが、よかったらみずちちゃんもこのまま一緒に暮らしてもいいよって言ってくれたんです! その……、えと、そうした方が、お友達と一緒に暮らせてわたしも嬉しいですし!」

 紫閃と共にいたことは知っているだろうに、気を使ってそんなことを言う。
 蛟は年に似合わない、卑屈な笑みを唇に刻んだ。

「あなたは、しあわせですね……」

「みずち、ちゃん……?」

「……『死ねばいいのに』だなんて、思ったこと、ないでしょう……?」

 自分以外の誰かが死ねばいいとそう望んだことなんて、この無垢な少女にはあるはずがない。紫閃から聞いたことがある。彼女は、晴明を助けるために自らの血を使ったのだと。それは下手をすれば冥府の官吏が出向くほどの、ぎりぎりの量だったと聞いた。
 つきのとは、晴明を助けるためならば自分の命さえ投げ出すのだ。死んでもいいと、思う人種なのだ。

「私は……、あなたみたいに、綺麗じゃありません。……ずうっと、思っているんです。死ねばいいのに。この世からいなくなってしまえば、いいのに。……あなたも、晴明さんも、あの天狐も。私を苦しめる人間も、私よりしあわせな人間も、ぜんぶ、ぜんぶ。……紫閃さまと私以外は、みーんな、死んじゃえばいいのにって」

 そうすればきっと、苦しまなくてすむのだ。比べる誰かがいなくなれば、きっと、ありのままに自分のしあわせを認められるに違いない。
 目を丸くさせ、言葉を失うつきのとの額に、蛟は軽く唇を寄せた。熱に込めたのは、感謝でも愛情でもない。――憎しみだった。

「あなたなんて、いなければいい。……死ねばいい。…………愛を知っている人間なんて、消えてしまえばいいんです」

「みずちちゃ……」

 愛されたかった。
 この子のように、綺麗な衣を着て、笑いたかった。
 どうして似たような境遇なのに、こうも違うのだろう。九尾ではなく、四尾の狐に拾われていればよかった? ――否。違う。そうじゃない。そんなことではないのだ。
 あの狐に拾われたことを後悔などしたことは、今まで一度たりともないのだから。

「……死ねば……、いいんです……」

 頬を挟んでいた手を、首に移動させた。どくどくと脈打つそこに、力を込める。

「――嫌、です」

 さらに力を込めようとしていた矢先、思いの外強い声音が耳朶を叩いた。はっとして顔を上げる。焦点を合わせた先にいた彼女の瞳は、静かな光を灯していた。

「嫌です。わたしは、みずちちゃんのためには死ねません。晴明さまだって、おきつねさまだって、この世の誰も、みずちちゃんのために死んでいい人なんていないんです」

「…………」

「わたしたち人の子は、いつか絶対、死んじゃうんです。おきつねさまたちよりも、ずっとずっと先に、死んじゃうんです」

 つきのとは蛟の手に自らの手を重ね、にこりともせずにまっすぐに言い放つ。
 あまりの眼力に、蛟の方が負けた。目を逸らして離れようとしたのに、つきのとが強く手首を掴んできたせいでそれもできない。「離して下さい」そう言った声さえ無視し、彼女は続けた。

「……わたしだって、晴明さまを苦しめるような人は、いなくなっちゃえばいいって、思いますよ。……でもね、その人が天命以外の理由で死んじゃったら、晴明さま、きっと悔むんです。晴明さまに傷を負わせた人は、それだけ晴明さまの記憶に残るから。だから、きっと、あの人は、ちょっとだけ悲しむんです」

「……自分を、苦しめる人間が相手なのに?」

「ね。不思議でしょう? でもね、わたしの大好きなせーめーさまは、そういう人なんです。あっという間の人生を、誰よりも『おおか(謳歌)』したい人なんですよ」

 だからね、とつきのとは笑った。とろけそうなくらい、優しい微笑みだった。

「だから、みずちちゃん。わたしは、誰かのために死ねません。わたしはね、自分と大好きな人のために、生きたいんです」

「……っ! で、も、あなたは、晴明さんのために死のうとしたではありませんか」

「ふえ? あ、えっと。あれは、確かにそうですけど、でも……、でも、ね? 確かに、わたしの命を削って晴明さまが助かるなら、いくらでもこの命差し上げます。でもそれは、わたしが晴明さまともっともっと生きていたいからなんです。……晴明さまのいない世界なんて、わたしは絶対、耐えられないから。わたしが、もっとずっと、一緒にいたいから。だから、ですよ」

 もっとずっと、一緒にいたいから――?
 一緒に生きていきたいから――?
 困惑する蛟の額に、今度はつきのとの唇が押し当てられた。勢いよくぶつかってきたそれは痛みを伴ったが、満面の笑みを浮かべるつきのとを前にすると、その痛みさえどこかへ消えていくような気がした。

「みずちちゃん。わたし、みずちちゃんのために死ぬことはできませんけど、みずちちゃんのために生きることならできますよ!」

 手を繋いで、体温を分け合って、そうすればほら、寂しくなんてないでしょう?
 花が開くように、つきのとは笑う。もうとっくに蛟が失くしてしまった表情をいとも容易く作り、心の底から笑っている。それがひどく羨ましかった。
 蛟の胸の奥底に沈んでいた澱のようなものが、徐々に消えていくのを感じた。深く暗い闇に、鵝毛のように優しく光が降り注ぐ。それはあの日の雪に似ていた。
 けれどもっとあたたかく、優しいものだ。彼女は月の兎で、蛟は龍を目指すあやかしだ。最初から住む世界が違っていたのだ。

「みずちちゃん、ひとりじゃないですよ。いいんですよ、さみしいって言っても。……泣いたって、いいんですよ」

「……そん、な、こと……」

「いいんです!」

 言うなり強く抱き締められ、蛟はひっと息を呑んだ。すっかり馴染んだ香の香りと、じんわりとしたぬくもりが衣越しに伝わってくる。そのぬくもりは、蛟が必死の思いで縋りついていた記憶を容易に思い出させた。
 喉の奥が痙攣した。鼻がつんとして、目の奥が熱を帯びる。押し殺そうとすればするほど嗚咽が漏れ、顔がくしゃりと歪んでいく。堪えきれなくなった涙が、ぼろぼろと後から後から零れていく。ぎゅうぎゅうと蛟を抱き締め、背中をさするつきのとの声が、なぜだか震えていた。

「いいんですよ。……いいんです。わたしたちは、生きてたっていいんです」

「――ふっ、う、あ……っ!」

 どうして、そうまでして生きたいのですか。
 理由を問うてきたそのひとは、生かしてくれたひとだった。生きたいと望んだ。理由もなく。けれどそのひとに問われて、理由がなければ生きてはいけないのかと考えるようになった。
 必死に考えて、理由を探した。毎日毎日、死と隣り合わせの生活をしながら、生きていく理由を求めた。だのにそのひとは、どうでもいいと言うのだ。生きようが死のうがどうでもいいと。助けておいて、生かしておいて、興味がないと。

 ――あのひとは、私の世界なのに。

 どんなに劣悪な環境でも、どんなに苦しい生でも、彼のもとを離れて生きていこうとは思えなかった。あの夜の、あのぬくもりが、蛟の四肢を雁字搦めにしていた。
 どれだけ汚れていても、紫閃は夜になれば狐の身体で蛟を包み込んで眠った。鼓動とぬくもりを与えてくれたのだ。「お前は蛟ですからね。あの方もいつかきっと、喜ぶでしょう」機嫌のいいとき、寝物語にそう言って、九尾の狐は蛟の頬をべろりと舐めた。
 それだけで、十分だった。
 それ以外の理由などなかった。あのぬくもりが愛おしいから、あのぬくもりをずっと味わっていたいから、どんな目にあってもついていこうと思ったのだ。
 泣きじゃくる蛟を、つきのとはけして離さない。苦しいくらいに強く抱いて、彼女は自らの鼓動を聞かせるようにして胸に掻き抱く。「紫閃さんのばか」そんな声が聞こえたような気がした。

「あっ……!」

 突然つきのとが叫んだかと思うと、彼女はさらに力を込めて蛟を動きを封じようとしてきた。今までのものとは違う力の込め方に、どこか違和感を感じる。
 同時に感じたその気配に、骨さえ突き破りそうなほど大きく、心臓が跳ねた。

「――おや、ここにいたんですか、蛟」

「なにしにきたんですか! ここは希代の大陰陽師、安倍晴明のお屋敷です! あなたみたいな悪い妖怪は入ってこられないんですよ!」

「おや? しかし、私は今、ここに入って来ていますがねえ……」

「……あれ? で、でもっ、ここはせーめーさまが、危ない考えを持ってるあやかしは立ち入れないようにしてるって……! だって前は、紫閃さん入ってこれなかったじゃないですか!」

「では、私の力が安倍晴明を凌駕した――ということでしょうかねえ」

 くすくすと笑うその声は、紛れもなく九尾の狐のものだった。身体が動かない。それは蛟のせいではなかった。つきのとがぎゅうぎゅうと強く抱き、けして顔を上げさせないようにしていたのだ。

「せーめーさまがあなたなんかに負けるはずありませんー! とにかく、帰ってください! 意地悪ばっかりするきつねさんに、みずちちゃんは会わせられませんっ!!」

「……意地悪? 私が? 蛟に?」

 とぼけているのではなく、本当に心当たりがないような口ぶりで紫閃は言い、しばらく押し黙った。沈黙が流れる。蛟が耐えきれなくなったそのとき、身体が強い衝撃を受けて息が詰まった。

「――っ!」

「お前に意地悪なぞ、しましたか?」

「ちょっと! みずちちゃんを離してくださいー!」

「黙っていなさい。蛟、答えを」

 首根っこを掴み上げられ、ぶらぶらと足が宙に浮いている。首は締まるし息苦しいが、それよりも間近に迫った紫閃の双眸の方が苦しかった。

「しせ、ん、さま……」

「おや? またお前は、そのように汚らしい顔をして。とにかく、帰りますよ」

「「……え?」」

 つきのとと蛟の声が、綺麗に重なった。

「どうしたのです。お前からは月乃女様のとてもかぐわしい香りがぷんぷんと漂ってきます! これすなわち、月乃女様がお前の傍にいたという証! やはりあのお方は龍が好きなのですね。よくやりました、蛟。これからもどんどんあのお方に気に入られなさい。そして私とあのお方との愛を取り持つのです! さあ、そうと決まれば話は早い! お前が勝手にどこかへ消えていた間に月乃女様とあったこと、すべて話してもらわねばなりませんからね! さあ、さあ! 行きますよ!」

「えっ、ちょっと! 紫閃さん!? みずちちゃんは――っ」

「……無駄です、つきのとさん。……このひとは、こうなったら人の話なんて聞きません」

「で、でもっ!」

 ぶらぶらと左右に揺さぶられて息が詰まるが、嬉しそうに九尾を振る紫閃はそれに気がついていない。どうして蛟がここにいるのか、その理由すらすっかり忘れてしまっているようだった。
 なんて自分勝手なのか。狐とは、まこと気まぐれないきものだ。

「紫閃さま、苦しいです。離して下さい」

「月乃女様はお前をどう扱ったのでしょうね。踏まれましたか? 蹴られましたか? ああっ、なんと羨ましい!」

「紫閃さま、首、締まります。離して下さい」

「血のひとつでも吸われましたか。正直に言いなさい、私も同じ所から吸ってやりますから」

「紫閃さま、普通に気持ち悪いです」

 淡々と続ける蛟を見上げて、つきのとが不安そうな顔をした。心優しい月の兎に、蛟はぎこちなく唇の端を持ち上げる。



「……私は、このひとと生きていきます」



 どんなに苦しい人生でも。
 あのぬくもりが、すべてだから。


 ――ただ、生きたいんです。

(……さみしくなりますね)
(紫閃さま、私が死んだら、…………少しは、残念がって下さいね)



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