おきつねさまの雪と月 [ 14/22 ]
おきつねさまの雪と月
hi 月は、自分にとってなによりも誇らしいものだった。
「ユキシロはどうした?」
木々の上から、母は問うた。美しい銀毛四尾を揺らし、満月が放つそれによく似た色の瞳を細め、手近にあった葉を意味もなく千切って空に放る。風もないのにゆらゆらと煽られる純白の衣も、そこからちろりと覗く肌の透明感も、すべてが美しい。
ふと、自分の手に目を落とした。母と同じく、抜けるような白い肌だ。水鏡に映った顔立ちも、母のものと似ている。尾は、生まれたときから九尾だ。純白の、ふわふわとした九尾だった。
身体の中に流れる力がどの程度のものなのか、少なからず把握していた。神気と妖気が入り混じり、日に日に強さを増していく己の変化が誇らしくもあり、恐ろしくもあった。
ぼんやりとしていたせいで、母の問いに応えることを忘れていた。母は訝り、再び問う。
「ツキシロ、ユキシロはどうした」
「あっ……、ユキシロは、いま、土御門におると……」
ほう。母はどこか面白そうに喉を鳴らした。
土御門。母が目をかける人間が、二人もいる場所だ。片方は天狐の血を引いているが、もう片方はかすかに天照の血のにおいがする。実に珍妙な人間達だ。
「ツキシロ、あの阿呆を呼んで来い。話がある」
「……あいわかった」
一瞬でいい。意識を集中するのは、ほんの一瞬だ。ぼっと生じた青白い狐火が、くるぶしの辺りで揺らめく。そのまま軽く地を蹴れば、まるで翼が生えたように空を駆けることができた。
あとは目的の場所にひたすら駆けるだけだ。夜空に浮かんだ月が身体を照らす。白く浮かび上がる己の姿をどこか客観視しながら、ただ、静かに空を走った。
* * *「ユキシロ、どうした」
「ツキシロには関係ない」
「……そうか」
迎えに来た先で、片割れはそう言って顔を背けた。自分と比べれば、少しくすんだ白い一尾をひょんと揺らし、どこか苦しそうに唇を噛んでいる。その目が自分の九尾をねめつけているのを感じ、胸の奥がぎり、と痛んだ。
生まれたときから九尾の自分と、一尾の片割れ。
片割れは、「月落とし」だ。
「母上が呼んでおった。われと共に来いとのことだ」
月を継ぐ自分と、月を落とした片割れ。
けれど、母が呼ぶのは、いつだって片割れの方。
どうして自分だけが力を持って生まれたのだろう。どうして、力を持っているはずの自分よりも、月落としの片割れの方が目をかけられるのだろう。
片割れは弱い。自分に流れている力の半分だって、ないに違いない。
それなのに、母は片割れを愛している。力がない。たったそれだけの理由で、母が最も愛するものの名を与えられている。
なにゆえだろうか。
もし、力を持っていないのが自分の方であったのなら、母の愛をもらっていたのは、自分だったのだろうか。
「……ユキシロ?」
片割れの様子がおかしい。虚ろな目で自分を見ている。
ゆるり、と近付き、その手が伸びてきた。ぎゅう、としがみつかれ、なにをされるか気がついたときには、首筋に唇が押し当てられていた。
牙はまだ肉を突き破ってはいない。容易に振り払うことはできた。
なれど、そんな真似はできなかった。
「っ……」
身の内から神気が溢れだす。
僅かな痛みを伴って、自分の一部が片割れに取り込まれたのが分かった。
――これでいい。そう、これで。
こうすれば、天狐の力は片割れに流れ込む。
「――なぜ、なぜだ! なぜ抵抗せぬ! ユキはおまえを、ほふろうとしておるのだぞ! おまえさえいなければ、母上はユキに月をくれたのだ! おまえがっ、おまえがユキからすべてを奪ったのだ!」
急に身を離した片割れが、今にも泣きそうな声で叫んだ。
おまえがすべてを奪った。その言葉に、唇の端が持ち上がりそうになる。そうだ、その通りだ。
自分が片割れからすべてを奪った。天狐として必要な力は、すべて。片割れは覚えていない。母の胎内で、誕生したばかりの魂が互いを食らい合っていたことを。そして片割れの言うように、自分はすべての力を得た。
奪ったのだ。すべてを、片割れから。
生まれて間もなく、自分は確かな意識を持っていた。天狐の本能のままに、弱き片割れを屠ろうとした。弱きは罪だ。片方は、月落とし。血を裏切る忌み子。
月落としなど、不要なだけだ。
けれどそれを止めたのは、他でもない母だった。天狐族の長である彼女が、ならぬと言った。殺してはならぬ。手を出すな。そして母は、まだ目も開かぬ、ただの獣の子を抱き上げた。
――ユキシロ。それがお前の名だ。
しんしんと雪の降り積もる満月の晩に、自分達は生まれた。母は片割れに口づけて月を見、それからようやっと自分を見た。
――お前の名は、ツキシロだ。覚えておれ。
母は片割れを抱いたまま、歩き始めた。どこへ行くのかは分からない。ツキシロ。与えられた名によって、身の内にさらなる力が宿るのを感じた。
あつい。
だのに、どうしてか、身体はいつまでたっても、冷たいままだった。
「……われは、ユキシロが大切だ」
母が、殺してはならぬと言ったから。
母が、お前を大切そうに扱うから。
母が、お前を一番に名づけたから。
――母は、「雪」が好きだから。
どくどくと、天狐の血が流れ出る。
治癒もせずに牙を抜かれたせいだ。べっとりと手のひらについた血を舐め取りながら、苦しさに喘ぐ。この味は、母のそれとよく似ている。月を継いだ天狐の血だ。
けれど、どうしてか、それがひどく苦い。
もしも最初から片割れがいなければ、母は自分を一番に抱き上げて、一番に名づけてくれたはずだった。そのぬくもりを、真っ先に与えられたはずだった。
力を持っていないというだけで、どうして、母の最も愛する名を与えられたのだろう。どうして、自分ではなかったのだろう。
片割れは、きっと思っている。力を持つ自分が、いなければ――と。
「ユキシロ、お前、われが嫌いか?」
だから問うた。
ああ、ほら見ろ、片割れの目が泳いだ。
「…………き、きらいでは……」
ずぶり。
なにかが胸に突き刺さる。そして、ゆっくりと全身になにかが広がっていく。
羨ましい。妬ましい。
無条件に愛される片割れが、ひどく疎ましい。もとよりいなければよかったのにと、そう考えることもしょっちゅうだ。
それでも、片割れはあくまでも片割れで、自分ではない。
血肉を分けた。そうだ、分かれていた。分かれているものを、一つに戻すことは難しい。それが魂であれば、なおのこと。
けして一つには戻れない。戻ろうとも思わない。自分は奪った。片割れから、「ひとつ」としてあるべき必要なものを、すべて。
自分はツキシロで、片割れはユキシロだ。
片割れは月を継ぐ自分を妬んでいる。ゆえに、月を継ぐ名を聞くと、ひどく傷ついた顔をする。だから、片割れの前ではけして言わない。「われ」は「われ」なのだ。傷ついた片割れに手を差し伸べるのは、いつだって母の役目だった。
……もし。もしも。
片割れが自分のことを、「嫌い」だと言ったなら。そのときは、ためらうことなく、殺していただろう。生まれてくる前から、そうしようとしていたように。
「……われは、ユキシロに嫌われていないのであれば、それだけで十分だ」
ああ、くるしい。
いなくなればいいと思うのに、そう強く願うのに、どうしてか、とても。
母が殺すなと言った。母が愛していた。だから、共にあるのだと、ずっとそう思っていたのに。
こころとは、とても厄介だ。こころが本能を抑制する。妬ましいと思うのもこころなのに、いなくなればいいと思うのもこころなのに、そうしてしまおうとする本能に鎖をかけて離さない。
どうしようもなく、くるしいのだ。
思わず笑みが零れた。言葉が足りない片割れは、ぎゅうと抱き着いてくる。待ち望んできたぬくもりが、全身を包んだ。首筋に吐息が触れる。ぬるりと舌が這わされ、自分よりも遥かに劣った力が傷口を塞いでいく。
ぐずりと、片割れが鼻を啜った。熱いものが肌の上に落ちてくる。焼けてしまいそうなほどに、あつい。
あの日、初めて触れた雪のようにひやりとした手で、片割れの頭を撫でる。柔らかな耳に、白い髪に、赤い血がこびりつく。真っ白なそれを穢してしまった罪悪感に、どうしようもなく泣きたくなった。
「……泣くな、ユキシロ」
自分よりもほんの少しだけ背の高い片割れに抱き締められて、溺れそうになる呼吸で告げる。
綺麗な肌と髪を汚したまま、片割れはぼたぼたと涙を零した。
泣くな。
泣けば、また母が気を向ける。また、疎んでしまう。いなくなればいいと、思ってしまう。
――こんなにも、いとしいのに。
「ユキシロが泣くと、われも苦しい。ゆえに、泣くな」
片割れはあくまでも片割れで、一つではない。
それなのにこころが通じているだなんて、おかしいではないか。
どうして片割れが苦しいと、自分まで一緒に苦しくなるのか。どうして、殺したいのに、そうすることが嫌だと思ってしまうのか。
もうなにも分からない。ただ、くるしい。
ただ一つ、言えるのは。
片割れが笑っていると、自分はひどく、あたたかくなるのだ。
知ってるか、
雪降る晩の月は、とてもきれいだ
(“月”は母上にとってなによりも大切なもの)
(“雪”は母上が一番に愛したもの)
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