望月に、曼珠沙華を手向ける [ 12/22 ]
望月に、曼珠沙華を手向ける
hi 蔀戸の隙間から、光が漏れ差している。どうやら今宵は満月らしい。大きな望月が空に浮かび、その光を地上に落としている。
褥に横たわる老人が、蔀戸を上げるように言った。掠れた声を聞きつけて、人ならざるものがそれを跳ね上げる。開いた蔀戸から、夜の庭が切り出された。見なれた景色だ。
冷えた風が室内に入り込んでくるのを憂いてか、老人の傍らには十二神将が一人、火将朱雀が寄り添った。いつの間にか、そこには人ならざるもので溢れていた。人であるのは老人だけだ。
無駄に広い部屋の片隅で柱に背を預け、片胡坐を掻いていた月乃女は、ぼんやりとその光景を眺めていた。ゆらゆらと、抑えきれていない神気が、陽炎のように揺らめいている。普段は異界にて呼ばれるのを待っている神将らと、老人が普段使役している式神、それから害のない雑鬼の類までもが集まっている。
――そら見ろ。やはりお前は、人の子というにはおこがましいではないか。
この世で八十まで生きた人間は、あやかしの間でも噂になっていた。それがあの安倍晴明と聞くと、誰もが「ああ……」と頷いた。あれは人であって人ではない。あれの血には、天狐の血が流れている。人とあやかしの狭間を歩く、稀有ないきもの。どちらを選ぶかは、晴明次第。
人の世では陰陽師として重宝されていた晴明だが、あやかしの世においても評判は上々だった。平穏に暮らしたいだけのあやかしからすれば、陰陽師に調伏されるいわれなどないのだから、自分達を視ることができる晴明はちょうどいい話相手だった。
あっちの辻に厄介なあやかしがいるから、なんとかしてくれ。あの屋敷の裏に崇り神がいるから、住みにくくて仕方がない。なあ晴明、おまえ、そろそろこっちに来ないのか。
晴明は人にとってもあやかしにとっても、あまりにも鋭い諸刃の剣だった。人の世は厄介だ。口外できぬような、汚い仕事を任されたことだってある。彼はそれをひた隠していた。月乃女にではなく、あのたった一人の野兎にだ。
稀代の陰陽師と呼ばれた安倍晴明も、老いた。人として、陰陽師として最高潮だった霊力は次第に弱まっていった。それでも、彼には未だにあやかしに対抗できるだけの力がある。失っていく霊力を補うように、天狐の血が目覚め始める。じわりじわりと彼を内側から飲み込み、人とあやかしの狭間から、あやかしの側に誘おうとする。
あやかし達もそれを望んだ。もともと人として暮らしていることが不思議な男だ。自分達の仲間になって、一緒に夜行に加わろう。小さな雑鬼がそんなことを言っていた。
「つき、のめ……」
人とあやかしの狭間で生きる、稀有な男。
しわがれた声が、天狐族の長を呼ぶ。
月乃女はその場にいたすべての存在からの視線を一身に浴び、白銀の身体を暗がりに踊らせた。ふわり。四尾が柔らかく揺れる。
枕元に片膝をつく。見下ろした老人は、しわとしみだらけの顔で、必死に月乃女を探しているようだった。枯れ枝のような手が空をさまよっていたので、月乃女は無意識にそれを取った。瑞々しさの欠片もないそれに、白魚のような手が握り締められる。
「……老けたな、晴明」
あっという間に。
後ろで誰かが息を呑んだ。――いや、嗚咽を零したと言った方が正しいだろう。とかく、女の声だった。神将か、それとも他の式神か。
晴明は薄く笑った。しわを深くして、口元だけで。
「お前は変わらないなあ、月乃女」
弱々しい声に、月乃女はただ一言、「ばかもの」と答えた。
+ + +「お前は変わらないなあ、月乃女」
出会った頃から、なに一つ。
朝露を纏った蜘蛛の糸よりも美しく、絹よりも柔らかな白銀の髪。鼈甲よりも透き通った金の双眸。白く艶やかな肌にはしみやしわなどなく、いつまでも凛として若々しいままだ。
それは当然だった。彼女は人ではないのだから。
天狐族の長である月乃女は、それはそれは強い力と立派な血筋のあやかしだ。神の末端に連なり、苛烈な神気と妖気を併せ持つ傲岸不遜な天狐だった。彼女と出会って、いろいろなことがあった。出会ったせいで死にかけたことも、一度や二度ではない。ああ、そういえば、貴船の龍神に祟られかけたこともあったなあ。蘆屋道満とぶつかりあったことも、何度もある。途中で妙な九尾の狐まで絡んできて、大変という言葉では語りつくせないくらい大変だった。
仕事中に何度も何度も押し掛けてきて、仮病を使って陰陽寮を抜け出すこともしょっちゅうだった。それにより嫌味を言われ続けた下っ端時代、彼女は「それがどうした」とふんぞり返っていた。
視界はもうぼんやりとしている。自分を見下ろしている月乃女の、人ならざる美しさがよく見えない。妙に眠気が襲ってきた。瞼が自然と下がってくる。
けれど、まだ駄目だ。言いたいことがたくさんある。式に下した十二神将達には、それぞれに名を与えた。六壬式盤に記されている以外に、晴明がひとりひとりを思って名をつけた。それをどう思うかはそれぞれに任せている。ただ、覚えていてほしいとは思った。
彼ら本来の名は、式盤に記されたそれだ。けれど、自分がいなくなっても、意識のどこか片隅でその名が生きていたら――それはとても、しあわせなことだろうと思ったのだ。
名はとても大切なものだから。名づけることは、世界を与えることと似ている。かつてあの子は、そう言った。名前をもらったあの日から、世界が生まれたのだと。
自分は随分と長く生きたと思う。八十を超え、周りからはやはりあやかしの類だと囁かれていたが、それももう聞くことはないのだろう。
なあ、月乃女。声になっていたかは分からない。
この天狐には、たくさんのものを奪われた。矜持も、時間も、ありとあらゆるものを。
けれどこの天狐は、なによりも大切なものを、与えてくれた。
「……そろそろ、眠い、なあ」
なにも返せていない自分が、ひどくもどかしい。大陰陽師と謳われて、できぬことはないとまで騒がれたこの身だが、天狐月乃女に対してはなにもできやしない。名を与えるなど言語道断だ。そのような不躾を働けば、きっと首が飛ばされる。
眠い。まだ駄目だ。まだ、彼女に返すものが見つかっていない。
影の動きで、月乃女が自らの指先に牙を立てるのが見えた。漂ってくる血の香には、濃い神気が含まれている。通常の人の鼻では嗅ぎとれない匂いまでもを敏感に察知した己に、晴明は苦笑した。
深紅の雫が、傷ついた指先ごと唇に近付いてくる。なんともうまそうだ。どくりと鼓動が大きくなった。
ほとんど言うことを聞かなくなった手で、それを唇ではなく頬に導く。月乃女が柳眉を寄せ、周囲の神将達が目を伏せたのを感じた。すまんなあ。しかし、自分を呼んでいるこの眠気が、ひどく心地よいのだ。
ぐっと月乃女の顔が近付いてきて、その美しい顔立ちがはっきりと見えた。相変わらず整っている。もしも彼女が人ならば、傾国の美姫と騒がれただろうに。
ああ、眠い。まぶたが、おちる。
「ならば晴明、はよう眠れ。……お前は、よう生きた」
あちらで、野兎が待っておるぞ。
誰の声かと疑いたくなるほど、静かで、穏やかな声だった。眠れ。しわだらけの瞼に、あたたかな唇が落ちてくる。闇が満ちた。心地よいまどろみが、すっと全身を撫でていく。
とても、しあわせな気分だ。
「ああ、そうだなあ……」
やっと逢える。もう一度。
随分と待たせてしまった、大切なあの子に。
もう長い間見ていなかったあの笑顔が、また、見れる。
「なあ、つきのめ……」
「なんだ」
「……ありがとう、なあ」
気まぐれなお前が、こうして最期に付き合ってくれて、ありがとう。
助けようとしてくれて、ありがとう。
その手を取らなかったことに、後悔はない。ひとりにしてしまうけれど、どうか許しておくれ。
今まで一緒にいてくれて、ありがとう。
あの子が逝ってしまってからも、川岸まで行って、様子を聞かせてくれた。本当に、ありがとう。
そしてなにより、
――あの子と出逢わせてくれて、ありがとう。
「………………あほう」
おやすみ。
――ではな、いってくるよ。
+ + + どこか遠くで、夜鳥が鳴いている。木のてっぺんから仰いだ望月は降ってきそうなほど大きく、明るかった。
眼下に見下ろした屋敷からは、物悲しい空気が漂ってくる。晴明の残した息子や孫達が集まって、その骸と別れを告げている頃だろう。十二神将達も、その場にいるようだった。
月乃女はただ一人、その様子を屋敷の外から眺めていた。あの場には、いるべきではなかった。あそこにいるべきなのは、彼と深い繋がりを持った者達だけだ。縁者然り、彼にすべてを注いだ式然り。
気まぐれに付き合っていただけの天狐が、我が物顔でいるべきではない。
「きつねよきつね、いかがした」
背後に開いた次元から、見覚えのある犬が飛び出してきた。いかがした、きつね。無造作に頭を撫でると、犬は不快そうに身を捩る。
「犬よ、人の子は脆弱よ。短命で、呆気なく死ぬ」
「きつねよきつね、それはしごくとうぜんのこと。ひとのこは、われらとはことなる」
ああ、そうさな。
泣きじゃくる声が、耳に届く。
一人の老人の骸の前で、多くの人間とあやかしが、皆その死を悼んでいる。
「……きつね、あれはおまえのともか」
犬が前足で示したのは、骸ではなく満月だった。どういうことかと問いかけて、はたと気がつく。この犬は神の御遣い。月乃女には見ることのできぬ、昇りゆく魂を見ることができるのだ。
昇った魂は川を渡り、冥府へ行く。そこにはきっと、駄々を捏ねて舟から意地でも降りようとしない野兎が待っているはずだ。「嫌です、わたくしはここで、あの方をずっと、ずーっと待っているんです!」ゆえに、野兎は未だに川を行ったり来たりしている。けしてこちら側には戻ってこれないが、それでも、あの男を待ち続けていたのだ。
伝えて下さいと笑った。「おきつねさま、晴明さまに、『早く来ないで下さいね』って、ちゃーんと言って下さいね!」勝手に待っていますから。しあわせになって、それで、たくさんたくさん、お土産話を持ってきて下さいね。
馬鹿な野兎だ。月乃女は川岸までは行くことができるが、川を渡って冥府まで行くことは叶わない。時世(ときよ)ばかりか異世にも渡れる月乃女だが、冥府へ渡ることだけは許されていなかった。
「犬よ、お前には見えるか」
「ああ、まっすぐに、のぼっておる。せんじつ、われにさけをよこしたやつだな」
事もなげに犬が言った。
「……犬よ、お前はあれを、先日と言うか」
「うん? ちがったか?」
「…………否。その通りだ」
人の感覚で、五十幾年も前の話だ。
しかしそれは、あやかし――神の末席に連なる者達の感覚では、ほんの一瞬に等しい。
月乃女にとってもそうだった。駆けるよりもさらに早い時の流れに過ぎない。そのはずなのにどうしてか、犬の言葉は奇妙に感じた。
犬と月乃女、そして晴明で酒を酌み交わしたのは、彼がまだ若く、しわもしみもなに一つない頃だった。野兎が足元で跳ね回り、それを転がして酒の肴にしていた。瞬き一つ分にも等しい、時間の流れ。
「先日、か……」
八十年と、幾年か。人の感覚では、随分と長い時間が経っていたらしい。
晴明と出会ったのは、ついこの間のことのように思える。
そうさな、先日だったな。月乃女は薄く笑みを零した。
確かに傷をつけたはずの指先を見やり、白く綺麗なままのそこに爪を滑らせる。ぷくりと浮かんだ血の珠に舌を這わせると、たちまち傷は跡形もなく塞がった。
「きつね、おまえのともは、ひとのこであったか」
「……ああ」
最期まで、人だった。
天狐月乃女の血を飲めば、体内に眠る天狐の血が目覚め、彼はこちら側の存在になることができた。人の命の短さなどに囚われぬ、新たな生き方ができたはずだった。
それでも、安倍晴明という男は、最期の瞬間まで人として生き、人として死んだ。
愚かな人の子。そう言われるたびに、彼は少しだけ嬉しそうにしていたことを知っている。どちらにも属せない彼が、人でありたかったことを知っている。狐の子と呼ばれるたびに、歯を食いしばっていたことも。
人の子は、短命だ。
あっという間に死んでいく。
愚かで、とても弱いくせに、短いその生の中で神の及ばぬことを思い、行動している。
なあ、晴明。お前はなにを思い、なにを考えた?
「おお、のぼりきったぞ」
そして川岸で、あの二人は再び出逢うのだ。
もう二度と、月乃女とは会えないけれど。
「……犬よ」
「うん?」
「我は、人の子は好かぬ」
抱き上げた犬が情けなく鳴いた。構わずに力を込めて抱き締める。
丸い、大きな月が、月乃女を照らした。
神である空狐を目前にした月乃女の左肩には、燃えるように赤い曼珠沙華の紋様が月光の下で浮かび上がっている。
「……我もしばし、眠ろうか」
望月に、
曼珠沙華を手向ける(お久しぶりです、晴明さま)
(……お待たせ、つきのと)
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