おきつねさまのおともだち [ 11/22 ]

おきつねさまのおともだち


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「しるしを寄こせ。そうすりゃ俺は、おまえのもんになってやる」

 太陽はすでに沈みかけ、空の端がうっすらと藍色に彩られ始めた頃、真っ赤な髪色をした男にそんなことを言われた。
 燃え立つ赤毛に、瞳は漆黒。薄い唇から覗いた歯は獣のように鋭く尖っていて、本能的にその者が人ではないと悟る。逞しい二の腕を顔の真横に突き伸ばし、つきのとを大木と体の間に閉じ込めたその男は、なにが面白いのかにいと口角を持ち上げた。

「ほら、さっさと寄こせ。それともこのまま、喰われたいか」

 長い爪で顎を掬い上げられ、己よりも幾分背の高い男と無理やり目を合わせるはめになったつきのとは、ええと、と口ごもりながら、小さな頭を全速力で走らせた。
 十五になった少女は、とびきり美しくも可愛らしくもなかったが、くるくるとよく変わる表情は、もともと備わった愛らしさ以上のものを周囲に与える。大きな目がぱしぱしと瞬いたと思ったら、彼女はほんの少しだけ首を傾いで、困惑していることを態度に表した。
 長く伸びた黒髪が音もなく衣の上を滑っていく。それを無言で眺めていた男が、ふいに顎から手をどけて髪の先を持ち上げた。
 なにをするのかと思っておとなしくしていると、彼の唇に髪が運ばれ、ゆるく食まれる。
 髪なんて食べたって、おいしくもないだろうに。きょとんとするつきのとをしばらくして不満げに見下ろしてきた男は、鼻を鳴らしながら大仰にため息をついた。

「おまえさ、喋れんだろ? だったらなんとか言えよ」

「あの、えっと……じゃあ、髪、離して……もらえますか?」

「やだ」

「ええ?」

 そんな、なにか言えと言ったのは男の方なのに。
 眉を八の字にして顔をくしゃりと歪めたつきのとは、名前も知らない目の前の男――それもおそらく妖だ――を見上げてどうしたものかと考えた。
 薄墨色の袍には金糸で朱雀が刺繍され、暗い赤色の袴にはよく分からない生き物が銀糸で刺繍されている。捲り上げた袖から覗く腕には、幾本もの傷跡が走っている。
 無意識のうちにつきのとはその傷のひとつに指を這わせ、屋敷で帰りを待っている――はずの――晴明にもこんな傷があるのかと思い巡らせて、一人で赤面した。
 そんな彼女を見て、不思議そうに男が目を細める。

「おとなしそうな顔して、案外積極的なのか? でも俺はあと五年経たなきゃ相手してやんねぇぞ」

「はい? えっとー……あのー、え? と、とりあえず、あなたは一体誰なんですか?」

「答えてほしけりゃしるしを寄こせ」

「あの、ですから、しるしって一体……」

 まったく話が進まない。うう、と泣きそうに顔を歪めたつきのとを面白そうに見やり、男は意地悪い笑みを浮かべたままいっそう顔を近づけてきた。鼻先がちょこんと触れ合って、思ったよりも端正な顔立ちが視界いっぱいに広がる。どきりと跳ね上がった心臓の辺りに手を置かれたことに、つきのとは気づいていなかった。
 闇よりも暗いまなこに射抜かれる。思わず唇から零れてきたのは、愛しい者の名前だった。

「せーめー、か。生命にも繋がる音を持つ、狐の子だな。俺はあいつが嫌いだ」

 こともなげに嫌いだと言ってのけた男の言葉に、つきのとはむっとした様子を隠そうともせずに唇を尖らせる。それによって、なにも知らないものから見れば接吻をせがんでいるような体勢になったことなど、彼女が知るはずもない。
 泣き虫なせいかよく真っ赤に染まる大きな瞳は、恐怖など微塵も抱かずに男を睨んだ。

「なにも知らないくせに、嫌いだなんて言わないで下さいな! 晴明さまは、すっごく優しくて意地悪で、あったかくって、それからとっても強くて弱いひとなんですよ!」

「や、意味わかんねぇし。いいからさっさとしるし、寄こせよ」

「だから、その『しるし』がなにかと聞いているんです! ――ぷひっ!」

 悲鳴にしてはあまりにも情けない、間の抜けた声がぽろりと出てきた。つきのとの少し低めの鼻を、目の前の男が甘噛みしたのだ。
 驚いて目を白黒させる彼女を尻目に、男は顔を耳元に移動させて耳朶に噛み付くように言う。

「血だ。おまえの、この中を流れる血。それが契約のしるしになる」

「ちっ、血!? って、あなたおきつねさまの親戚ですか!?」

 わたわたと慌てていると、「色気も緊張感もねえな」と呆れたように呟かれた。耳元で空気が震えてくすぐったいのだが、男が離れてくれる様子はない。そこでつきのとは、力なく胸元に添えられた手にようやく気がつき、短い悲鳴を上げてその手のひらを叩き落した。

「俺は狐なんかじゃねえ。俺は――」

「久しいな、東雲。いや、紅鶸(べにひわ)と呼ぶ方がいいか?」

「っ……!」

「あれ、おきつねさま?」

 気がつけば真っ暗になっていた中で、天狐月乃女がまとう白銀の衣はよく目立つ。それよりもさらに艶やかに光を弾く銀髪は、僅かな明かりを受けて輝いていた。
 いつも唐突に現れるこの天狐は、つきのとが晴明と出会うきっかけとなった大事な恩狐だ。よく蹴られるしはたかれるし抓られるが、つきのとは彼女を嫌いになどなれない。
 そういえば先日も真夜中に突然やってきて「血を寄こせ野兎」などと勝手極まりないことを言って、驚くつきのとの代わりに晴明が必死に抗議していた。
 思い出せば酷いことをされてばかりいるのだが、それもいい思い出だと信じきっている。
 月乃女の声を聞き、びくりと肩を跳ね上げた男――しののめと言うらしい――は一気に顔色を青ざめさせ、心なしか体を小刻みに震わせていた。元が大柄なので、どこか不気味だ。
 珍しく上機嫌で近づいてきた月乃女が、ぽん、とそのたおやかな手を東雲の肩に乗せる。

「貴様も変わらぬな。我の息がかかった者に契約を乞うとは……実に、愚かな。答えよ、紅鶸。貴様、この娘の血を得てなにをするつもりだった?」

 沈黙を貫き通す東雲の顔色はひどく悪い。さすがに心配になってきたつきのとが首を傾げると、彼の額につうと一筋の汗が伝うのが見えた。
 対して後ろの月乃女はこの上なく楽しそうで、吊り上がった口端が意地の悪い笑みを形作っている。

「答えぬか、紅鶸。大方舌でも抜かれたか? 答えぬならば――怯懦(きょうだ)な小鳥など、一撃のもとに葬り去ってやろう」

「おきつねさま、物騒です! もっと穏便にことをお進め下さいませ!」

 つきのとがそう言うと月乃女は不愉快を剥き出しにして眉根を寄せ、東雲の肩に手を置いたまま嘲るように鼻を鳴らした。冷ややかな獣の双眸に見下ろされ、反射的に足が竦む。しかし慣れとは怖いもので、言葉までもが封じられることはなかった。
 
「事情はよく知りえませんが、おきつねさまはいつだって自分本位にしかお考えになりません。わたくしは、それはよくないと思います」

「阿呆の野兎があまり大口を叩くなよ。貴様など喰らおうと思えばいつでも喰らえるのだからな」

「はうあー! そういうのがいけないと言っているんですよ、おきつねさま! せーめーさまに言いつけますからね!」

「やってみろ。奴の首が飛ぶだけだ」

 ふんと鼻で嘲笑され、つきのとはふぐのように頬を膨らませて怒りを露にした。幼女の頃からまったく変わらぬ所作に呆れた眼差しを送られていることにも気づかず、彼女は硬直状態にあった東雲の腕を抱きかかえるようにして引き寄せる。

「いいですか! このひとにも、もうちょっと優しくしてあげて下さい!」

 この場に晴明がいれば、十中八九「そんな月乃女は怖すぎる」と呟いたであろう。くだらないと言わんばかりにつきのとを睥睨した月乃女が、顔面蒼白の東雲を冷ややかに見下ろす。
 さらりと銀髪が揺れ、凍てついた風が一瞬肌を掠めた。

「どうやら命拾いしたようだな、紅鶸。だが忘れるな。貴様の翼など、我はいつでも狩れる」

「もうっ、おきつねさま!」

「騒がしいわ野兎。晴明に覚悟していろ、と伝えておけ」

「ぶひゃっ!」

 がすっ、と勢いよく尻を蹴られ、つきのとは前のめりに倒れ込んだ。誰の仕業、など考えるまでもなく月乃女のせいだ。痛む鼻を押さえながらつきのとが起き上がったときには、すでに月乃女の姿は消えていた。へなへなとその場に座り込んだ東雲と、かちりと目が合う。

「ええと……」

「おまえ、バケモンか? なんであいつ相手にあんなことできんだよ……」

「はい?」

 どちらかというと異形なのはそっちの方じゃ――という言葉を、つきのとはこくりと飲み込んだ。首を傾いで待っていると、落ち込んだのか深くこうべを垂れた東雲から呼気のような言葉が漏れ聞こえてくる。
 もう少しよく聞こえるようにとそのまま膝立ちで近寄ると、「ばっかじゃねえの」と吐き捨てるように言われてしまった。

「おまえ、いつか死ぬぞ」

「それはそうですよ。だって人間ですもの。それがどうかしたんですか?」

「…………ああ分かった。おまえ、正真正銘の馬鹿なんだな」

「なっ! なんて失礼なひとなんですか!」

 もう知りません、と言い残して立ち上がったつきのとは、着物についた泥汚れを払うと、屋敷へ戻るべく踵を返した。東雲がどうするのか気になって途中で歩を止め振り返ると、またしても「馬鹿」と遠慮のない暴言を投げられる。
 疲れきった彼の顔を見ると、どうやらよほど月乃女との対峙が堪えたらしい。犬猫でも追い払うかのように腕を振られ、つきのとはまたしても頬を膨らませながらずんずんと大股で岐路についた。



「……あの天狐が情を与えた人間、か。敵いそうにもねえな」

 おそらく、狐の血を引くあの人間など比べるべくもないだろう。彼女の『お気に入り』に手を出して無傷――否、生きていられるとは思ってもいない。
 東雲は深く深く息を吐き、静かになった青い空を黙って見上げた。





「あれ、吹雪さん?」
「お迎えに上がりました、つきのと様。まあ、どうなさったのです? お召し物が……」
「えっと、さっきちょっとおきつねさまに……」
「…………」
(命拾いした理由)



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