もう一匹のおきつねさま [ 10/22 ]
もう一匹のおきつねさま
hi 変わった子供だ。だが、こんなのも悪くはない、と思った。
いつの日だったか、あのお方も童女を拾っていた。その真似をしてみるのも悪くはない。孤独をなによりも愛するあのお方が人などに興味を持たれた、その理由を体験して知ってみるのも一興だ。
そういえばあの童女はどうなっただろう。今やもう娘になっているだろうか。それとも女になっているだろうか。もしかしたら、老婆になっているかもしれない。
しかしそんなことはどうでもいいことだ。今目の前に転がっている子供と、あの童女は同じ人族ではあるけれど、まったく別の存在だ。あのお方は童女を拾ったとき、どうお思いになったのだろう。煩わしい、汚らしい生き物だと自分は思う。人など、所詮は餌に過ぎない。
辺りが雪で覆われているせいか、子供の身体から流れる赤い血が素晴らしく映えた。口から吐き出される白い息と、薄汚い衣服に染み込む赤が不調和だが、雪に落ちる赤は美しい。真っ青を通り越して紙のように――雪と表現するにはおこがましい――白くなった顔を見下ろし、きつく閉ざされた瞼をじいと眺める。
激しく上下する肩が次第にその速度を緩めていく。どくどくと高鳴っていた鼓動が、だんだんと小さくなっていくのを聞いた。
放っておけば、この人の子は簡単に死ぬのだろう。
同じ人族から虐げられ、真冬の雪山に放り出されて。苦しみ抜いた先にあるのは救いではなく、死だ。まだ十にも満たない小さな子供。あまりに貧相すぎる身体からは、男女の区別もつかない。
人の生死などどうでもよいはずなのに、このときばかりは足が止まった。この子供がどうなるのか見てみたい、と自分には珍しい欲求が生まれたのだ。
子供を埋めようと、鵝毛のように雪が降り続く。もう肩は上下しない。色の変わった唇から零れる吐息も僅かなものだ。睫さえぴくりともせず、小さな命は終わりを迎えようとしていた。
――ああなんだ、やはりこの程度か。
脆弱な人の子。それはよく、あのお方が口にする言葉だ。なれどあのお方は、人を嫌ってはいなかった。神族より劣っていると認識していたけれど、人を毛嫌いしているわけではなかった。むしろ、その逆だ。
あのお方はよく人と時を重ねた。自由気ままに生きて、幾度となく人と関わってきた。いつだってあのお方の傍には、神や妖には遠く及ばぬ人間が存在した。
それがとても、目障りだった。疎ましかった。もしかしたら、妬んでいたのかもしれない。ほんの少し常人と違う力を持っているからといって、あのお方に気に入られた弱い生き物が。
この子供は、どうだろう。もしあのお方がこの場にいれば、どうするだろうか。童女を拾ったように、この子供も拾うだろうか。それとも、気にかけさえしないだろうか。
あのお方は残酷だ。誰よりも凍てつく心を持っているくせに、情は決して浅くない。気まぐれで、とても性質が悪い。
じいと子供を眺めていたら、もはや動かないと思っていた唇が震えるように動いた。見間違いだったのかもしれないが、なにか言葉を紡いだような気がして耳を澄ます。
弱々しい心音が聞こえてくるのと一緒に、掠れた、声と呼んでもいいものか迷う声が発せられた。
僅かに届いた言葉に、思わず目を丸くする。気がつけば自分は子供のすぐ傍らに屈んでいて、その額に手を当てていた。
「お前、名は」
もう子供は動かない。心音も、聞こえない。
それでも問うた。
「名を応えなさい」
今度は、命じた。
無音の中、静かに、揺れることのない水面のような声音で。
いつまで経っても子供は応えない。手のひらから伝わる熱は一切感じられず、反対に奪われていくばかりだ。
そのことが無性に腹が立った。生まれた激情に自分でも驚く。やはりこれは、あのお方と思いを重ねていたからだろう。そうでなければ、人の子などに心を動かされやしない。
拾ってみようか。捨て置こうか。それとも、喰らってしまおうか。
ぐたりとした身体ほど面白くないものはない。動かない玩具を弄んだところで、渇きは癒えない。
額に当てた手がゆっくりと瞼を抉じ開けた。瞳孔の開ききった双眸が、どこか闇の奥の方を見ている。
――助けて。
確かにこの子供はそう言った。消え入る寸前の声で、ありったけの生を望んだ。
愚かだ。天命に逆らって生きようなど、人の分際で考えることではない。そうは思うのに、やはりあのお方の真似をしてみたいと考えた。そうすることによって、あのお方に少しでも近づけると思ったからだ。
だのに、この子供は応えなかった。名を言いさえすれば、助けてやったものを。
ぼんやりとそんなことを考えていたら、屍となった身体に残っていた思念が手のひらをちりちりと焼いた。反射的に手をどかすが、興味本位で思念を覗いてみたくなる。
動かない心臓の上に手のひらを押し付ける。やわらかいのか硬いのか、どちらにせよ薄っぺらい胸の感触があった。
流れ込んでくる思念に意識を傾ける。瞼の裏に浮かんでくるのは、子供の思いだ。身体は小さくて貧弱なくせに、思念だけはやたらと強い。
はっきりと見える景色は、なんてことはないただの農村だ。あの花は梅だろうか。それとも桃だろうか。桜の蕾が色づいてきているから、梅かもしれない。
のどかな景色から一変して、闇の中に鮮血が散った。目の前で女が倒れ、それに必死に縋りついている子供の手が見える。流れ込んでくる感情は、悲しみと憎しみだ。
そしてなによりも一番戦慄したのは、生への執着心だった。呑まれそうになるほど強く「生きたい」と叫ぶ子供に、思わず慌てて手を引いた。
それでも頭は鈍く痛む。こびり付いた悲鳴が離れようとしない。
「なぜ、そこまで生きたいのですか」
生など面白くもなんともない。つまらないものだ。
尋ねたところで、返事など返ってくるはずもないことは重々承知していた。それでも、どうしてもその答えを聞いてみたくなったのだ。
だから、なのかもしれない。
おもむろに手のひらに小さな小さな狐火を吐き出し、冷え切った青い炎から灼熱の赤へと変わるまで、それを強く握り締める。次に手のひらを開けたとき、狐火はゆらゆらと深紅に燃え上がっていた。
摘むようにして狐火を持ち、子供の唇へ近づける。硬く閉ざされたそこを無理やり抉じ開けて流し込めば、黄泉へ渡りかけていた魂魄が引き戻される音を聞いた。
とくん、と弱い鼓動が鼓膜に届く。
「……お前、名は」
凍った睫がぎこちなく震えて、焦点を定めようと収縮する瞳孔が瞼の奥から姿を見せた。
魚のようにぱくぱくと口が動く。あのお方ほど気が短くはないので、根気よく声が戻るのを待った。やがてひび割れた声が、そっと耳朶を震わせた。
「――みずち」
ああこれは都合がいい。あのお方は龍が好きだ。あと千年もすれば、蛟は龍となる。そうしたらあのお方に献上すればいい。きっと気に入ってくれるはずだ。
このときの自分は、子供が人の子だということをすっかりと忘れていた。ゆえに何度も何度も苦しそうに息をする子供を見て、龍の子にするかのように顎の下を撫でてやっていた。ただし本当に龍の子だったとすれば、逆鱗に触れていただろう。
子供は心地よさそうに目を閉じる。それきり口を開くことはなかったが、触れた肌から伝わる熱は、先ほど奪われた分を取り返すのに十分だった。
次に目を覚ましたら、まず一番に問おう。
――どうして生きたいのか、と。
「しせんさま」
「おきつねさまと呼びなさい、蛟」
「なぜですか?」
「どうしてもです。でないと殺しますよ」
「りふじんです。おとなげない」
「口答えは許しません。ほら、さっさとお呼びなさい」
「いやです。しせんさまは、しせんさまなんです。おきつねさまのなかでも、しせんさまなんです」
「意味が分かりません。殴りますよ」
「ならかみます」
「命の恩狐を少しは敬ったらどうですか。可愛げのない子だ」
「きもちわるいしせんさまにいわれたくありません」 ――ああ、あの童女とはまったく違う生き物を拾ってしまった。
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