おきつねさまのへび [ 9/22 ]

おきつねさまのへび


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 じわりじわりと、蛇が胸を、心臓を、締め上げる。
 手のひらに感じた温かな肌の感触は、今でも生々しく残っていた。どくどくと一定の速さで脈打つ大きな血管を何度喰い破ろうかと思ったことか、お前は知らない。だからこうして易々と眠っていられるのだ。

 ぎり、と一層心臓が締めつけられた。息苦しさに首をもたげ、塊のような咳を一つ、無理やり喉から吐き出す。
 あのときと同じように、腕が細い首へと伸びた。触れたのは柔らかな肌だ。夏の暑さから少し汗ばんでいるが、特に気にはならなかった。僅かに力を入れる。片手で容易くへし折れるだろう細首は、それだけで気管を圧迫されて危機を感じ取っている。だが、体の持ち主は、愚かなことに微塵も目を覚まそうとはしない。
 ほんの少し身じろいだだけで、この少女は瞼を押し上げなかった。
 それがとてつもなく、憎い。
 紅よりも赤い血が流れるこの首に、ずぶりと牙を突き立て、音を立てて啜り尽くせれば、そこにどれほどの快楽が待っているのだろう。深く突き刺さった牙はやがて骨に達し、ついにはそれをも砕く。顎に伝わる独特の衝撃と音を思い出すと、歓喜に胸が沸いた。
 肉は不要だ。人間の肉は臭みがあるから好きではない。中には好んで食す者もいるが、今まで食べたいと思ったことはなかった。――肉を破る、あの感触は好きだったが。

 指の腹でさらに首を圧迫してやる。するとさすがに息苦しさを感じたのか、少女が眉根を寄せて小さく喘いだ。空気を取り込もうと大きく開けられた口が、ぱくぱくと金魚のように動く。
 あと少し。あと少し力を込めればこの少女は死ぬ。すべては一瞬だ。本気を出せば少女がなにも感じる間もなく、首の骨を砕くことができる。
 そしてあとに残るのは、冷たくなった小さな骸。そこらの雑鬼共にくれてやれば、喜んで玩具にするだろう。亡骸を依り代として邪気を振り撒くか、その肉を喰らって力を得るか――どちらにせよ、この少女の体は残らない。

「……ね、さま」

 蛇が、再び襲ってきた。

「おきつね、さま……?」

 空いた手で胸を掴む。首を絞めているのは自分の方だというのに、肺に水を満たしたような感覚に囚われた。蝉が鳴き喚いているというのに、耳に入ってくる音はなにもない。自分の鼓動さえ聞こえない。
 少女の首を覆ったまま、力を入れた右手の爪が深く畳に突き刺さった。それによって、首と手の間に僅かな隙間が生じる。
 なにも聞こえなかったはずの世界に、少女の安らかな寝息が響いた。

「――っ、たかが、人間の分際で……」

 容易く命を落とすくせに。
 脆弱な身しか持たぬくせに。
 愚かで傲慢で、富などという価値のないものにばかり魂を落とすくせに。
 ただの、人の子のくせに。

「なにゆえ、我が囚われねばならぬ……!」

 今この瞬間にでも奪える命だというのに、この手がそれを拒む。高まる血の芳香に惑わされる。
 血は続く。『あの』血は絶えることなく、いつの世もどこかで流れ続けている。
 消えたと思っていた。『あれ』が死んだときに、すべては終わったのだと。
 もう苦しむことなどないと――そう、思っていたのに。
 
「お前はなにゆえ、あれの血を引く」

 問いかけたところで答えは返ってこない。怒りに染まった顔は悪鬼そのものだ。憎悪にまみれ、美しさなど残してはいない。
 白銀の衣が風で少女の腕をくすぐると、首を絞められても目覚めなかった彼女がうっすらと目を開けた。

「……はれ、おきつねさま? どうしたんですか、そんなに怖い顔して」

「――黙れ」

「おきつねさま……?」

「黙れ」

「でも……」

 忠告を聞かない少女の首を、先ほどとは比べ物にならない力で絞める。瞠目した大きなまなこを無感動に見つめ、死なない程度に力を制御する。じんわりと眦に浮かんできた涙を見て、このまま喰らってしまおうかと考えた。
 花を手折るように首をへし折り、まだ温かいそこに牙を突き立て、香り高い血を啜る。一滴足りとも逃さぬよう、余すことなく奪い去る。
 そしてこの愚かな少女のすべてを、我が糧としてしまおうか。
 彼女にとっては大したことではなかったが、少女にしてみれば死に追い込まれるまさに寸前の力をかけた。
 は、と苦しげな息が漏れる。空気を貪ろうとするだけでなく、この少女はなにかを伝えようとしているように見えた。
 恨み言でも言うのだろうか。今まで散々後ろを跳ね回っていた野兎が、死に直面して無垢な魂を闇に落とし、その口から呪詛を吐くのだろうか。
 ――面白い。実に滑稽だ。
 口の端を吊り上げて嗤い、声が出る程度まで力を緩めてやる。すると少女は何度か大きく息を吸ったのち、弱々しく言った。

「な……んで、おきつねさま、そんなに泣きそう、なんですか?」

 蛇が、心臓を喰らう。

「なにか、つらいことあり――うきゃあ! おっ、おきつねさま!?」

 暴れる少女を押さえつけ、か細い首に牙を突き立てた。ずぶり、と肉を破る感覚が脳に響く。溢れ出てくる鮮血を口内に満たせば、独特の味に全身が悦楽に震えた。痛みに泣きじゃくる少女の声など聞こえはしない。

 ――『あれ』の味がする。

 恐れればいい。生きながらにして血を吸われ、迫り来る死を突きつけられる現実を見て、恐怖すればいい。そして、化け物と呼ばれるこの身を呪えばいい。
 そして絶望ののちに滅びれば――。


「っ、おきつねさま!」


 ぺしん、という軽い音と共にすべての聴覚が蘇ってきた。
 ゆっくりと上体を起こして何度か瞬けば、今にも死にそうなほど土気色をした顔の少女が力なく転がっている。呼吸は浅く、深紅に染まった首元が異常を告げていた。唇は紫色をしていて、黄泉の国が目の前まで迫っているのだと分かる。
 無意識のうちに己の唇を舐めた月乃女は、そこでようやく己がしたことを悟った。
 苦々しい表情のまま再び少女――つきのとの首元に顔を近づける。びくりと僅かに体が跳ねたが、抵抗する力もないのかなにも言ってこなかった。塞ぐことなく牙を抜いた傷口に舌を這わせ、神通力を注いで血を止め、傷を治す。
 彼女はそのまま汚れた口元を拭うと、目を閉じて体力を回復しようとする少女を無言で見下ろした。

「……恐ろしくはないのか」

「……へ?」

「我が」

 恐ろしくはないのか。
 かつて、聞いたことがあった。たった一人、晴明にさえ問いかけなかったこの問いを。

「こわ……いです、よ……それは。だ、って、おきつねさま、すぐにおこ……るん、ですもん。だから、こわ――」

「お前は阿呆か」

「ひ、ど……っ!」

 つきのとが苦しげに呼吸を繰り返すたび、『あれ』の香りを宿した血がふわりと鼻腔をくすぐる。着物の襟にまで染み込んだ血を見て、帰ってきた晴明がどんな反応をするかは想像に難くない。
 月乃女は赤黒く染まった己の銀髪を払い除け、彼女にしては細心の注意を払ってつきのとの目元を手で覆った。力を入れぬよう、傷つけぬよう、優しくそっと。

「救いようのない、阿呆だ。……あれの血を宿す者は、皆愚かなのか」

「はへ?」

「蛇は嫌いだ」

「……あの、おきつね、さま? 今日、ちょっと変、ですよ?」

 「それにしても、狐さんって蛇食べないんですか?」などと間の抜けたことを聞いてくるつきのとに、月乃女は神通力を注ぐのを中断してぴんっと指弾した。
 随分と回復したらしいつきのとが、子猫のような声を上げる。

「もうっ、おきつねさま! でもなんで、蛇、嫌いなんですか?」

「――我が心の臓を、喰らおうとする。蛇など、滅びればよいというに」

「………………おきつねさまの心臓って、おいしいんですか?」

「一度死んでみるか、野兎」

「え、わ、きゃあああああああ!」



傷つけることはできるのに、殺すことはできない。
――強く香る一滴の血が、『あの日』を思い出させるから。



(それはまだ、遠い遠い、昔のこと)


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