紅の咎に愛の叫びを [ 6/9 ]

の咎に藍の叫びを


hi

 たとえ世界が廃絶しようと、この思いだけは譲らない。


 それはとても、悲しい嘘でした。



 世界はきっと理不尽だ。救いなどどこにもない。神などいないに違いない。なにが伝説だ。なにが神の後継者だ。所詮は人の子ではないか。
 そう、神など所詮まやかしにしか過ぎない。
 吐き気がする。それはあまりにも胸が痛むからで、苦しみから逃れようと握り締めた拳が悲鳴を上げている。足は震え、膝が面白いくらいに笑っている状態で、少しの段差にも躓いてしまうほどだった。
 身を切るような寒さが肌を叩く。本当に切れてしまえばいいのに、と思った。
 もしもこれが刃だったら、きっと自分はすぐに死ぬ。そうすればこんな苦しみを背負うこともない。冷たい空気を一気に吸い込んでいるせいで喉が裂けるように痛み、ひゅうひゅうと頼りない呼吸を繰り返す。
 もはやどこをどう走っているのか自分でも分からなかった。喉はからからに渇いているのに瞳だけが熱を持って潤んでいく。窓に映った自分はとても情けない顔をしていた。
 だが足は止まらない。立ち止まることを体が許さない。心がどれだけ悲鳴を上げていても、感情とは裏腹に突き進んでいく。
 カツンッ、と一際足音が高く響いたそこは、すべて石で囲まれた地下牢の入り口だった。兵士が二人立っていたが、姿を見るなりこうべを垂れて道を開ける。しかし一応決まりがあるのか、片方の兵士が言う。

「お名前を」

「ルー、ド、ヴィッヒ・バウアー」

「……どうぞお通り下さい、第十一公子殿下」

 息を切らして途切れ途切れに名を告げれば、重々しい扉が開かれる。憐憫の眼差しが向けられたことよりも、『第十一公子殿下』と言われたことの方が腹立たしかった。
 神も王族も、貴族も平民も流民も隷民も、一体誰が定めたというのだ。
 時か、金か、それとも力か。
 なぜ身分がある。誰が定めた。一体、どうやって。
 どうしようもない戯言だというのは理解している。けれど心が納得しないのだ。冷え切った地下牢の中、一歩一歩燭台を持って進めば、罪人の呻き声があちこちから聞こえてくる。もしろうそくの火が消えてしまったら、前後不覚になって立ち往生してしまうのは目に見えていた。
 鉄格子の向こうから薄汚れた手が次々と伸ばされる。野次や中傷、聞き取れない怒号……様々な負の感情を叩きつけられ、内臓まで冷え切っていくのを感じた。
 華々しい王宮の地下に存在するのは、さながら生き地獄。ろくな食事も寝床も与えられず、あるのは用を足す桶と自由を奪う鉄枷――そして絶望だ。
 死にたいと叫ぶ者がいる。かと思えば、殺してやると吠える者がいる。またある者は頼むからここから出してくれ、と光を求めた。
 暗闇の最奥までくると、さらに兵士が門扉の前で槍を構えていた。近づいてくる足音に警戒していたのか、ぴりぴりとした空気が漂っていた。
 しかしそれも揺れる白金の髪を見るなり顔色を改め、一度深く頭を下げて入り口にいた兵士と同じことを問うた。

「お名前をお願い致します」

「ルードヴィッヒ・バウアー。アマーリエ様と面会したい」

「御意。……ですが」

 なに、と聞き返せば兵士はふるふると首を振った。

「いいえ、なんでもございません。失礼致しました」

 分厚い扉が開かれると、ぽつぽつと灯されたろうそくの灯りが回廊を照らしていた。奥からはその場には不釣合いな明るい鼻歌が流れてくる。
 気まずそうに顔を伏せた兵士の脇を無言ですり抜け、声のする方へ誘われるように歩いた。さっきまでの獄舎よりも随分と暖かいそこに安心するも、湿気と闇だけは変わらない。進むたびに足音が高く響き、服についている徽章が打ち合ってキィィンとあとに響く音を立てていた。
 一定の音量で紡がれる歌声は、明るい旋律を保っている。それはよく自分が聞かせてもらっていたもので、変わらぬ優しい音色に涙が溢れそうになった。
 鉄格子の前に立った瞬間、歌がふつりと途切れる。

「いらっしゃい、ルーイ公子。随分と早かったのね」

「……アマーリエ、様」

 振り返った人物は、ろうそくのぼんやりとした灯りに照らされて穏やかな笑みを見せた。昼間塔で見ていたものと寸分違わぬ笑顔に、言い表しようのない焦燥が胸に宿る。
 木製の寝台に腰をかけ、裾の長い真っ白なドレスを身に纏ったその人は歌うように言った。

「真実を知りに来たの?」

 くすくすと笑いながら紡がれた言葉に、どくりと大げさなまでに心臓が跳ね上がる。ひくりと息を呑んだ自分を嗤うように、彼女は口端を吊り上げた。
 実の母が死んで以来、彼女は本当の母親のように接してくれた。共に過ごし、大好きな兄と共に笑ってきた。時折零す謎掛けのような言葉は疑問だけを残して答えを与えてくれなかったけれど、それでも毎日が楽しいと思えた。
 父王から、あの言葉を聞くまでは。

 ――お前の母は、殺された。 

 目の前が白くなったのを覚えている。ああどうして、と呟きたいのに声は出ず、ただ俯くことしかできなかった。かろうじて誰に、と尋ねることができたのは僅かに残っていた気力のおかげだったのだろう。
 しかしその気力でさえ、冷酷な一言で粉砕された。

 ――第五妾妃、アマーリエだ。

 世界が崩壊する音が聞こえたような気がした。矢の驟雨が耳元に降りそそぐかのようだ。容赦のない打撃に足が震え、声を失い、体は凍った。
 彼女が地下牢に幽閉されているのだと聞いた次の瞬間、自分は父王の前から許可もなく飛び出していたのだ。考えてみれば命知らずな行動だったのだろう。
 けれど別に死は恐ろしくない。もはや自分はすでに死んだも同然の身だったのだ。生きながら心を殺し、一筋の希望さえ見えずに失墜していたかつての自分は、生きているというには程遠い存在だった。
 だから今更死を恐れることはない。唯一つ望むのは、あの人の幸せだけなのだから。

「ルーイ公子? 聞きたいことがあるのではないの?」

「僕が……聞きたい、のは――」

 死ぬことは怖くないのに、なぜだろう。
 真実を知ることが、とても怖い。

「――僕の、母上、は…………ご病気で亡くなった、んですよね?」

「まあ……。嫌だわ、そんな愚かな質問をするの? 自分で考えなさい……と言いたいところだけれど、それではあまりにも酷なようね」

「アマーリエ様……!」

「そうね、知りたいのなら教えてあげましょう。答えは『いいえ』。満足したかしら」

「っ――!」

 なんのためらいもなく彼女は言う。母を殺したのは彼女自身なのだと、はっきりとそう言った。それはあまりにも残酷で冷たい響きだ。
 憎悪の感情が一瞬にして頭をもたげたが、自分でも驚くほどに冷静な部分が残っていたようだ。その部分が「理由がない」と告げている。
 彼女が自分の母を屠る理由がないのだと、おかしなくらい必死に。

「……ちがい、ます」

「あら、どうして?」

「アマーリエ様は、絶対に、違うっ……!」

 彼女は笑う。楽しそうに、残虐に。

「決めるのは貴方よ。私ではないわ。でもしっかり考えなさいな、貴方のその小さな頭で」

 ゆっくりと鉄格子に近寄ってきた彼女が、その隙間から細い手を伸ばしてきた。冷たく冷え切った指先が頬に触れ、両手で包み込まれる。ぐっと優しく引き寄せられ、鉄格子越しに額を突き合わせた。
 十人並みの顔立ちは、こういうときだけに限りひどく妖艶に見える。形よい唇が一層弧を描いたとき、頬を包んでいた手が素早く首に落ち、想像もしなかった力で締め付けてきた。
 驚きと衝撃で手にしていた燭台が零れ落ち、ガシャンと耳障りな音を立てて火が消える。それでも壁に掛けられた燭台の炎がゆらゆらと揺れ、彼女の顔を橙色で染めていた。

「ぐ……はっ……!」

「ねえ、ルーイ公子。『最善』とはなにか分かる?」

 人の首を絞めながら言う台詞ではないと思ったが、彼女は手の力を緩めない。細腕を外そうともがくものの、彼女の力の方が圧倒的に強かった。

「私はいつもゲルトラウトに『最善』を求めてきた。けれどね、あの子は最後まで『最善』が分からなかった」

 どうしてだか分かる? と尋ねられる。
 ふいに手の力が緩み、そのまま首から両手が外された。途端に酸素が肺に多量に送り込まれ、眩暈と共に尻餅をつく。ぜいぜいと息を切らす様を鉄格子の向こう側から、彼女は楽しそうに眺めていた。
 心に渦巻く感情の名前が思い浮かばない。つけるとすれば――憐れみ、だろうか。

「あの子はね、『最善』をずうっと避けてきたのよ。だってあの子は、『紅の賢者』だもの」

「くれないの……けん、じゃ?」

「ルーイ公子、あの子に伝えて下さいな。『最善の行動を取りなさい。すべて自分で考えなさい』とね」

「そんっ……」

「できるでしょう、だって貴方はあの子の大切な弟君。貴方はたとえ世界を敵に回しても、あの子だけは裏切れない」

 それは泣きたくなるほど当たっていた。
 彼女は踵を返すと、再び寝台に腰掛けて歌い始める。そこが獄中であることなど忘れたかのように、軽やかに。
 アマーリエ様、と呼びかけた。けれど彼女はこちらを見ようとはしない。
 それが答えだったのだ。彼女が自分に与えてくれた最後の答え。
 だから立ち上がった。なにも言わず、なにも思わず、蝋の溶けて固まった不恰好なろうそくを拾い上げ、近くの燭台から炎をもらう。
 ――行かなければ。十人いる兄の中で、唯一自分が兄と認めるあの人のもとへ。


+ + +



 暗く沈んだ冷たい闇の中、低い笑声が聞こえる。靴音が響いたと思ったら、鉄格子の向こうには屈強な肉体の男が口元に手を添えて笑っていた。

「真に恐ろしい女よの、そなたは」

「お褒めに預かり光栄にございます――とでも言えばいいのかしら」

「戯言を。……ようもわしを嵌めてくれたな」

「なんのお話?」

 白いドレスの裾が翻り、アマーリエの口元に酷薄な笑みが刻まれた。双眸に見えるのは狂気にも似た強い光だ。それは戦場で幾たびも見る、『本物の』戦士のそれとよく似ている。
 死を死とも思わず、ただ己の力を信じ、欲するままに生を奪うその輝きに。
 フィリップは思わず鍵を外し、中に入ろうかと考えた。しかしすぐに思いとどまる。彼女の領域に一歩でも足を踏み入れれば、おそらくもう二度と日の光は拝めない。
 力の差は比べるべくもないのだが、なぜだかそんな気がして、残虐王は歯噛みした。漏れでた感情の代わりに、拳を鉄格子に叩きつける。

「ここで切り札を出すか。――そなたの息子も哀れよ、実の母に利用されるとは」

「あら、そういう貴方は実の父親よ。利用しているのはお互い様でしょう? そうでなければ、私はもう空の上だわ」

 フィリップの眉間にしわが刻まれる。

「これでも私、随分と待った方なのよ。ルーイ公子がもう少し賢いかもう少し愚かだったら、状況は変わっていたんでしょうけど。まあどちらにせよ、盤上の駒は整ったわ」

「……我が子でさえも駒と申すか」

「そうね。でも私はあの子を愛しているわ。だって大切な『紅の賢者』ですもの」

 この国でフィリップにこんな口が聞けるのは、きっと彼女くらいのものだろう。
 アマーリエの言葉は初雪のように淡く、凍えるような冷たさを持っている。残虐王は呆れたように目を伏せた。

「神算鬼謀――どれほど優れていようと、血を流すことは避けられない謀略をめぐらせる賢者……か。あれが王になれば世界は変わるな」

「ええ、間違いなく。あのアスラナでさえ、ベスティアに膝を折るわ」

 徹底した侵略と破壊。それが紅の賢者と呼ばれる者達によってもたらされる『最善』の策だ。
 その鬼才を持って生まれたのがアマーリエのただ一人の息子、ゲルトラウトだった。
 
「でもね、あの子は王にはならないわ」

「なぜだ」

「だって、いつだって私が言い聞かせてきたもの。――王になってはいけないの、と」

 アマーリエの顔から笑みが消えた。ゆうらりとしながらもしっかりとした足取りで近づいてくる妻の姿に、フィリップの眉がぴくりと動く。なれど武勲を称える残虐王たる面持ちで彼女を向かえ、冷たく見下ろした。
 この国に必要なのは絶対的な王なのだ。だから彼は暴君と言われようとも殺戮と侵略を繰り返し、欲しいものはすべて手に入れてきた。
 そしてこの次に必要なものが、紅の賢者である。あの才さえあれば世界はもはや掌握したも同然だ。神さえ欺く鬼才に敵う者など、この世にいるはずがないのだから。
 それなのに、ゲルトラウトは王にならないという。

「では王になるのは洟垂れ小僧の方か?」

「まさか。ベスティアの玉座につくのは、この私」

 ――フィリップは戦慄した。
 確かに感じた恐怖を押し隠すように唇を笑みの形に作り変え、憫笑と共に吐き捨てる。

「実に面白い冗談だ。そのために自ら牢に入り、息子を利用し、公子達に互いを潰させ合うよう仕向けたというのか」

「一つ抜けているわ。――王の暗殺、がね」

「ほう……欲張りだな。かような檻の中で、わしの命も狙うか」

「あら、だって貴方を殺すのは私じゃないもの。でも気をつけた方がいいわ。気が変わったら、どうなるか分からないものね。……それが嫌なら、早く私を処刑なさいな」

「黙れ!」

 恐れを知らない瞳が不愉快で、フィリップは怒号を上げた。しかしアマーリエに怯んだ様子は一切見られず、彼は舌打ちして背を向ける。
 ルードヴィッヒが出て行った門扉とは違う方へ向かったところで、その背に歌うような声が届く。

「あの子はね、王になるのを恐れているのよ。死ぬのが怖いし、殺すのも怖い。けれどそれ以上に恐ろしいものがあるから、きっと今頃分からなくなって泣いているわ。ねえ、フィリップ陛下。一ついいことを教えてあげましょう。『最善』の行動を取った人間が、成功するとは限らないのよ」




 それがなにを意味するのか分からないほど、フィリップは愚かではなかった。




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