紅の涙に藍は溺れる [ 5/9 ]
紅の涙に藍は溺れる
hi 煌々と照らし続けるあの光に、涙をひとつ
それはとても、優しい嘘でした。 橙色に照らされた回廊の先、階段の裏でぼんやりと庭園の奥に見える泉を眺めた。
こぽこぽこぽ、と絶えず水音が響く。胸の内ががらんとしていて、塵一つないくらい空虚だ。体の力が弛緩してもはや肩を張る気力も残っていない。
ああなんて、愚かなのだろう。
涙さえ出てこない自分はやはり冷たい人間なのだろうか。あながち間違ってもいないな、と心中でそっと呟いた。
父王の声が脳内で幾度も木霊する。低く大地を唸らせる声音は威圧的で、同時に氷のように冷たい。あれで戦場を駆け回り咆哮しているのだから、士気も上がるだろう。
分かっていた。こんな考えはただの現実逃避なのだ。けれど今まで一体自分がなにを考えていたのか、まったく思い出せない。なぜ自分はここにいるのだろう。なぜこんな風に隠れるようにして庭園を眺めているのだろう。
――第五妾妃、アマーリエを処刑する
ああ、そうか。母が処刑されるのだ。ようやっとそのことを思い出し、乾ききっていた瞳を瞬きして潤わせた。
いきなり父王の使者がやってきて、連行まがいに母が連れて行かれた。かと思えば自分も父王の部屋に呼ばれ、静かにそう告げられたのだ。そのとき自分はなんと返事をしただろう。ああ、ともうん、とも言ったような気がする。
処刑日はいつになるか分からないと父王が言った。明日かも知れないし、十年後かも知れない。罪状は――そう、確か、第七妾妃の殺人罪。
美しい以外になんの取り得もなかった病弱な妾妃を毒殺したという嫌疑によって、牢に入れられた。第七妾妃が亡くなったのは、もう随分と前の話だ。あの末の弟と会って間もない頃の話――言われてみれば、あの頃母に言われて第七妾妃に薬を届けたことがある。確かにその数週間後、彼女は天に召された。
だがそれが毒殺だとどうして今更判明したのだろう。……いいや、きっと今更ではない。あの父王のことだ、もし本当に母が毒を送ったのであれば、きっと父王は最初から知っていた。
それをあえてあのときには問わず、今こうやって断罪しようとしているのだ。
――なぜ。
疑問は更なる疑問を呼び、虚ろな心に影だけを落とす。ろうそくに煽られて水面が光り、水音が一層耳朶を叩いた。
「俺を、引きずり出そーってか……?」
王位継承問題にまったく関与しようとしない、この自分を。
あの血で血を洗う醜い争いの渦中に、引き込もうとしているのだろうか。
どう考えてもそれしか理由は思い浮かばず、自然と嘲笑が口元に浮かんだ。愚かだ。父も、母も、兄弟達も、そして自分も。
公子に生まれたかったわけじゃない。ただ平凡な暮らしができればそれでよかった。庶民からすればそれは大変贅沢な望みだろう。けれど真実、自分は王位に興味はない。
王家は国を滅ぼすものだ。侵略と殺戮、謀略の数々を繰り返し、そのたびに血を流し、命を奪い、土地を殺し、すべてを無にいざなう。
王家は人の陰を集めたものだ。止まらぬ欲はさらなる欲を生み、欲するままに得るものが己を傷つけていると気づかない。
闇と同一化した存在。
ねえ、ゲルトラウト。いつも最善の行動を取りなさい。
母の声がよみがえる。別段甘くもなければきつくもない、けれど凛とした声だった。いつまで経っても母の心のうちを読むことはできなくて、上辺だけの笑みに歯がゆい思いもした。
息子であるにも関わらず、どこか距離を感じていた。彼女と自分の間にあるのは血の繋がりだけで、それがあるからこそ自分達は『赤の他人』という言葉から離れた存在だった。
母子の愛があったかと問われれば、是と答える。しかし曖昧さを孕んだその答えは、じわりじわりと心を焦がしていく。
「……『最善』って、なんだよ」
母を助けるには王になるしか道はない。父王は自分を継承争いに巻き込むために母を牢に入れているのだ。今すぐ母が処刑されれば自分はさっさとこの国を出て、どこか別の国で気ままに生きていくつもりだった。それを阻止したのは父王の策略があったからだ。
いつ処刑されるか分からない――つまり、自分が王になればその罪状は無に帰すことができるということ。
もしここで継承争いに名乗りを上げなければ、あの父王はためらいなく母の首を刎ねるだろう。そして、自分の首も。
臆病だなんだと言われようが、死ぬのは怖い。それは人間として当然の心理だ。
だから母の言う『最善』が分からなくなる。
あの人は助けろとは絶対に言わない。きっと牢に見舞っても、嘘か真か分からないあの笑顔を浮かべて「自分で考えなさい」と言うに違いない。
そして続けるのだ。
最善の行動を取りなさい、と。
死ぬのは怖い。純粋に恐怖だけが体に襲う。だが、王になって数多の命を奪うことは――なおさら、怖い。
握り締めた手のひらに痛みが走る。
一体自分にどれだけの力があるというのか。なんの力もない。重臣達に存在を忘れられるほどの存在だったのだ。それなのに。
今、母が牢に入れられたことによって、自分は王宮で最も目立つ存在となってしまった。
もはやここに自分の名を知らぬ者はいない。かつては一緒に花を愛でた庭師でさえ、『ゲルトラウト』の名を知ってしまった。
ゲルトラウト・バウアー。忌まわしき血を引く六番目の闇に与えられた名前。
父王はその双眸に一切の感情を宿さず言った。「その名を忘れるな」と。なぜ選ばれたのが自分だったのだろう。彼の子供は全部で十一人。進んで王になりたがる者は自分と末の弟を除いた全員だ。
それなのに、選ばれたのは凡庸な自分。
捨て置いてくれればよかった。このまま時の流れに身を任せ、腐敗していく王家を母と傍観していればそれで。
だが残虐王と恐れられる父王はそれを許さない。――逃げることを、許してはくれない。
――あにうえ
誰かが必死に呼んでいる。あれは一体誰だったろう。
闇に差し込む一条の光にも似た美しい白金は、一体誰のものだったろう。
思い出したいのかそうでないのか、もう判断がつかなくなっていた。
きっとこれは夢。
だって自分をこんなにも必死に呼び求める人が、ここにいるはずがないのだから。
「――あにっ、うえ!」
なのに声は次第に大きくなっていく。
あにうえ、と自分を表す言葉を呼び続けるのは、一体誰。
忌まわしい名ではなく、多くの者に当てはまるその言葉を叫ぶのは、誰。
「兄上っ!」
「ルー……イ?」
「やっと、見つけ……た!」
首を動かすことさえ億劫になっていた自分の目の前に、光が舞い降りた。――否、光ではない。
第十一公子――最後の弟だ。
白い頬を赤く染め、ルードヴィッヒが肩で息をしている。走ってきたのだろう。見つけたと言っていたから、随分と探したのかもしれない。
誰を? ――自分を。
よろよろとふらつきながら近づいてくる弟を虚ろに見ながら、ぼんやりと考える。彼は恨むだろうか。彼の母を殺した自分の母と、自分を。
ならばそれでいい。罵倒され、なじられ、恨みの果てに絶望を与えてくれたのなら心置きなく殺されることができる。
しかしすっかり健康体に成長した弟は、男にしては細くしなやかな腕を優しく伸ばしてきた。走ってきたせいで熱を持った指先が、頬に触れる。
「あに、うえ。……僕は、信じてますから」
いったい、なにを。
「アマーリエ様は、無実です。母上は、ご病気で、亡くなったんです」
小さな子供に言い聞かせるようにルードヴィッヒは言葉を区切る。
深い藍色の双眸は泣きそうなほど歪んでいて、眦には涙が溜まっていた。
なぜこの弟が泣いているのだろう。分からない。しかし今の自分には彼の涙を拭ってやる気力はない。
すべてが面倒なのだ。息をするのでさえ疲れてきた。
「さっき、アマーリエ様にお会いしてきました」
自分では気づかなかったが、このとき僅かに体が反応した。
「……笑って、おられました。兄上に、『最善の行動を取りなさい』、と」
ああ、やっぱり。
「それから、『一人がつらいなら、誰かに縋りなさい』、と……」
自分の目が驚きに見開いたのが分かった。
まさかあの母の口からそんな言葉が出るとは予想していなかった。
自分で考えなさい。一人で生きなさい。
それがあの人の口癖だったのに。
うつほの胸になにかが落ちてくる。暖かいというよりは熱くて、痛くて、胸が焼かれ死んでしまいそうだ。
「だから、兄上……!」
ルードヴィッヒが頬を濡らし、ぎゅうと強く抱きついてきた。ばくばくとうるさい拍動が肌に直接感じられ、夢ではないのだと自覚する。
弟は、震える声で、啼く。
「泣かないで、くださ……い!」
泣いているのはお前だろう、と言いたかったのだが言葉にならなかった。
喉が痛い。鼻の奥も頭も痛くて、寒い中ずっと外にいたから風邪を引いたのだろう。身を震わすルードヴィッヒの腕の中でそんなことを考えた。
視界の隅で長い白金の髪が流れている。
まさにそれは、光の色。
「アマーリエ様も、兄上も、僕が、守りますからっ! だからどうか、諦めないで、下さい。絶対に、僕が守ります、から! 僕が傍に、います、から」
途切れ途切れの言葉はとても拙くて、三流の劇を見ているようだ。
「貴方だけは、闇に、呑まれないで……!」
悲痛な叫びが耳朶を叩く。折り重なるようにして泉の水音が流れ、虫の声が静かに響いた。
闇を照らすのは唯一輝く無垢な光。
この残虐な遊戯に終わりをもたらす最後の希望。
そして誰もが望まない、最悪の結末。
ねえ、ゲルトラウト。
でもね、貴方は王になってはいけないわ。王になるのは貴方じゃないの。
もしも貴方がくだらない継承者争いに巻き込まれそうになったら、あの子につきなさい。上の三公子ではなく、あの子を王に仕立て上げなさいね。 かつての台詞が心を叩く。
それが一番嫌なのだと叫んだところで、弟はもうすでに道を定めてしまっていた。
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