紅の願いと藍の矜持 [ 7/9 ]
紅の願いと藍の矜持
hi それはとても、残酷すぎる真実でした。 闇から救い上げてくれたのは、優しいというよりは不器用な手だった。
母はいつも泣いていて、兄と名のつく者達は誰もがこの存在を拒み続けた。殴られ罵られ踏みにじられ、時には噴水の中に突き落とされたり、真っ暗な蔵の中に閉じ込められたりもした。
今でも体に残っている傷はある。癒えることのない心の傷だって、確かに存在する。けれどそのほとんどが、たった一人の兄によって癒された。
あの人は自分にとって神に等しい。――いいや、神などよりよほど尊い人物だ。
だって神はどれだけ祈っても助けてなどくれなかった。遥かな高みより愚かな人間を見下ろし、気が向いたときにだけ災厄を振り落としていく。そんな存在なのだろう。
「あにうえ……」
呼べば面倒くさそうに、困ったように振り向いてくれた。垣根の中に隠れていた自分を見つけ、手当てして塔に連れて行ってくれたあの手の暖かさを、今でもはっきりと覚えている。
そのとき、初めて『救われた』のだと思った。
祈り縋った神にではない。血の繋がった、兄に。
単純だと思われても構わない。あのときから、あの兄だけが『兄上』になった。他の兄公子達にどれだけなじられても苦とは思わないほど、兄の存在が失墜する心に再び翼を与えてくれた。
だから、今度は自分の番なのだ。
何度も何度も救われたから、今度は自分が兄を助けなければいけない。
四肢に纏わりつく闇を振り切り、冷え切った夜の庭園を駆けずり回る。城中を探し回っても兄の姿を見つけることは叶わず、焦りだけが降り積もっていく。
どうか、諦めないで。
書物で読んだことがある。『紅の賢者』は必ず祖国を勝利に導く。けれど、紅の賢者が立てる策はすべて血を伴うのだと。
どれほど優れた策であっても無血は望めない。それがどうして『賢者』なのだろう、と、自分はよりにもよってあの兄本人に尋ねたことがあった。そのとき兄は笑いながら言った。「そりゃ賢者じゃなくて、ただの愚者だな」と。
――どのような気持ちであの台詞を言ったのかと思うと、胸がどうしようもなく痛んだ。張り裂けるだけでは済まない激痛に、いっそこのまま死に絶えた方が楽なのではないかと思う。
人というのは目も当てられないほど愚かで、そして聡いのだ。
走って走って足が壊れてしまいそうなくらい駆け回って、橙色に照らされた泉の傍までやってきた。こぽこぽこぽ、という音を耳にしながら、ようやく足を止める。
胸ではなく、肺と心臓が直接絶叫していた。嚥下した唾液はすでに血の味が混ざっており、昔を思い出す鉄の香に眉を寄せる。気を抜けば崩れ落ちそうになる膝に叱咤して、すっかり日の落ちた辺りを見回す。
虫の鳴く声と風の音、そして水音しか耳には届かない。それなのになぜか、兄の声が聞こえたような気がした。
それは明らかに空耳だった。けれど気がつけば自分は再び走り出し、衣の裾が枝に引っかかって破れたのにも気づかないくらい一心不乱に一点を目指していた。
薄暗い階段の下、かろうじて庭園から見える場所に兄はいた。
いつも自分を映す瞳が虚ろに空を彷徨っていたのを見た瞬間、目の奥が急激に熱を帯びる。
息が不自然に上がり、呼吸するだけでもつらい喉は勝手に兄を呼ぶ。
「あにうえっ……!」
兄は気づかない。
それでも何度も何度も声が枯れるまで呼び続けようと思った。あの瞳がもう一度自分を映すまで、何度だって呼んでやる。
それしかできないのがとても悔しくてふがいなくて、溢れそうになる涙を必死に堪えて願いを込めて叫ぶ。
「――あにっ、うえ!」
だからどうか、俯かないで。
「兄上っ!」
何度目か分からぬ呼びかけのあと、辿り着いた兄のもとでゆっくりと立ち止まる。折角兄が綺麗だと言ってくれた白金の髪は乱れきり、長く伸ばしていたせいであちこち絡まっていた。
そういえば、この髪に櫛を通してくれたのは彼の母――アマーリエだ。自分のすべては彼らのおかげでできており、きっと彼らがいなければ今の自分は霧と一緒に掻き消えてしまうだろう。
あにうえ、どうか。
強く呼びかければ、のろのろと不安定ながらも兄の目がこちらを向いた。生気のない顔を見るのは耐えがたかったが、それでもやはり安心した。
兄の唇が僅かに開く。
「ルー……イ?」
「やっと、見つけ……た!」
彼が名を呼んでくれたとき、もうこれ以上ないくらいの喜びを感じた。
このまま兄の苦しみをすべて引き受けて死んでしまえたら、どれほど幸せだろうか。そのとき、兄は泣いてくれるだろうか。いいや、泣かなくていい。
欲を言えば悲しんでほしいが、それでも兄を苦しめたくはない。兄が笑っていてくれるのなら、それだけで十分なのだ。
がくがくと限界をとうに超している足で一歩一歩進む。兄の目がまるで恨めとでも言っているように見えて、怒りよりも悲しみが心を支配した。
憔悴しきった兄の顔は、壊れた人形のように色がない。恐る恐る手を伸ばせば、まるで死人のように冷え切っている。指先に伝わる冷水の感覚が肌を刺し、同時に精神を蝕んだ。
「あに、うえ。……僕は、信じてますから」
口から零れ落ちた言葉は、自分でも驚くほど震えていた。
「アマーリエ様は、無実です。母上は、ご病気で、亡くなったんです」
小さな子供に言い聞かせるように、少しずつ言葉を区切る。そうでもしないと、兄の心にはきっと届かないだろうから。
生と死の天秤をその両手に乗せる兄の心には、きっと。
じんわりと滲んでくる涙のせいで視界がぼやける。折角兄が自分を映してくれているというのに、その顔が上手く見えないのだ。ぐっと喉の奥に力を入れて涙を抑え、言わなければならない重苦しい一言を用意する。
「さっき、アマーリエ様にお会いしてきました」
途端に兄の体が小さく震えた。
「……笑って、おられました。兄上に、『最善の行動を取りなさい』、と」
口元にほのかな嘲笑が乗る。それを見て、どうするべきか分からなくなった。
あの人は「すべて自分で考えなさい」と言っていた。それはいつもと変わらぬ口癖のような言葉で、なおかつ最も冷酷な言葉だ。
声が震える。自然と瞳は下がり、今すぐにでも叫びだしそうになる衝動をなんとか堪えねばならなかった。
「それから、『一人がつらいなら、誰かに縋りなさい』、と……」
ああ、言ってしまった。――逃げてしまった。
兄の顔は驚愕の色に染まり、一瞬にしてその眦が滲んでいく。
今まで見たことがないくらい苦しそうで、つらそうで、悲しげな顔だった。後悔してももう遅いのだと気がついたのは、兄が唇を噛み締めたのを目にしたときだ。やはり偽るべきではなかった。
今しがた自分がついた嘘はあまりにも優しくて――あまりにも残酷な、深淵の窮みのような言葉なのだ。
もはや自分では抑えきれない涙が頬を伝う。熱いというよりそれは痛くて、涙の伝う箇所が切れていくかのようだった。
「だから、兄上……!」
もうこれ以上、泣きたいのに泣けない――号泣されるよりも胸に詰まる――顔を見るのが嫌で、ぎゅうと抱きつく。
拒絶はされなかったが受け入れられることもなかった。
ねえ、兄上。
「泣かないで、くださ……い!」
そんな顔をして、知らないところで泣かないで。
偽って告げた伝言は、自分の望みに他ならない。誰かに縋れという言葉の『誰か』は自分であればいいと、そう思ったのだ。
けれど兄はなにも言わない。ただただ静かに、壊れそうな心を抱えて瞳を赤く染めるだけだ。
「アマーリエ様も、兄上も、僕が、守りますからっ! だからどうか、諦めないで、下さい。絶対に、僕が守ります、から! 僕が傍に、います、から」
みっともなく言葉が途切れる。出てくる思いは月並みの言葉でしか表せず、これではまるで三流芝居のようだと自分でも思った。
普段の兄なら言うだろう。「もっとしっかりしねーと俺みたいになるぞ、ルーイ」と、苦笑しながら。
「貴方だけは、闇に、呑まれないで……!」
沈黙の叫びが耳朶を叩く。折り重なるようにして泉の水音が流れ、虫の声が静かに響いた。
闇を照らすのは唯一輝く無垢な光。
この残虐な遊戯に終わりをもたらす最後の希望。
そして誰もが望まない、最悪の結末。
ねえ、兄上。
貴方が苦しまずに済むのなら、僕はどんなことでもしてみせるよ。
たとえもう一度あの闇に身を投じることになろうと、最後まで戦ってみせる。
だから、ねえ、あにうえ。
ぼくを ひとりに しないで
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