紅が望みは藍の望み [ 4/9 ]
紅が望みは藍の望み
hi「幽霊?」
林檎を一口齧りながら、末の弟を見る。朝露に星屑を溶かし込んだ白金の髪がつやつやと光を弾き、ルードヴィッヒが跳ねるたびに一緒になって風に乗った。
不健康そのものだったかつての弟の姿はそこにはなく、今では健康優良児としか思えない柔らかそうな頬がほんのりと色づいている。興奮しているのか、彼は断片的なことしか口にしない。まったく意味が分からずに首を傾げていると、彼は申し訳なさそうに柳眉を下げた。
「すみません、兄上……僕の話なんか、つまらないですよね」
「や、別に。だから俺にも分かるよーに説明しろよ」
「はいっ! ええっと、さっき侍女の一人に聞いたんですけど、出るらしいんです! 城のどこかには開かずの扉があって、そこからこの世のものとは思えない声が聞こえてきたと思ったら、ぶわぁって人魂が!」
「開かずの扉、ねぇ……」
しゃく、と林檎を租借しながらゲルトラウトは思案する。いたって平凡な、ありきたりの怪談話だ。この程度の話ならば、古い屋敷に行けばごろごろと転がっているだろう。
それなのにこの弟は、目を輝かせて『開かずの扉』がどこなのかを知りたがっている。
ゲルトラウトには、ルードヴィッヒにこの話をした侍女の心当たりがついていた。――というよりこんな話をするのは、この城で彼女と母アマーリエくらいなものだ。
「兄上っ、開かずの扉ってどこにあるんでしょうか? もし、今度お暇なら一緒に探しに――」
「ルーイ。お前にさ、その話した侍女ってふわっふわの頭してたか?」
突然言葉を遮って尋ねてきた兄にルードヴィッヒは一瞬きょとんとしたが、すぐに思い返すように視線だけを上に向け、一見すれば天使のような顔に満面の笑みを浮かべた。
「はい。薄紅色の髪をした、小柄な女の子でしたよ」
ああやっぱり。
ゲルトラウトの口から深いため息が零れたのを聞き、ルードヴィッヒは不思議そうに首を傾けた。弟の疑問に答えてやるよりも、ゲルトラウトにとっては胸に渦巻く百万語をどうにかして収めることの方が重要だったので、しばらく俯いて口を噤むことにする。
心配したルードヴィッヒが顔を覗きこんでくるが、深い藍色の瞳に映った自分を見る前に彼は瞼を下ろした。
真っ暗になった視界に、幼い頃の記憶が次々によみがえってくる。
アプリコット色をした髪がふわふわと揺れ、水底に吸い込まれる体がそれを掴もうと必死でもがいている。ころころと愛らしい笑い声は、たった今聞いたかのように耳の奥で響き、なにも塗っていないのに艶やかな唇がゲルトラウトの名を呼ぶ錯覚まで見た。
「兄上? 兄上、どうなされたんですか? ご気分が優れないんでしたら、すぐに医者を!」
「いい。大丈夫だから、そんな泣きそうな顔してんじゃねーよ。……それとな、お前が会ったのは侍女じゃない。奴は……レティシア・フェル」
「レティシア……?」
「そう、あれは――悪魔だ」
思い出すだけでも悪寒が、と自身を抱き締めるように腕を交差させたゲルトラウトの背中に、ぞっとする凍てついたなにかが滑り落ちる。それは言葉通り嫌なことを思い出したからなのか、それとも――。
「あら〜、聞き捨てなりませんわぁ、ゲートさまぁ」
「――――ッ!?」
唐突に背後から、砂糖菓子のような甘ったるい声音が耳に流れ込んでくる。ひっと息を呑んだゲルトラウトに対して、ルードヴィッヒは大きな藍色の目をしばたたかせ、「さっきの!」と彼女を指差していた。
そう、これは間違いなく『奴』だ。ゲルトラウトが『悪魔』と呼ぶ、忌まわしい思い出の一部。
「先ほどぶりですわね〜、ルーイさま。ご機嫌麗しゅう? ねぇゲートさま、なにを固まっておいでですの〜?」
「…………わりぃ、ルーイ。あとは任せたっ!」
「え? あっ、あにうえ!?」
困惑するルードヴィッヒを一人残し、部屋から逃げ出すべく一目散に扉を目指す。そのときの決まりごとは、決して後ろを振り返らないこと、だ。
たとえなにが聞こえてきても、なにが起きたとしても、現実を見ればそこですべてが終わる。
あまり運動神経が良いとは言えないゲルトラウトだったが、人間いざというときの底力は凄まじい。まさしく脱兎のごとく部屋を飛び出した彼の耳に、追いかける足音が聞こえてきたのは大分あとになってのことだった。
赤い絨毯が敷き詰められた廊下を走り抜け、花飾りの格子窓から零れてくる光を眩しげに受け止めると、薄暗い螺旋階段に飛び込んだ。渦を巻く手すりに腰掛けて下を目指す。落ちないように気をつけながら風を裂き、あと僅かで一階というところで彼は躊躇いもなく飛び降りた。
じん、と足裏に鈍い痺れが走ったが、そんなものに構っている暇などない。
――逃げろ。
ゲルトラウトの頭の中には、もうその単語しか残されてはいなかった。
あの悪魔に関わって、一つでもいいことがあったか。いや、ない。当然の答えに、彼はさらなる頭痛を覚える。
肺が悲鳴を上げ、痛いくらいに心臓が駆け出していても、彼は走る速度を緩めようとはしなかった。遠くからルードヴィッヒの声が聞こえてくるが、聞こえないふりをしてやりすごす。
走って走って走り続け、ようやっと外に出る最後の扉が見えてきた。
ぱっと光った一縷の希望に、ゲルトラウトは必死で手を伸ばす。
あと、もう少し――!
だが運命は、残酷だった。
「う、わ……っ!」
「あら、ゲルトラウト。そんなに慌ててどうしたの。取り乱してはだめ。常に落ち着いていなさいと言ったでしょう?」
「悪いっ、だから母さんどいて!」
「だめよ。どうせまた、レティシアから逃げているんでしょう」
「なっ……!」
「まああ、アマーリエさますてき〜。ゲートさま、捕まえましたわ〜」
「おまっ、一体どこから!」
空から〜、と相変わらず気の抜けたような舌足らずな口調で告げたレティシアは、青ざめるゲルトラウトの首に腕を回して正面から抱きつくと、幸せそうに破顔して胸に顔を埋めてきた。
薄紅色のふわふわとした髪は高い位置で二つに結われ、青みがかった灰色の瞳は長い睫に縁取られている。侍女が纏うスカートよりも格段にフリルのついたそれを見事に穿きこなす少女は、悪魔というよりも妖精のような容貌だった。
小柄で愛らしく、花々に囲まれて育つのが当然のような少女。伸ばした語尾や舌足らずな口調も、可憐な外見に相まって甘さを引き立てている。
喩えるなら花か妖精。擬音で表すなら、『ふわふわ』だ。空気のような軽さでそこらを駆け回る姿など、無邪気すぎて笑みを禁じえない。――ただし、ゲルトラウトは別だったが。
「ゲートさま、相変わらずぶっきらぼうでございますのね〜」
「ひっ……!」
つつつ、と鎖骨の辺りを冷たい指先で撫でられ、思わず情けない悲鳴が口をつく。
後ろに仰け反った瞬間、遅れてやってきたルードヴィッヒが、息を切らせながら手すりから身を乗り出しているのが見えた。末の弟は藍色のまなこを極限まで見開き、わなわなと白い手を震わせている。
顎の辺りに唇を押し付けてくるレティシアの顔を必死で突っぱねつつ、ゲルトラウトは弟の暴走を止めるべきか、それともそのまま暴走させて自分が助かるかを本気で天秤にかけて考えてみた。
結果、特に信じてもいない神に謝罪して後者を選ぶ。
「――たかが、たかが侍女の分際で、よくも兄上に不埒な真似を……!」
「ルーイさまぁ、わたくし侍女じゃあなくってよ〜」
ねえ、ゲートさま?
ゲルトラウトを『ゲート』などと愛称で呼ぶのは、あとにも先にもレティシアだけだった。とんっと彼女はゲルトラウトから離れると、フリルのスカートに空気をはらませるように一回転し、甘い蜜花の香りのする髪をふわりと揺らす。
優しい色の瞳が、ゲルトラウトはなによりも苦手だった。彼女は天使でもなければ妖精でもない。悪魔と呼ぶに相応しい生き物なのだ。
「侍女じゃない? それってどういうことだよ!」
怒りで頬を染めたルードヴィッヒが叫ぶ。ゲルトラウトはこの弟が、自分のことになると我を忘れることを知っていたが、それにしてもこんな喋り方もできたのか――と、どこか感心してしまう。
いつもいつも毒を吐いている相手は兄弟公子達だったから、自然と彼の口調も丁寧なものだったのだ。
王族でありながら下々の者とそう変わらぬ言葉遣いなのは、彼の生まれゆえかそれとも自分の責任か。明らかに後者だと思われるものの、ゲルトラウトはひとまず唸って誤魔化すことにした。
眼前では、いつの間にか肩を怒らせて降りてきたルードヴィッヒが、今にもレティシアに噛み付かんばかりの勢いで牙を剥いている。
「ですからぁ、わたくしは侍女ではなくって、ゲートさまの乳母なのですわ〜」
「……………………めのと?」
「あ、でもさすがにお乳は出ませんでしたけど〜」
ずくん、と頭痛が蘇る。
どこからどう見てもルードヴィッヒと同じかそれより下にしか見えないレティシアは、さらりと恐ろしいことを言ってのけた。アマーリエはいつもと変わらぬ含み笑いでこちらを見ているし、ルードヴィッヒは信じられないと瞠目して言葉を失っている。
しかし真実を知っているゲルトラウトにとって、彼女の発言を否定できるだけの気力は残っていなかった。
「……ルーイ、認めたくなんかねーけど、それが事実だ。…………その悪魔は、十年以上前から見た目が変わってねーんだよ」
「え……冗談、ですよね、あにうえ」
冗談ならばどれほどよかったか。ゲルトラウトは過去を振り返って痛切にそう思う。
「レティシアは魔女よ。――種族はなんだったかしら?」
「ユニコーンとエルフですわ〜」
「ま、待って下さいアマーリエ様! 魔女って、そんな……普通は、幻獣と人間との子供のことじゃ……」
「そうね。正確に言えばエルフの祖先を持つ人間と、人化したユニコーンとの子――で合ってるかしら、レティシア?」
「はぁい」
柔らかな髪を手でどかせば、隠れていた耳が露わになる。つんと尖ったその耳を見て、ルードヴィッヒはまたしても言葉を失ったようだ。
「いわゆる先祖返りですのよ〜。ルーイさま、聞いていらして〜?」
「……レティシア」
「はぁい?」
「頼むから消えてくれ。どうせ開かずの扉の幽霊もお前なんだろ? これ以上周りを巻き込むんじゃねーよ……」
脱力したゲルトラウトの脳裏に浮かんだのは、人にあらざる力――魔法というらしい――を使おうとして失敗し、塔の天辺から落とされかけたかつての自分の姿だった。
レティシアは何度も何度も魔法によってゲルトラウトを生命の危機に陥れ、それでもほけらほけらと笑っている。
突然湖に沈められること二十四回、火の玉に追いかけられること十八回、謎の閃光によって火傷を負わされること数知れず。
ベスティアの王族であるということを完全に無視したその所業は、悪魔と言わずしてなんと言う。
睨むように彼女を見据えてルードヴィッヒを背に庇えば、ぱちくりと大きな目を瞬かせ、彼女は快活に笑った。
「ゆーれーだなんて、失礼ですわ〜。わたくしはただ、お部屋で園芸をしていただけですのよ〜」
「ただの園芸で人魂騒ぎが出るわけねーだろ」
「と・く・べ・つ、なお花ですもの〜」
なにが楽しいのか、レティシアは笑いながらその場でくるくると回転している。
揺れるアプリコットの髪を焼き尽くしたい衝動が生まれたが、ゲルトラウトはその激情を発散させる術を持ってはいなかった。
こうなってしまってはどうしようもない。ぐっとため息を飲み込んで、アマーリエに一礼してからルードヴィッヒの肩を押す。部屋に戻るよう促せば、弟はレティシアをきつく睨み据えて――けれどその瞳はどこか怯えを含んでいた――螺旋階段を上っていった。
その後ろ姿を見送りながら、階段の中ほどで振り返る。相変わらずふわふわとした笑みを浮かべるレティシアに、ただ冷ややかな目を向けた。
「なんでまた、あそこから出てきたんだ?」
「アマーリエさまに呼ばれたからですわ〜。もうじきだから、と」
「――もうじき?」
「その話はもういいでしょう。ゲルトラウト、気になるのだったらお部屋に戻ったあと、一人でじっくりと考えなさい」
ほんの一瞬、鋭い光を宿したように見えたレティシアの双眸は、前に現れたアマーリエによって遮られる。母はそのまま踵を返し、塔の外へと出て行った。
跳ねるようにアマーリエの後ろをついていくレティシアを黙って見つめていると、途中で彼女が半回転して振り向いた。
びくついた肩を誤魔化すように頬を掻けば、彼女は少女の外見には不釣合いな大人びた笑みを浮かべる。
「――――」
小さな唇が動く。なにを言っているか、聞こえるはずもなかった。
それでも、レティシアが言ったことが分かったような気がして、ゲルトラウトは瞠目する。
「な……どういう、ことだよ」
――恐れずに前に進みなさい。
それがゲルトラウトが聞いた、魔女の最後の言葉だった。
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