紅の花に藍は溶ける [ 2/9 ]

の花に藍は溶ける


hi

 怨嗟の炎はじりじりと燻っている。今のところ表立った動きはないものの、確実に歯車は回っていた。
 先日、第三公子が熱を出して倒れた。命に別状はなかったものの、彼の飲んだ茶器からは遅効性の毒が僅かに検出されたという。
 まだ王位争いの時期ではない。父王は病気知らずの健康体で、しばらく床に伏す予定もない。だのに毒が盛られたということは、邪魔な芽はそろそろ摘んでいこう――という、怖ろしい動きが水面下で始まったことを示している。
 まあもっとも、このような毒殺騒ぎなど今更という気もしないでもないのだが。

 ゲルトラウトは庭を散歩していた。庭師が懇切丁寧に手入れした庭園はとても美しく、陰謀渦巻く宮廷には似合わないような気さえする。そんな手入れの施された生垣に、不自然なくぼみができていた。庭師がそんな失敗を犯すはずもない。
 普段は欠片もない好奇心を起動させたことを、このときゲルトラウトは激しく後悔した。ひょいと覗いた生垣の中に、ぼろぼろになってうずくまる小さな少年の姿を見てしまったからである。
 失敗したと思った。……余計なものを見つけてしまった。
 なにも見なかったことにして踵を返した瞬間、今まで聞こえなかったすすり泣く声が耳に届く。一度意識してしまえばそれはどんなに小さくても聞こえてきて、耳から離れてくれそうになかった。
 ちら、と振り向けば、少年は膝を抱えたまま顔を上げようとはしない。どうやらゲルトラウトの存在には気づいていないようである。

(なら好都合じゃん)

 気づかれていないなら、この場を去ってもまったく問題がない。よし、と頷いて一歩踏み出した足は、何故か生垣のくぼみの手前にあった。
 さすがに至近距離で聞こえた足音に、少年が顔を上げる。涙と鼻水でぐしょぐしょに崩れた顔は、お世辞にもかわいいとは言えなかった。

(嘘だろ、おい……)

 自分でもどうしてその場を離れなかったのか、分からなかった。呆然と立ち尽くすゲルトラウトを無言のまま見上げる少年は、虚ろな瞳に恐怖だけを宿して体を震わせている。
 擦り傷だらけの体。頬には殴られた痕さえある。髪はもつれ、白金の色合いも泥で汚れきっていた。
 破れた服から見える薄い肩に、じわりと赤い血が滲んでいるのを見てゲルトラウトは眉根を寄せた。どう見ても転んでできたような傷ではない。深くはないが、刃物でつけられた傷に間違いなかった。
 くそ、と内心毒づいて屈む。すると少年ははっきりと恐怖の色を顔に浮かべ、座ったまま後退した。薔薇の生垣に、さらに不恰好なくぼみが広がる。

「逃げんな、時間もったいねーだろ」

「っ、や、ごめ、なさ……! いい子に、します、からっ」

 思わず目を見開いてしまった。殴られるか、はたまた蹴られるか――暴力を振るわれるのだと勘違いした少年は、がたがたと大きく体を震わせて己の頭を両腕で庇うように縮こまっている。痩せこけた頬は青白く、怯える姿はとてもじゃないが父王の血を引いているとは思えなかった。
 そう、これがゲルトラウトの末の弟だ。母である第七妾妃は病弱かつ庶民の出。後ろ盾がない上に、第二妾妃には劣るものの、美貌は目を瞠るものとくれば疎まれるのも無理はなかった。一番新しい妾妃というだけでも十分目をつけられるのに、身分まで低いとあってはどうしようもない。後宮の隅に追いやられ、彼女は王の妻とは思えないほどの暮らしをさせられているらしいと聞く。
 王であるフィリップはそれなりに彼女を寵愛しているのだが、ドレスやら貴金属やらを贈ったところで他の妾妃に捨てられてしまうらしい。おそらく王はそれに気づいているのだろうが、自ら口を出すことはない。
 弱いものは喰われる。ここはそういう場所なのだ。
 だからこそ、ゲルトラウトは末の弟が他の公子達にいじめられていると知っても、彼に関わろうとしなかった。
 玉座に興味はない。それと同じで、強者にも弱者にも興味はない。自分と母が平穏――とまではいかなくとも、それなりにのんびりと暮らしていければそれだけで十分だったのだ。

 それなのに、今の自分はなぜだかシャツの袖を裂き、少年の肩にぐるぐると巻きつけている。

 なぜだろう。自問しても答えは出てこない。
 止血をしているうちに、少年の震えが納まってきた。涙で真っ赤になった瞳を恐る恐る持ち上げ、ゲルトラウトの顔色を窺うようなそぶりを見せる。穴が開くほど見つめてくる視線に気づかないふりをしながら、ゲルトラウトは左腕の袖もびりりと裂いた。絹の上質なシャツは無残な姿になったが、中途半端に片腕だけ残すのもおかしいだろう。
 あ、と小さく声を上げられたが軽く無視し、近くの水場まで行って切れ端を濡らすと固く絞った。生垣のくぼみに戻ってやれば、あからさまにほっとした顔を見せる少年にため息をつきたくなる。
 力加減なんて分からない。ぐいぐいと乱暴に頬の汚れを拭ってやれば、痩せているにもかかわらずやわらかな頬が擦るたびについてきた。――少し面白い。
 シャツの切れ端が血と泥で汚れた頃、ゲルトラウトはもう一度水場へ行って綺麗に洗ってから少年の顔を拭いてやる。顔だけでなく、目に見えて汚れたり怪我をしている箇所を拭いてやったので、彼は何度も水場と生垣を往復するはめになった。
 ようやっと小奇麗になった頃、おずおずと少年が口を開く。

「あ、の…………ありがとう、ござい、ました」

「名前は?」

「え?」

「なーまーえ。お前の名前。言えねーの?」

「…………ルードヴィッヒ、です」

 少し迷ったあと、少年は小さな声でそう言った。それを聞いて思わずゲルトラウトは目を丸くする。

「ルードヴィッヒ? 随分と洒落た名前つけてもらったんだな。お前の母さんか?」

 自分の名前は母につけてもらった。だから弟もきっとそうだろうと思って、ゲルトラウトは末の弟にそう尋ねたのだが、ルードヴィッヒはふるふると首を左右に振って否定した。
 そこでますますゲルトラウトは驚いた。『あの』父王が、子供に名前を? いや、そうとは限らない。侍女かも知れないし、そこらの庭師かもしれない。もしかしたら、神官という可能性もある。半ば信じられない思いで弟を見つめていたが、小さな小さな弟はぽつり、と「ちちうえが」と零した。

「あの陛下が、ねぇ……。まあ、確かにお前の母さんじゃ、ルードヴィッヒなんてつけれそうにもねーけどな」

「はい。僕の名前は、父上につけていただいたと、母上から……」

「なるほどね」

 だから余計にいじめられるのか。
 ようやく合点がいったゲルトラウトは、ひとしきり頷いて目の前の弟を眺めた。
 十一人いる息子の中で、父王が自ら名づけた子供は彼しかいない。最も寵愛を受けている第二妾妃の子や、正妃の子さえ父王は名づけなかった。なのに庶民の母を持つ末の公子だけが父王に名を頂いたとあれば、他の公子もその母も気に入らないだろう。
 ゲルトラウトは他者にはまったく無関心だったから、そんな事情など微塵も知らなかった。現に弟の名前さえ知らなかったのだ。彼が生まれたときも、周りが騒いでいたのを耳にした程度だ。

「あの、あ、あなた、は……」

「――あのさ、どーでもいいけどもっと堂々と喋れよ。んなオドオドしなくても殴ったりしねーから」

 しどろもどろした口調に辟易しながら言うと、ルードヴィッヒはさらにしどろもどろになりながら、蚊の鳴くような声でごめんなさいと謝った。しかし、自分の隣にちょこんと座っている弟の頬は、ほんの少し嬉しそうに上気している。
 ほとんど無意識に頭を撫でようとしていたゲルトラウトは、弟の頭の上で不自然に停止した己の手を凝視した。なんだこの手は。なれどそのまま引っ込めるにしても不恰好で、ええいままよと胸中で叫んでがしがしと白金の髪を掻き回す。
 驚いたように、でもどこか嬉しそうに頬を緩めた弟は、小さい声音ながらもはっきりと言葉を紡いだ。

「あなたは、誰ですか?」

 俺のこと知らねーの、とは言えなかった。まだ五つの子供だ。こうして後宮に立ち入ることのできる者がどういう身分なのかだとか、身なりから判断しろだとかいうことは期待しても無駄なのである。そもそもゲルトラウトは存在を忘れられることさえある公子なのだ。
 幼い末の弟が自分を知らないのも、当然といえば当然だった。

「ゲルトラウト・バウアー。第六公子……まーつまり、お前の六番目の兄貴だな。覚えておかなくてもいいぞ」

「僕の、あ、兄上なんですか……?」

「一応な」

 そう答えてやると、ルードヴィッヒは丸い目をさらに丸くさせて驚いていた。他の兄達と比べているのだろう。濃い藍色の瞳をきょろきょろと泳がせている。
 暴力を振るい、邪魔だと罵るのが兄なのだとルードヴィッヒは思い込んでいた。そして、それが当然なのだとも。
 ぱしぱしと何度か瞬いて、藍の双眸が輝く。

「あにうえ」

「んー?」

「あに、うえ」

「……なんだよ」

「明日も、ここで待ってます」

 一瞬なにを言われているのか、ゲルトラウトは理解できなかった。破いてしまった袖のほつれを弄っていた指を止め、訝っている様子を隠そうともせずにルードヴィッヒを見下ろす。ぎこちないけれど満面の笑みだと分かる表情に、ゲルトラウトは頬を引きつらせた。
 ――これはまずい。非常にまずい。
 会って下さいと頼まれたなら、断った。待っていてもいいですかと訊かれたなら、駄目だと答えた。だが、彼の末の弟は「待っています」と断言してしまった。それはもう、きっぱりと。この様子では、いくらゲルトラウトが行かないと言っても弟は待ち続けるだろう。
 ゲルトラウトは不運にも、母親以外で彼に初めて手を差し伸べた人物になってしまったのだ。打ち捨てられた子供に、光を与えてしまった。妙な期待ならば植え付けない方がいい。傷つき、苦しむのはゲルトラウトではなくルードヴィッヒの方だ。

 駄目だ。来れない。迷惑だ。

 そう言って突き放してしまおう。そうすれば傷つくのは一回で済む。無駄に期待して、何度も何度も苦しまなくて済む。なにより、面倒はことはさっさと終わらせてしまおう。
 そう思ったのになぜか、ゲルトラウトは弟の痩躯を抱き上げていた。

(なにやってんの俺……!)

 抱き上げた体は想像以上に軽い。五歳児はこんなにも軽いものなのだろうかと考えて、自分を見下ろしてくる藍色の双眸を見た。先ほどまでの虚ろな目ではない。生気の光がしっかりと灯っている。
 一体自分はなにをやっているのだろう。弟を抱き上げたままゲルトラウトは庭園を抜け、自分と母に与えられた塔までやってきていた。塔と言っても宮と引けをとらぬ広さで、十分すぎる暮らしを送ることはできる。
 できるだけ人目につかぬよう足早に部屋へ戻ったゲルトラウトは、自分の寝台に弟を下ろすとその場に膝をついて項垂れた。

(なんで連れて帰ってきてんの!? ありえねーじゃん、なんだよこれ……)

「兄上? あの、どうしたのですか?」

 具合でも悪いのかと心配してちょろちょろ動き回るルードヴィッヒの足が、視界の隅に見えた。しまいにはぎゅうと肩口を掴んできて、今にも泣きそうな声で「お医者さまを」などと口走っている。
 もう終わりだ。ゲルトラウトはここにきて初めて絶望という言葉の意味を知った。
 この宮城の誰にも関わるまいと決めていたのに、よりにもよって末の公子に懐かれてしまった。それもこれもすべて他の公子達が原因だ。いつか絶対泣かしてやる、と珍しく意欲を燃やしたゲルトラウトの耳に、扉を叩く音が飛び込んでくる。
 げ、と呻くがもう遅い。ルードヴィッヒを寝台の下に押し込むよりも早く扉は開かれ、薄紫のドレスを身に纏った母が部屋に入ってきてしまった。母の視線が、頭を寝台の下に押し込まれたまま停止しているルードヴィッヒに向けられる。
 そして母は無言のまま、ゲルトラウトに視線を移した。
 ねえ、ゲルトラウト。
 いつもの調子で名を呼ばれる。

「やっぱり拾ってきたのね。貴方にとって、この子を拾うことは最善だった?」

 最善だとは言えなかった。自分でもなぜルードヴィッヒに関わったのか分からなかったし、このままの生活を求めるならこの弟に関わることは避けねばならないはずだった。最善の方法は、あのときルードヴィッヒに『気づかないふりをすること』だったのだ。一年前にはできたことがどうして今できないのか、ゲルトラウト自身不思議だった。
 腕の力を緩めれば、もぞもぞとルードヴィッヒが寝台から顔を出す。母とゲルトラウトを交互に見比べて、しゅんと眉尻を下げた。

「答えなさい、ゲルトラウト」

「…………最善じゃ、なかった」

「そうね。分かっているなら、次はどうすればいいのか考えなさい」

「え……」

「貴方は最善ではない道を選んだ。なら、進んだその先で次にどうすればいいのか、しっかり考えなさい。……いつも言っているでしょう、最善の行動をとりなさいと」

 誤った道に進んでも、その道で選べる最善の行動をとれと母は言う。二番目でも三番目でも駄目なのだ。一番いいと思える行動でなくてはいけない。
 たとえそれが、どんな状況下に置かれていても。
 ゲルトラウトが怒られているのだと思っているルードヴィッヒは、目に涙を一杯溜めて必死に庇うための言葉を探している。ぼそぼそと「違うの、僕が悪くて、」と呟くルードヴィッヒを見下ろして、彼女は静かに近寄った。またしても体を震わせた彼に顔色一つ変えず指弾を食らわせ、驚いて言葉を失った彼の頭をゲルトラウトと同じように掻き回す。
 その行動にはルードヴィッヒだけでなく、彼女の息子であるゲルトラウトもかなり驚愕した。

「男の子でしょう。ぐずぐず泣いている暇があるのなら勉強なさい。悩んでいる暇があるのなら鍛錬なさい。周りをよく見て、最善の行動をとるのです。殴られたら噛み付いておやりなさい」

「……母さん、噛み付くのはどうかと」

「あら、別にいいじゃない。あの馬鹿公子達は、少しくらい痛い目にあったほうがいいのよ」

 くすりと笑って母がルードヴィッヒの頬を両手で挟みこむ。屈んで視線を合わされた末の弟は、恥ずかしそうに目を逸らしていた。そんな弟に母は容赦なく額を突き合わせ、鼻先の触れ合う距離でそっと唇を開く。

「誰にも見つからずにここに来ることができたら、勉強と剣を教えてあげましょう。ゲルトラウトだって遊び相手になってあげるわ。そして貴方をいじめる公子達に一矢報いることができたのなら、貴方の願いを一つ言いなさい」

「願いごと……?」

「ええ。どんなことでも叶えてあげましょう。――どうかしら、やってみる気はある?」

 ゲルトラウトは目の前で母が紡ぐ言葉の意味を、半分も理解していなかった。なにを言っているんだろう。やはり自分がおかしくなってしまったのと同じで、母までおかしくなってしまったのだろうか。きっとそうに違いない。でなければ、あの母がこの公子に勉強を教えるだなんて言い出すはずもない。
 ありえないありえないこれは夢、と己に言い聞かせていたゲルトラウトの耳は、己をあっさり裏切った。ルードヴィッヒの「はいっ!」という元気な返事を拾ったのだ。
 満足そうに口端を吊り上げる母の顔は、確実になにか企んでいるときの顔である。ぞっとするゲルトラウトの心情など露とも知らず、末の弟はやややつれた顔を喜色で塗りたくり、心底嬉しそうに「兄上」と呼ぶ。ああうん、と力なく返事をするゲルトラウトを嘲笑するかのように母が視線を向けて、そのまま弟を連れて奥の部屋に連れて行った。
 帰ってきたときルードヴィッヒの肩には真新しい包帯が綺麗に巻かれており、消毒液のにおいがつんと鼻をつく。どうやら手当てしてもらったらしい。
 ルードヴィッヒを帰したあと、二人きりになった部屋でゲルトラウトは深いため息をついた。

「なに考えてんの、母さん」

「当ててごらんなさい。……そういえば、あの子の母親は体が弱かったのよね。今度お薬を贈ってあげましょう。他の妾妃に捨てられては敵わないから、貴方が届けなさいね」

「メンドーじゃん。そんなことわざわざしなくても――」

「ゲルトラウト。貴方はただ、最善の策をとればいいの。周りをよく見なさい。惑わされてはだめ。焦ってはだめ。いいこと? ちゃんと、届けるのよ」



 それから数ヵ月後。
 ゲルトラウトが届けた薬の効果も虚しく、ルードヴィッヒの母は静かに息を引き取った。
 伝えられた死因は病死。誰もそれを疑う者はいなかった。
 だが第七妾妃が亡くなってからしばらく、宮廷と後宮ではまことしやかに流れた噂がある。


 ――第七妾妃は何者かによって毒殺されたのだ、と。



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