紅の空に藍は染まる [ 1/9 ]
紅の空に藍は染まる
hi 王位に興味はない。
この国は確かに腐ってる。どこもかしこも腐敗が進み、淀んだ空気が立ち込めている。
だけど。
それでも、どうにかしようなどとは微塵も思っていない。
母の声が朗々と響く。母は七人いる妾妃達の中でも、別段ずば抜けて美人というわけでも、身分が高いというわけでもなかった。
見目も身分も、可もなく不可もなくの中間。王から受ける寵愛も、正后が目くじらを立てるほどのものではない。なにかを贈られるときも、大抵は他の妾妃のついでだった。
五番目の妾妃である母は、そのことにあまり頓着していなかった。
それどころか、彼女は庭を眺めながら息子である自分に、「あの人も暇なのね」などと憫笑を浮かべながら、夫のことを語ったこともあるほどだ。
「ねえ、ゲルトラウト。周りをよく見なさい。そして最善の行動をとりなさい。焦ってはだめ。呑まれてはだめ。いいこと? 決して己を見失ってはいけないわ。ここはね、そういうところなのよ」
母の手が、ゲルトラウトの髪をくしゃりと撫でた。彼は六番目に生まれた王の息子だ。特に秀でたところはなく、これまた正后や権威を誇る一番目と二番目の妾妃に目をつけられることはない。
一応『第二公子派』に属しているが、二番目の兄に抱く感情は特にない。彼に王になってほしいわけでもなければ、自分が王になる気もない。
母はいつも口癖のように言う。
周りをよく見なさい。そして最善の行動をとりなさい。
幼い頃からずっと言われてきたことだったが、ゲルトラウトには未だになにが『最善の行動』なのか分からなかった。
彼が理解できていないのだと分かっていても、母は繰り返し告げた。それはまるで呪文のようで、すとんと胸の中に落ちてくる。
だから彼は、他の兄弟達がぴりぴりとしながら策略を巡らせるのを、一歩引いたところから見ることができた。
ベスティア王国の王位継承権を持つ公子は、全員で十一人。末の公子は五つになったばかりだが、継承権を持っていることに代わりはない。
父王であるフィリップ・バウアーは残虐王として有名だ。意に沿わぬものは冷徹に切り捨てる。眉一つ動かさず処刑を命じ、必要とあれば自らの手さえ血に染める。
だがゲルトラウトは、そんな父を良いとも悪いとも思っていない。周りがどれだけ父を『史上最悪の王』と評しようが、父がいなければこの国はなかったのだ。
帝国戦争時に大国・アスラナから取られるはずだった領地を、何十年もあとになって締結を破棄し、かなり無茶苦茶な方法ではあったが賠償金でさえ踏み倒したのは、他でもないフィリップだ。
ゲルトラウトだけは、そのことを忘れてはいない。
「ねえ、ゲルトラウト」
「なに」
「アスラナ王国の新しい王様は、子供なのに優れた政治手腕だそうね」
「ああ……らしーな」
窓辺に飾ってある花を弄りながら、母が敵国ともいえる国の王について語り始めた。
貴方と同い年ね。一度見てみたいわ。ねえ、ゲルトラウト。
剥きかけの林檎を片手に母を見つめていたゲルトラウトは、少女のような笑みに背筋が粟立つのを感じた。無垢な、とは到底言えない横顔が、うっとりと庭を見つめている。
「ふふ、この国はどうなるのかしらね」
「……母さんは、どうなってほしーんだ?」
「当ててごらんなさい。それができるようになったら、玉座なんてすぐ目の前よ」
未だ母の視線はゲルトラウトには向けられない。それを寂しいと思う心はとっくになくなっていたので、彼は中断していた林檎の皮を再び剥き始めた。
ぷつり。細長い皮が途中で切れる。
「でもね、貴方は王になってはいけないわ。王になるのは貴方じゃないの。上の三公子のうち、誰かがなればいいわ」
そう言うわりに、彼女はいつも『王としての』ゲルトラウトを試そうとする。王に相応しいか否かを見極めるかのようなことを言っては、こうして王になるなと正反対のことを言ってのけた。
ゲルトラウトは母がなにに興味を持ってここにいるのか、昔から疑問だった。父王に恋焦がれた様子もなければ、身分の高さから考えて政略結婚でもなさそうだ。
幾度か直接尋ねてみたこともあったが、笑ってはぐらかされてしまうことがほとんどだった。たまに答えてくれたかと思ったら、先ほどのように「自分で考えなさい」と返される。
「……安心しなよ。俺が継承者争いに巻き込まれるなんて、ありえねーし。テキトーにのんびり暮らせりゃ、それでいーんじゃないの?」
「ええ、そうね」
感情の読めない笑みが口元に刻まれる。さらに乗せた林檎を差し出せば、母は一切れ手で摘んで口に運んだ。
ねえ、ゲルトラウト。
甘くもない母の声が名を呼ぶ。
「あれが第十一公子様よ。貴方は見たことがあるかしら」
とん、と窓を叩くように指差した先には、青白い顔をした小さな子供が服も髪もぼろぼろにしてうずくまっていた。上手く垣根に隠れたつもりなのだろうが、上から見れば丸分かりだ。
七番目の妾妃から生まれた末の公子。その母は庶民の出で体も弱く、後宮内でもそう長くはもたないと噂されている。
「庭の噴水に落っこちて、ぴーぴー泣いてるところなら一度」
「そう。助けてあげた?」
「………………いや」
たっぷりと間を空けて、ゲルトラウトは正直に答えた。嘘をついてもこの母には簡単に見破られてしまうだろう。
すると彼女はようやく視線を彼に向け、その答えに対して褒めるでも怒るでもなく、ただ単調に「そう」とだけ言った。
「ゲルトラウト。もしも貴方がくだらない継承者争いに巻き込まれそうになったら、あの子につきなさい。上の三公子ではなく、あの子を王に仕立て上げなさいね」
あくまでも自分に王になれとは言わない母は、もう一切れ林檎をつまみながら末の公子を見下ろす。
小さな子供は溢れる涙を拭うそぶりを見せ、やがてゆっくりと立ち上がった。
「あんな子供を、王に?」
「ええ。もしもあの子が、生き残ったのならの話だけれど」
仮にも第二公子派を名乗る自分達がする会話ではないことくらい、ゲルトラウトにも分かっていた。他者に聞かれれば、今はない嫌がらせの数々が仕掛けられるだろう。
十二年間、ゲルトラウトも母も、兇手(きょうしゅ)や毒といった暗殺の被害にあったことは一度もない。それは彼らが平凡で特筆すべき点のない、『無能』な母子だからである。
重臣達からさえ時折存在を忘れるほどの凡庸な母子。誰もが彼らを危険分子などとは考えない。
けれど、王だけはそうは思っていなかった。
『うぬらほど、怖ろしい母子はおるまい』
父王は不敵に哂ってそう言った。ゲルトラウトと母以外に、誰もいないその場所で、父王は酒を呷った。
「貴方は王になりたい?」
「まさか。そんなかったりーもん、願い下げだよ」
言葉に偽りはない。玉座にもこの国にも、興味は一切ない。
「……母さんこそ、正后になりたいのか?」
「あらゲルトラウト、わたしをそんな風に思っているの?」
からかうように母が笑い、三切れ目の林檎に手を伸ばす。
青い双眸が、かちりとゲルトラウトの瞳に合わされた。
今日だけ特別よ。教えてあげるわ、ゲルトラウト。わたしが欲しいのはね――。
少女のように母は告げる。
「わたしが欲しいのはね、王位よ」
冷たい微笑に、呼吸さえもが止まった。冗談よ、と言われてもゲルトラウトの心臓はばくばくと高鳴っていたし、冷や汗は額を伝う。
そんな息子の姿を見て彼女はくすくす笑い、隠し切れない怜悧な瞳を楽しそうに細めてみせる。
存在さえ忘れられ、一度も暗殺の被害を受けたことのない凡庸な五番目の妾妃。
それは王さえ唸らせる、鬼才の持ち主でもあった。
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