「……そう。解った」
「……
「
ブチャラティが仕事でアキラとの約束を反故にした事は何もこれが初めてではない。
パッショーネの幹部として働いている彼の休日はあってもないようなものであり、アキラもそれは理解してくれている。
だがしかし、こう何度も約束を不意にしておきながらもアキラはブチャラティに対して不満ひとつ言わない。
形のよい眉を僅かに動かすだけで、いつものクールな表情からは僅かな諦めしか読み取れない。
花束やドルチェで機嫌を取ろうとしても、肝心のアキラがそれを隠している。ブチャラティとしてもそんな彼女に気付きながらも、仕事に行かない訳には行かずフォローも後手後手になり歯痒かった。
朝起きると既にブチャラティの姿はなかった。
アキラは暫く独りでベッドの中でぼんやりと暇になってしまった今日一日をどう過ごそうか考える。
家にいるのも好きだが、今の気分だと更に鬱ぎそうだと外出を決めてベッドから降りた。
ブチャラティとのデートに着ていく予定だったセットアップに着替えて、メイクもデートの時のように丁寧にする。
お気に入りのネックレスを着けているところで電話が鳴った。
「Pront?」
『もしもし?僕だ。岸辺露伴だ。さっきイタリアに着いた所で、今タクシーで財団に向かっているところだ』
突然の同級生の声にアキラは驚く。
「え、露伴くん?」
『あと5分で着くらしいから早く出てこいよ』
「ま、待って。私、今日休みでそこにはいないの」
『なんだ。それならもっと早く言えよ。案内してくれ。じゃあ財団前で待ってる』
こちらの返事を聞く前に電話はブツリと切れてしまった。岸辺露伴とアキラは高校時代の同級生だ。学生時代の頃から彼はアキラにふらりと声を掛けられては振り回してきた。
アキラが慌てて待ち合わせ場所である財団のイタリア支部の前まで来ると、露伴は座ってスケッチをしていた。彼の手が止まってから声を掛ける。
「露伴くん」
「やぁ、アキラ。長編漫画を書くのにもらった日にちが余ったんでね、取材も兼ねてイタリアに遊びに来たんだ。アキラもいるし丁度良いだろう」
「早く提出して次の仕事貰ったら?」
「嫌だね。そんなことしたら軽く見られるだろ」
「相変わらずね」
「……なァ、君。僕と会う為にそんなにめかしこんだのか?」
露伴が上から下までアキラを見て首を傾げた。ブチャラティとのデートに着ていくつもりだった格好をしているので、同級生と久々に会うのにしては気合いが入っている。
「これは偶々。出掛けようと思ってたところだったから」
「なんだ。タイミング良かったんじゃあないか。早速、本場のナポリピッツァを食べに行こう」
「それならいいお店を知ってる」
アキラは露伴と共にピッツェリアに向かって歩き出す。
オレンジの壁に架かるPizzaの文字とプルチネッラの看板。そこはアキラがブチャラティに初めて連れられて来たピッツェリアだった。ここのピッツァヨーロの作るマルゲリータは絶品である。
「この大きさのピザを本当に一人一枚ずつ食べるのか?正気か?」
「焼き立てで美味しいし、残すと悪い気がする」
「確かに言うとおり、この味ならぺろりといけそうだな。美味いッ!」
夢中でピザを食べ終えてペリエを飲みながら次は何処へ行くか話していると、後ろから聞き慣れた声がしてアキラは振り返る。
ブチャラティがカウンターに立っていた。
「……ブチャラティ」
「アキラ。ああ……そちらのシニョーレはどなたかな?」
ブチャラティがアキラに気付いてテーブルへやって来る。アキラの隣に座る露伴をちらりと見たブチャラティは片眉を跳ね上げて目を細めた。
アキラが立ち上がって二人を紹介する。
「あ、……日本の友人の岸辺露伴さん。──露伴くん。こちら、ブローノ・ブチャラティさん」
「Piacere mio.ロアン」
「露伴だ。アール・オー・エイチ・エー・エヌ。ROHAN」
「ロ、アン???」
「わざとか?」
「イタリア語には、は行の発音がないから彼らには難しいんだよ」
「ふぅん。それなら岸辺でいい」
「
「Ah,ok.キシベ。……アキラ、今日は9時までには帰る」
「解った」
ブチャラティはアキラの頬にキスをひとつして店を出ていった。ブチャラティの姿が見えなくなってから露伴がぽつりと呟く。
「アキラに通訳してもらわないといけないのも不便だな」
「ヘブンズドアーで書き込んだりしないでね」
「オイオイオイオイ!いくら僕でも本物のギャングを敵に回したりしないぜ」
「気付いてたの?」
「彼の胸元にバッジが付いてるだろ。それはここら辺を治めてるパッショーネのものだ。それくらい事前に調べ済みだよ。まぁ、アキラの恋人がギャングだったとは僕も驚いたけどな」
露伴にブチャラティを恋人だと紹介していないアキラは驚いて飲み込みかけたペリエで噎せてしまう。そんなアキラの様子に露伴が「珍しいものを見られて良かったよ」と楽しそうに笑った。
アキラが露伴と別れて帰宅すると、既に部屋の灯りはついていた。洗面台からリビングへ入るとブチャラティがソファーに座っておかえり、と言う。
「早かったのね」
「ボスが気を利かせてくれた。元々休みだったしな」
「そう。……着替えてくる」
互いの間に沈殿していた気まずさが舞い上がり漂ってくる。それから逃げるようにアキラは寝室へと向かった。
鏡の前に座ってアクセサリーを外していく。リングにピアスと順にケースに戻していって、ネックレスの留め金に手を伸ばした所でいつの間にかすぐ後ろに来ていたブチャラティの指先とぶつかった。
「俺がやろう」
「……Grazie.」
華奢で小さな留め金は誰かにつけて貰うことを想定している。外されるのもまた自分ではない誰かにして貰うのだと聞いたことがある。
鏡越しにブチャラティを見れば、伏せた睫毛がその白い頬に影を落としていた。
パチリ、と留め金が外れてネックレスが首から抜ける。アキラはそれを受け取ろうと後ろを振り返った所で、ブチャラティにキスされた。後ろ手に着いた手がドレッサーの上に置かれた化粧品の瓶をガタリと倒す。
両頬を包むように上に向けられて舌先で口唇を割られ、歯列をなぞられた。
「ん、ブチャラティ……、」
激しさを増すキスの合間にアキラが彼を呼んだが、その声さえ飲み込まれてしまう。
座った状態で上からキスされる体勢は流れ落ちてくる唾液で苦しい。アキラは耐えきれずブチャラティの胸を叩いた。やっと解放されれば息苦しさから目尻に涙が溜まっていて、ブチャラティがそれを掬った。
「実は……昼間の、ちょっと妬いたぜ。その服、俺とのデートに着ていくつもりだったんだろ?そんな格好で他の男と楽しく話されたんじゃあ堪らない」
ブチャラティの青い瞳の奥にチリチリと悋気の炎が燃えている。不知火のようなそれに見つめられるといつもアキラは動けなくなった。
深い海に浮かぶ美しい焔はブチャラティが男の顔になる時のみ現れるのだ。
「もっと我が儘言ってくれ。もっと俺に甘えろ。不満だってなんだって言ってくれ。愚痴るなら他の男にじゃあなく俺にしろ」
恋人の不満も受け止められないような男にはなりたくない、とブチャラティは言う。
それでもまだ逡巡して黙ったままのアキラをブチャラティがじっと待つ。
「……次は絶対約束守って。デート、したい」
「Certo!アキラの好きなところへ行こう」
小さな声で呟くように答えたアキラの頬が真っ赤に染まっていて、ブチャラティは愛しくて自然と笑みが浮かぶ。
約束の代わりに笑ってキスをした。