■ 06.学校へ
思ったより遅くなってしまった。
友達とお茶するだけだからすぐに帰る、というのはやっぱり1〜せいぜい2時間くらいだろうか。
私が部屋に戻ったのは、家を出てから4時間も経っていた。そんなに長々としゃべっていたようには思わなかった。でも、女の子どうしのおしゃべりというものは、そういうものなのだ。喋るつもりがなくても、ついいらない事まで喋ってしまい気づけば何時間も経っている。
「遅かったね、七瀬」
「そうかな?でも、私が遅く帰ったって、リドルは何も困らないでしょ」
この前見つけたおしゃれな雑貨屋さんで、一目惚れしたネックレスをはずすのに少し手こずりながら鏡を覗き込むと、私の背後にふわふわ宙に浮かぶ例の小説が映った。
「ちょ、ちょっと何それ!」
「何のこと?」
「その妙な本のことよ!」
「何って、君が買ってきたものじゃないか。もう忘れてしまったのかい?」
忘れた?そんなことあるわけない、しっかり覚えている。確かに私はリドルへのプレゼントとして本を買ってきたことはあるけれど、空飛ぶミステリー小説を購入した記憶はまったく無い。それこそミステリーだ。
「私はごく普通の本屋で、ごく普通の本を買ったのよ、ちゃんと万有引力に従ってくれる、普通の本を」
「君の口から万有引力なんて出てくるなんてね」
「今は茶化さないでったら。何をどうやってそんなふうにしたのかは知らないし知りたくもないけど、とにかく普通の本に戻してよ!」
この家の中に浮かぶものがリドル以上増えるなんて冗談じゃない。心の底から勘弁してほしい。
「ちょっと、落ち着きなよ。これは君からもらった時点で僕のものだ。僕がどうしようと僕の勝手だろう」
それに、本を浮かべるというのは君のアイデアだ、といささか不服そうに眉をひそめた。
「言葉の綾でそう言っただけで、まさか本当に……」
「魔法使いは何だってできるのさ、今回は君の負けだね」
なんとも得意げに私を見下す様は、リドルがどんなにクールなイケメンだとしても腹が立つ。
「もう、好きにすれば」
そう言い捨ててから、しまった、と思ったがもう遅い。これじゃリドルの魔法を認めたようなものだ。
「そうさせてもらうよ」
満足そうに微笑んだのを私は見逃さなかったけれど、いっそ見なかったことにした。何か言い返せば墓穴を掘ってしまいそうな気がしたからだ。
と、まあ、こんなふうに、私が外出した隙に何をしでかすかわからないのだ。
私が初めての学校から帰ってきたら、家のもの何もかもがリドル仕様になっている可能性もなくはない。
全自動で晩ご飯を作ってくれるフライパンはちょっとありがたい気もするが、それでも気味が悪いことには変わりない。それに、慣れないイギリスで暮らすのはストレスも溜まるだろうし、余計なことはなるべく抱えたくないというのが本音だ。
本当に、リドル1人で十分なのだ。
「七瀬ー!」
ドアの向こうからテレーゼの呼ぶ声がした。さすがの彼女も、始業式とあらば遅刻は避けたいようだ。理由が寝坊なんていうのは特に。
「はーい、今行く!……それじゃ、ちゃんと留守番しててね、絶対に!」
リドルは、はいはい、と半ば呆れたようにひらひらと手を振って私を見送った。
「おはよう、テレーゼ」
「うん、おはよう」
学校までは、大通りから出ているスクールバスに乗って少し行ったところにある。
「おはよう、テレーゼ、七瀬」
バス停で、テレーゼが私の制服のリボンを直していると、後ろから聞き覚えのある男の子の声がした。
「あら、おはようエリック。今日も男前ね」
テレーゼは目線だけエリックに向けて挨拶をした。この子はいつもこんなふうにエリックに挨拶しているのだろうか?
「あれ、そういえばどうして七瀬のこと知ってるの?」
「ちょっとね」
そう言ってエリックは私の方を見て茶目っ気たっぷりにウィンクをした。にっと上がった口角も素敵で、思わずくらっとする。どこかの居候に劣らないくらいかっこいい。むしろ、性格が良さそうな分エリックの方がずっといい男だ。
始業式は意外と簡素に済まされ、ホームクラスと担任の先生が発表された。来週から始まる授業の時間割ももらった。
留学生は語学クラスにひとまとめにされたので、もちろんテレーゼとエリックとは違うクラスだ。それでも、いくつかの選択授業は、正規のダンヒル生徒と合同で受けられるようなので、テレーゼに相談しておすすめの授業を教えてもらおうと思った。
「お友達とショッピングに出かけるんじゃなかったの?ずいぶん早く帰ってきたんだね」
鍵を開けて家に入ると、憎たらしいリドルさんがお出迎え。
「家の主に向かってその言い方は何よ、おかえりぐらい言ってくれたって良いじゃない」
「まあ、そうだね、おかえり」
その少しのやわらかさが含まれた声色での返答は、まるで予想外だった。
結局、テレーゼは金欠との理由でそのまま真っ直ぐ家に帰ってきた。私はてっきりどこかでお昼ごはんでも、と思っていたからちょっと物足りなく感じていた。そんなところに、普段見せないようなリドルの微笑み。
ふっと笑ったその顔になんとも言えない優しさが見えたような気がした。
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