次の朝、いつもより余裕を持ってマネキンのいるごみ溜めに行き着いた僕は酷い落胆を受けた。
いつものように開いていた門を通り抜けて、いつものようにマネキンの前に行く道を走ったが、目的のマネキンはそこにいなかった。
僕は目を疑い、一瞬息も忘れた。跡形もないそこをじっと見つめ、言い知れぬ喪失感に絶望していた。しばらくして僕は辺りを見回り、どこかへ移動させられていないかとマネキンを探した。居なかった。しかもそれと同時に僕が買った服も無くなっていた事に気付いた。昨日隠した場所に店の金色のロゴが入った白い袋は、そこに無造作に置いてあったが、中身だけを抜き取られていた。
僕の喪失感でがっぽり空いてしまった空間に、みるみる悲しさが満たされていった。
友人である彼女へのプレゼントが、誰かに盗られてしまった。そして、彼女もどこかへ行ってしまった。大切だったのに。きっと似合ったであろうあの服を、着ている姿を見る事も出来ずに彼女は居なくなってしまった。
傷心の僕は、マネキンがいた場所をじっと見ていて、一つだけ不思議な発見をした。置いて行った缶コーヒーのうち、ミルクのだけが無くなっていたのだ。
そこで僕は悲しさよりも疑問が上回った。服が無くなった事にしても、袋ごと持って行けばいいのに中身だけを持って行き、コーヒーもごみ溜め置いてあるのを持ち出すくらい飢えているなら、全て持って行けばいいのに。
もしかして。
僕は再びあの想像が頭を過った。過ったというより、頭で響き渡った。
もし、彼女が生きていたら?
僕が用意した服を着て、コーヒーを飲んで…そして、居なくなった。
僕は再び落ち込んだ。僕のプレゼントを受け取った彼女はそのままどこかへ行ってしまった。その着替えた姿を見せてくれる事もなく。
僕は結局落ち込んだまま出勤をして、昨日と同じようにマネキンの事ばかりを考えて過ごした。しかし昨日の様に期待に満ちた考えではなく、居なくなった現実についてばかりを思った。上の空の僕は上司に一度怒鳴られた。しかも帰り道、僕は更にショックを受ける事になった。
もしかしたら戻って来ているかもしれないという一抹の期待を胸に、僕は工場に辿り着いたけど、ごみ溜めに近付く事は出来なかった。門が閉まっていたのだ。
門には看板がかかっていて、そこには工事の予定などが書かれていた。工場は新しく生まれ変わるらしい。中を覗くと既にごみ溜めは綺麗さっぱり無くなっていた。大型の機材が持ち込まれていて、無人の機械だけがそこにいた。
僕は家に帰り、帰りがけに買ったコンビニ弁当と缶ビールを胃に放り込んで、シャワーを浴びて、さっさと寝てしまった。
独り暮らしの僕は誰に話すでもない口が暇をしてしまい、暇を持て余した空っぽの頭が勝手にマネキンを出した。それを振り払うように必死で別の事を考えようとしたが、僕には何もなかった。もうあとは寝るしかなかったのだ。
次の日は休日だというのに、僕は夜の9時にはベッドに入り、すぐに寝た。寝付くまでにも一切マネキンの事を考えなかったと言えば、嘘になる。

次の朝、僕は早く目が覚めてしまっていたが、まだ夢を見ているんだろうと思った。
まだ陽が昇りきらない間に目が覚めた僕は、のろのろと起き上がり、歯磨きをしていた。そんな朝早くに、僕の家に誰かが訪れ、チャイムを鳴らしたのだ。
僕は怪訝に思いながら口をゆすぎ、玄関に向かった。そしてその客人を覗き穴で確認した瞬間、自分はまだ寝ているのではと思ったのだ。しかしドアから身を引いて、手を叩いても痛みを感じる。ほとんど確実に現実だ。
僕は慌ててドアを開け、そこにいたあのマネキンを直接視界に入れた。
僕はまず、マネキンを見るより先に通路をキョロキョロと見た。誰かが運んだのではと思ったからだ。しかしいない。このアパートで一つしかない階段の出口が見える、通路の壁を乗り出して見たが、こんな朝早くに誰一人としていなかった。
改めて、僕はマネキンを見た。彼女は、僕のプレゼントを着ていた。ファーの付いたニット地のコートはダークブラウン。柔らかいスカートはピンクで、縁をファーで囲ったブーティは黒。そして、その手は僕の用意したコーヒーの中で、唯一無くなっていたミルクコーヒーの空き缶を握っていた。
僕は、自分でも意識しない内に満面の笑みを浮かべた。

「気に入ってくれた?」

マネキンは返事をしなかった。
僕は少し悩んだが、お隣やご近所が起き出してしまわない内にマネキンを抱えて家に招き入れた。そんな必要があるのかはわからないが、靴は脱がせた。
僕はリビングのソファーの横に彼女を立たせた。相変わらず、とても綺麗だった。そして僕のプレゼントはとても似合っていた。

「君は、本当は動けるんじゃないの?その服は、自分で着たんじゃないの?」

僕は彼女に喋りかけている事が他の人に聞かれる心配がないと、遠慮なく尋ねた。しかし、マネキンは答えなかった。
僕はとりあえず寝室に行って、寝間着から普段着に着替えた。大した服は持っていないが、その中でも一番ましに思われる物を選んで着た。彼女がリビングにいると思うと、何故か緊張してしまった。シャツのボタンをかけ間違うというベタなミスをしてしまい、一人で恥じ入った。
そして僕がリビングに戻ると、彼女がドアの前に立っていた時以上の驚きが待っていた。ソファーの横に立たせていた彼女が、ソファーに座っていたのだ。しかも僕の方を見ていた。
僕はあまりにびっくりして、わっ!と声に出してしまった。
彼女の手足は胴体から外す事ができるし、角度も変えられるけど、肘や膝の関節はない。なのにそれもなめらかに曲げられていて、両手は膝の上に綺麗に置かれていた。
僕はもう確信した。

「君は動けるんだね?」

僕は震える程の感動で、心拍数があがり笑顔を隠す事もしなかった。しかし、彼女は僕が部屋から出て来た時の状態から動かなかった。僕は訝った。

「僕の前で動いても、驚かないよ?」

彼女は動かなかった。
僕は試しに、さっきと同じようにリビングに彼女を残して寝室に入ってしばらく待ってからまた出た。すると、予想通り彼女はまた移動していて、テーブルの前に座ってテレビの方を見ていた。手はリモコンに伸びていて、テレビを付けようとしたらしい。
まるでだるまさんが転んだだった。彼女は僕が見ていない時だけ動く事が出来る。僕は彼女に目の前で動いて欲しかったけど、彼女が動ける事は確かだったのだからそれだけで嬉しかった。

「テレビ、見る?」

彼女が答えないとはわかっていたけど、僕は尋ねる形で言った。そしてテレビを点けて、朝のワイドショーを二人で見た。

「僕がいない時、自由に見ていいからね。君の家だと思っていいから」

緊張しながら、ほとんど呟くように、僕は言った。



ソースの美味しそうな香りで、僕は目を覚ました。朝にテレビを点けてから、どうやら昼寝をしてしまったらしい。ソファーにもたれかけていた上体を起こすと、彼女は隣に座っていて、テーブルにはオムライスが置いてあった。薄焼き卵の上で艶々のデミグラスソースが光っていて、美味しそうだった。
その皿の横に置いてある紙を見て、僕は飛び付いた。

“お洋服をありがとう”

それは、僕にとって彼女の最初の言葉だった。彼女の作ったお昼ご飯はとても美味しかった。

僕はそれ以来彼女が残すメモを一つも捨てなかった。全てまとめてクリップで留めていて、どんどんと厚い物になって行くのが、僕は嬉しかった。
彼女は仕事から帰る僕に、ご飯を作って待ってくれていたし、小さい湯船に風呂もたまっていた。僕の前ではずっと人形だったけど、僕が寝ていたり外出している間は普通の生活をしていた。お金を置いておくと、買い物もしてくれた。マネキンが動いて買い物をしていたら、みんな驚いてニュースになる筈なのに、今のところご近所さんにそんな騒ぎは起きていなかった。

「ただいま」

僕は仕事から帰ると、リビングにいる彼女に声をかけた。彼女は自分で買って来たらしい、新しい服を着ていて、また可愛くなっていた。
僕が寝室で着替えている間に、リビングにご飯の準備が整っていて、湯気を上げて待っていた。彼女は寝室の方を向いて、ソファーの違う場所に座っていた。

“おかえりなさい。今日は映画がある日だよ、一緒に見ようね。”

ご飯の横に置かれたメモに、僕は微笑んだ。後ろのソファーに座る彼女を振り替えると、少しだけポーズが変わっていて、彼女は僕の方を見て座っていた。
僕は何も言わずに、微笑んで視線を戻した。彼女の言葉は、みな僕の男心をくすぐるような内容だった。彼女は、どんなに僕が熱く視線を投げ掛けても、その頬を微笑ます事もないのに。いくら動いていても、その肌に体温は無かった。
そんな距離を感じながら、僕は完全に恋に落ちていた。
好きな人が同じ部屋にいるのに、そこに果てしない距離があり、僕はもどかしかった。彼女はこの家を気に入ってくれている、僕にだけ言葉をくれる。だけど、彼女はマネキンだった。いくら想っても、その距離は埋まらなかった。
back|next

カレーの味



written by ois







人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -