今まで千尋の行動は千秋には気付かれない事に慣れていたので、実況されて気付かれるという初めての事に千尋は赤面した。
千秋はその様を想像してか、笑っていた。

「大助さん、お友達の前で悪いのだけど、あの話は考えてくれました?」

千尋にはさっぱり何の話なのかわからなかったが、千秋は笑顔を消して真剣な顔つきになった。

「考えてないよ君代さん、俺の意見は変わらない。字が読めないでオーナーなんて勤まらないよ、要助が適任だ」
「要助さんより、ずっと先に後を継ぐと決めていた大助さんの方が私達も信頼できるわ」
「信頼できたのは、目が見えていた頃まで。いいんだ君代さん、父さんは俺にちゃんと適した役職も用意してくれているから」

千尋にも、会話の内容が少しは理解出来た。このレストランはどこかの系列で、千秋の父親が今のオーナーなのだろう。こんな広いレストランを経営している父親がいるなんて、千秋はお坊っちゃまだったんだなと、千尋は思った。
千尋とは身分が違う。
千秋は笑顔に戻り、君代も諦めたような笑顔で息を吐いた。

「わかりました、でも大助さん、早く結婚した方がいいわよ。美人なら周りにいっぱいいるでしょう?」

君代の発言に、千尋は全身が強張った。
千秋の周りには美人がいっぱい?その中の人と、いつかは結婚するのだろうか。

「美人なんて、もう俺には関係ないよ。見えないんだから。それに結婚相手なんか見付からないよ、こんな俺には」
「目が見えないだけよ、大助さんはいつまでもいい男だから、言い寄る人なんかいくらでもいるわ」

千秋は笑い、君代さんは千秋の肩を軽く叩いた。

「君代さん、時間があるならここにいて、ちひろを実況してくれない?」
「…本人はその発言に、大いに驚いてるわよ。とっても面白くて素敵なお誘いだけど、あまり時間があるとは言えないわ、ごめんなさい」
「そうか、邪魔してすみません。ただ、最後に聞きたい事があるんだけど」
「何ですか?」

千秋は千尋を指差した。

「ちひろはどんな顔をしている?」
「あら、人の容姿は気にしないと言ったばかりなのに」
「気になって」

千秋と君代は笑っているが、千尋はその質問に怯えた。見えない事で隣にいても平気だったのに。
君代は千尋を見た。

「そうですね、とても整った顔立ちをしているわ、目立っているでしょう?」

君代は千秋に説明しながら、千尋に質問をした。質問自体にも、質問された事にも慌ててしまい、千尋は挙動不審な動きをしてしまった。
そこで千秋が口を開いた。

「君代さん、ちひろは喋れないよ」
「えっ…」

君代は驚いて口を押さえた。

「ごめんなさい、知らなくて…それじゃあ二人はどうやって会話しているの?」
「俺は喋って、ちひろは俺の手に言葉を書くんだ。面白いと思わない?」

千秋はまるで見えているかのように、瞬時に千尋の手を探り当て、握ったそれをかざして説明した。君代の前なのに千尋は手を握られて緊張し、全身が熱くなるのがわかった。耳までじんじんしている。千尋は慌て、君代を見上げた。
君代は驚いた顔で、真っ赤になった千尋の顔を見ていた。千尋は千秋への気持ちが君代にバレた事を確信した。
千尋は直ぐに千秋の手から自分の手を抜き取った。この状況を目で知る事の出来る君代がいるのでは、もうここにはいられなかった。
まだ一口も食べていないハヤシライスをそのままに、千尋は立ち上がった。

「ちひろ?」

千秋は不安そうな顔で、千尋を呼んだが、千尋はそのままレストランの出口に向かった。
しかし店を出ようとした時に、後ろから腕を掴まれて、立ち止まる事になってしまった。千尋が振り返ると、腕を掴んでいるのは君代だった。

「言ったりしないわ」

君代は千尋に微笑んだ。

「大助さんが失明してから誰かと一緒にいるのは初めてなのよ、彼を裏切らないであげて。立ち去る事が正しい選択ではないと思うの」

千尋はしばらく悩んで、鞄の中からいつも持ち歩いている小さめのノートとペンを取り出した。

“千秋さんは知らない”
「でも少なくとも友達だとは思っているハズよ」
“どうすれば良いですか?”
「ハヤシライスを食べて、一緒に帰ってあげて」

この店の一番人気なのよ、と君代は微笑んだ。君代はそのまま店の奥に消え、千尋は一人残された。
千尋は決心して席に戻り、自分で椅子を引いて座った。椅子を引きずる音で千尋が戻った事に気付いた千秋は、不安気な顔を一気に笑顔に戻した。

「ちひろ?」

千秋は手のひらを出した。

“ごめんなさい”
「いいよ」

千秋は千尋が立ち去った理由は聞かなかった。千尋が食べたハヤシライスは、とても美味しかった。
その後、千尋は千秋の家の話を聞きながら、午後を過ごした。
本当に大きな会社の御曹司だったので、千尋は少し身分の差に気が引けた。
しかし今は何もしておらず、会社に顔を出したり、会社が経営している店を回って、レストランなら味を、ショップなら雰囲気を楽しみに行って過ごしているらしい。社長になるつもりだった時、おろそかにしていた事を今やっていると千秋は笑顔で言った。
そして今度は千尋の仕事について聞かれた。

「どこの本屋?」

千秋が出した手のひらに、千尋は本屋の場所と名前を書いた。

“えきのまえにあるクマムラしょてん”

書き終えて、千秋が眉を寄せたので、読み取れなかったのかな、と思い、千尋はもう一度書いた。
しかし千秋はじっとしたままだった。二回目の千尋の発言は聞いていなかったかもしれない。
千尋は千秋が返事をしないので、指の腹で千秋の手のひらを突いた。

「ちひろ、きみは…」

千秋は何か言いかけたが、その先を続けなかった。

「いや、何でもない」

千秋の様子がおかしかったのはその時だけで、それからはいつもの明るく朗らかな男に戻った。随分長い時間飲み物だけで過ごし、どんどん時間は更けていった。
帰る時になり、千秋は思い立ったようにレンタルビデオショップに行こうと言った。

「弟が面白かったと言っていた映画があるんだ、俺は視力が無くなる前は映画が好きだったんだけど、最近ずっと見てなかったんだ」
“それをみるんですか?”
「今はちひろの目があるから」

見た物を説明してもらおうというのが、千秋の考えだった。千尋は喋れる人の方がずっと効率がいいのではと思ったが、千秋の楽しそうな笑顔を見ると、それを伝える気にはなれなかった。
お隣の特権かもしれない。千秋の社会的地位を考えると、映画の実況をしてもらうような下らない遊びをする人がいないのかもしれない。千尋にとって、二人で映画を見ようというのは少し特別で、甘くなるような誘いだったけど、千秋には突然思い付いた遊びに違いなかった。
千尋は気持ちを奥に秘め、こうして遊ぶ事に罪悪感を感じていた。千尋は千秋に嘘を吐いているような物なのだ。
借りたDVDを持って、千尋は千秋の部屋にそのまま帰った。もう夜なのに、千秋は真っ暗な玄関で迷いもなく靴を脱いで上がった。昨日来た時はまだ夕日が沈みきる前だったのでそのまま上がれたが、今回はそうもいかなかった。玄関を開けたままの状態で、アパートの廊下の光を頼りに靴を脱ぎ、先に行ってしまった千秋を手探りで追いかけた。入りきると慣れていない目では辺りは真っ暗で、出ない声では千秋を呼び止められなかった。

「ちひろ?どこにいるんだ?」

千秋の声がして、千尋はそっち側に手を伸ばして千秋を探した。他の物にぶつかっても怪我をしないように、ちょっとずつ進んだ。
そして指先が、人肌に当たった。
千尋の伸ばした手は、千秋の首をかすり、突然首を撫でたようになってしまった。不用意に触ってしまった千秋の肌に、千尋は心臓が跳ね上がり、しかし離し難くて手をどけるという決断が鈍った。そして離さなくてはと気付いた瞬間、千秋がその手を握った。

「どうした?」

千秋の顔は見えなかったが、楽しそうな声だった。低く、静かに笑うような、甘い声だった。
あまりの事に千尋は頭が真っ白になったが、握られている手を握り返した。というか、そうやって自分の手から千秋の手を引き剥がし、その手の平を広げた。

“みえない”

そう書くと、千秋は手を引っ込めて、真っ暗闇でいなくなった。そして千尋とスレ違い、入り口にあったスイッチを点けた。そういえば、千尋の家とシンメトリーになっているのだから、スイッチの位置くらい考えたらわかる事だった。千尋は心で自分を叱咤した。
千秋は口を微笑ましていたが、少し様子が違って見えた。

「何か飲む?晩御飯も食べて行かないか?」

千秋の声にはさっきのような楽しそうな甘さは含まれていなかった。千尋はテーブルを爪で二回叩いて、肯定した。千秋は微笑んで、キッチンに立った。
千尋も慌ててキッチンに行った。軽く食べると答えたが、まさか千秋が用意するのだろうか。目は見えないのに。
千秋は手探りで冷蔵庫を物色していて、取り出したのは野菜と卵。

「完全に男飯になるけど、構わない?味は悪くしないよ」

米を研いで炊飯器のスイッチを押すまでは、千秋のナチュラルな所作に驚かされて黙っていたが、包丁を握った瞬間に黙っていられなくなった。正確に言えば千尋はずっと黙ってはいるが、包丁を握る手を上から掴んだ。包丁を取り上げてから、その手に指を滑らせた。

“わたしがやります”
「大丈夫だよ、心配しなくても料理で怪我した事はない。ちひろはテレビでも見ててよ」

千秋が笑いながら言うので、差し出されている手に仕方なく包丁を返した。
言われた通り、千尋はテレビを点けたが、それは見ずにリビングから見えているキッチンの千秋を見ていた。電気を点けていない暗がりのキッチンで、千秋はいつもの朗らかな顔を消して真剣な顔付きをしていた。視線は食材を捉えていないのに、千秋はそれを慣れた手つきで刻んでいた。
完成したのはチャーハンで、ビールと一緒に運ばれた。ダイニングテーブルではなく、ソファーの前にあるティーテーブルに並べ、千秋と千尋は並んでそれを食べた。千尋の偏った見方のせいかもしれないが、シンプルなそれが人生で一番美味しいチャーハンだった。
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written by ois







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