千尋は今まで交際経験はなく、異性と接するのは苦手だった。恋をしてもいつも遠目に見て、何もないままに過ぎ去って行くのが常だった。


それは親の反対を押しきって、独り暮らしを始めた7日目だった。千尋は仕事を終えて、晩御飯を買って自宅に帰っていて、人通りの少ない道を歩いていた。
黙々と下を見ながら歩いていると、突然カツカツという、何かが規則的に当たる音が聞こえて目を上げた。それは前から近付いている男が出している音だった。
男は若かったけど千尋よりは歳上で、夜なのに暗いサングラスをかけて、シルバーの杖を持っていた。杖を自分の足元で交互に渡し、障害物がないか確認していた。男はどうやら視覚障害者だ。
男と千尋は間に曲がり角を挟んでいて、千尋の家に帰るにはそこを曲がる必要があった。千尋は男をしばらく見たが、あまり気にしなかった。
千尋が曲がり角を曲がると同時に、男も同じ方向に曲がった。それはあまり予測していなかったので、もう一度見ると、男は前から来た男とぶつかった。
ぶつかって来た男は急いでいたのか、謝りもせず、目が見えない男が杖を落として転けたとも気付かずに走り去ってしまった。
杖は歩道を越えて車道へ転がり、男は転けた時の痛みに唸った。そして手で地面を探って杖を探したが、どう見ても的外れだった。
千尋は立ち止まってその様子をしばらく見ていた。そして助けるか、迷っていた。千尋もまた、身体的に障害があったのだ。
しかし一向に杖を見付ける気配がない男に、千尋はついに杖を取り上げた。千尋はしゃがんで男の手を取った。男は足音で千尋の存在に気付いていて、千尋行動に抵抗しなかった。
千尋は取った男の手に杖を握らせた。

「ああ、ありがとう」

そう言われながら、千尋は男を立ち上がらせるのを助けた。
男は心からの笑みを、見えない千尋に向けて浮かべて礼を口にしたが、千尋が何も言い返さなかったので、男は眉を寄せた。

「あの…、迷惑をおかけしました」

千尋の沈黙を怒りと解釈したのか、男はしどろもどろになりながら謝った。千尋は少し焦ったが、どう伝えればいいのかがわからなかった。相手は千尋が見えないのだ。
千尋は男の、杖を持っていない方の手を取り、手の平が表になるように広げ、そこに指を立てた。伝わるかが不安だったが、その指を滑らせて文字を書いた。

“わたしはしゃべれません”

二回繰り返して書くと、男は理解して微笑んだ。

「あ、そうだったんですね。えっと…ともかく、杖をありがとうございます」

千尋は男に伝わる事のない笑みを浮かべ、もう一度男の手に指を立てた。

“いいえ”

男も微笑み、千尋はそこで男の手を離した。そして自分が歩いていた方の歩道に戻り、自宅に戻る道を歩いた。
同じ方に歩いていたので、その内別れが来ると思っていたが、男は千尋と同じところで曲がり、同じところで横断歩道を渡った。ついに行き着いたアパートも、同じだった。

「…もしかしてさっきの人ですか?」

男がアパートの入り口に立つと、後ろにいた千尋に男が声をかけた。多分足音をずっとたどっていたのだろう。
千尋は自宅に帰ったのに、男を付けたと思われたらどうしようと慌てた。

「返事がない、という事は…そうですね?」

男は手の平を上にして千尋に手を伸ばした。それは少しだけ千尋からずれていて、千尋は手をゆっくり引き寄せて、自分の正しい位置を示した。そしてさっきと同じように指を立てた。

“はい”
「ここに住んでいるんですか?」
“はい”
「俺もです」

千尋は微笑む男につられて、微笑んだ。
千尋はガラスのドアを開けて男と一緒に入った。エレベーターに乗って、千尋が自分の階を押すと、その後に男も指でボタンを探り、同じ階を押した。

“おなじかいです”
「奇遇ですね、何号室ですか?」
“502”
「ははっ…俺は503、隣ですか、何かを感じますね」
“ストーカーではないです”
「疑ってないですよ」

到着して二人で降り、ドアの前で別れた。

「よろしくお願いします、お隣さん」

千尋は男の肩をトントンと叩いて、挨拶をした。千尋は男が玄関に入りきるまで待って、男の家の表札を見た。
千秋大助と書かれていた。一人のフルネームが書かれているので、千秋という名前の男も一人暮しなんだな、と千尋は思って家に入った。


それから何度も千尋と千秋は会った。仕事に出るタイミングは千尋の方が早かったが、帰る時間は千秋とだいたい同じで、エレベーターで出会っていた。
千尋は喋れない事で内気になっていて、人に話しかける事は無かったが、千秋にだけは声をかけたかった。でも千秋は千尋が見えないし、千尋は声が出せなかった。
千尋が突然肩を叩いて自分の存在に気付いて貰おうとした時に、千秋が酷く驚いてた事が千尋を更に億劫にさせた。

「触られると驚くけど、物音なら驚かないよ。何かを二回叩いて、合図して」

千尋はエレベーターの壁を二回ノックした。千秋は笑って、それならいいね、と言った。


最初に相手の家を訪れたのは千尋の方だった。エレベーターでいつものように出会い、千尋が爪でエレベーターの壁を二回叩くと、千秋は音の方に振り返った。

「今日、母が焼酎を送ってくれたんだ。良かったら飲みに来ないか?」

千秋は喋ると同時に、千尋の返事を受け取る手を差し出した。千尋はその手を取っていつものように指を立てた。

“おじゃまします”

千秋は丁寧な物言いの千尋を笑った。
千尋は自宅に寄らずに直接千秋の家に行った。
千秋の家は、千尋の部屋を反転させた間取りで、同じ広さだった。ものぐさな千尋とは違い、千秋の家は凄まじく綺麗にされていた。不思議な事に、千秋の部屋には何冊か本があった。
千秋は焼酎を飲みながら、テレビをつけた。同じソファーの隣に座って、千尋も焼酎を飲んでいた。千秋は音だけでテレビを見ていて、千尋はその千秋をじっと見ていた。千秋にそれは見えていないので、千尋は遠慮しなかった。
千尋と千秋が会話をするのは困難で、二人はほとんど常に沈黙していた。だから少ない言葉だけで繋がっていた関係が、気付かせない事があった。

「まだ、名前を聞いていない」

千秋がそう言って、千尋はかなり驚いた。言っていない事に気付いていなかった。そういえば呼ばれた事はない。
千秋は既に手を出していて、千尋はその手の平に指を滑らせた。

“ちひろとよんでください”

千秋は微笑んだ。

「俺は千秋大助だ」

知っていたけど、知らなかったフリをした。

“ちあきさんはなんさいですか?”
「29、ちひろは?」
“23”
「若いなあ。学生じゃないよね、仕事は何してるの?」
“ほんや”
「本が好きなの?」

千尋はそこで二回、指で千秋の手を叩いた。それはなんとなく決まったルールで、イエスを意味していて、ノーは一回だった。
千秋は微笑んだ。

「俺も好きだ」

千秋が手を引っ込めたので、千尋は何も返さなかった。どっちにしても千尋にはそれを深く探る気にはなれなかった。千秋の微笑みにいつもと違う物を感じとった。



その夜初めて、千尋は千秋の夢を見た。よく見せる、焦点の合わない目に優しい笑みを浮かべていた。
目が覚めて、じわりと視界が揺れた。その事実に、胸が傷んだ。
千尋は気付きたく無かったそれを振り切ろうと決め、何もなかったように同じ生活を続けた。
その日は休みだったので、千尋は溜め込んでいた本を読んでいた。すると引っ越して来て初めて、インターホンが鳴った。使い慣れないモニターで確認すると、千秋がそこに映っていた。
慌てて玄関に向かい、ドアを開けた。

「おはようちひろ、今日はお休み?目覚ましと外出の音がしなかったから、そうかと思って」

千尋は鉄製のドアを二回叩いた。
このアパートの壁は薄いらしい。

「一緒にお昼を食べないか?」

千秋は手を出した。
千尋が返事を書こうと指を立てると、文字を書くより先に千秋は千尋の手を握った。

「行こう。知り合いがやっている店なんだ」

千尋は壁を二回叩いた。
それよりも、千秋が自分の手を握っている事の方が千尋には重大だった。

「準備が終わるまで、ここで待ってるよ」

千秋はいつものサングラスをかけておらず、目元が見えていた。ジャケットを着ていて、いつもより小綺麗でお洒落だった。どんな店なのかはわからないけど、あんまりラフでは行かない方が良さそうだ。
千尋は着替えて、千秋と合流しタクシーに乗ってレストランに着いた。レストランのウェイトレスは千秋を見て直ぐに駆けつけ、窓際の席に案内してくれた。経営者の知り合いだからだろうか。
千尋は千秋の向かいの席に座り、千秋は千尋の方に向けてテーブルの上に手を置いた。

「素敵なレストランだろう?」

千尋はテーブルを指で二回叩いた。

「でも俺は見たことがない…完成したのは俺が失明してからだから。この音楽と、他の客の話し声を聞き、匂いと料理の味でその良さはわかる。でも見えない、ちひろはこの店をどう見てる?」

千尋はレストランを見渡してから、千秋の手の平に指を立てた。

“かざっているえはちゅうしょうがで、アオイあぶらえ”
「…続けて」
“テーブルクロスはグレー”
“みせのおくにすわっているきゃくはひとりでハヤシライスをたべて ほほえんでいる”

千秋は千尋の話を聞いて微笑んだ。

「ハヤシライスは美味しいからね」
“じゃあわたしはハヤシライスをたべます”

千秋は中を見たまま片手を上げた。ずっと見ていたのか、ウェイトレスがすぐにかけつけて、ご注文は?と聞いた。

「俺はいつも通り、料理長に決めてもらってくれ、こちらの方はハヤシライスだ」
「かしこまりました」

ウェイトレスは千尋に微笑んだので、千尋も曖昧に微笑み返した。
しばらく待っていると、さっきのウェイトレスとは別の女の人が料理を運んで来た。40代くらいの人で、長い髪を頭の高い位置でまとめている。清楚で綺麗な人だった。

「大助さん、いらっしゃい。人を連れて来るなんて初めてね」
「久しぶり、君代さん。こちらは隣に住んでいるちひろ。ちひろ、こちらこの店の店長の君代さん」
「初めまして」

君代さんは笑顔で挨拶してくれたが、言葉で返せない千尋は深くお辞儀した。

「君代さん、今ちひろ何してる?」
「深くお辞儀してるわよ。…それに、大助さんが質問した事に驚いて、大助さんを見てる、…で、行動を実況されている事に戸惑って私と大助さんを交互に見てるわよ」
next

肌会話



written by ois







人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -