5−2.


 開幕戦当日。一ヶ月半前にもファン感謝祭の付き添いで訪れたアリーナは、あの時の何倍にも膨らんだ熱気で満ちていた。
 午前中に撮影の仕事を終え、シャワーで汗を流してから姉の家へ向かう。すると、既にブースター装備に身を包んだ舜斗が玄関で待ち構えており「これ、名前ちゃんの!」とアパレルアイテムであるチームTシャツを手渡された。
 真朱色のそれをその場でキッチリ着用させられ、サイズ違いの同じTシャツを着た私たちは、姉に「行ってらっしゃーい」と見送られながら家を出た。
 ボロを出さないようにしなきゃ、と私がハラハラしていることなんか、おそらく舜斗はこれっぽっちも察知していない筈。みっちゃんと私の間に同居しているというとんでもない繋がりがあることを、横を歩くかわいい甥っ子に知られるわけにはいかないのだ。
 しかし、生のスポーツ観戦にわくわくしてしまう気持ちも確かにあるわけで。いろいろ気にしすぎるよりも、もういっそ思いっきり楽しんだ方が変な行動や発言をしないでいられるかもしれないな、と半ばヤケクソなことを考え始めていた。

「名前ちゃん、試合みたらぜってーミッチー選手かっこいー! ってなるよ!」
「えっ!? な、なるかなー!? やっぱ私は名鑑で見たツーブロの選手が好みだけど!」
「宮城選手も出ると思うよ! でも、今日は深津選手とどっちがスターティングのガードになるんだろ……」

 唐突に振られた話題に動揺しつつ、他愛もない会話をしながらこの間と同じルートでアリーナへと向かう。
 会場に近づくほど、同じ色のユニフォームやらTシャツやらを着用している人の姿が増えていくのもこの間と全く同じだ。しかしファン感謝祭の時と違うのは、その中にちらほらと見える違う色を纏った人々である。それはおそらく、本日の対戦相手のファンたちと見て間違いないだろう。
 今朝は起床後の日課としているジョギングを控えることにしたらしいみっちゃんは、リビングの定位置でストレッチをしていた。そして、彼は家を出るまでの間に二、三度トイレにこもっていた。
 お腹の調子が悪いのか、はたまた普段はあんな感じなのにいざという時に緊張してしまうタイプなのか。プロに対して「緊張してるの?」というセリフを掛けてしまうのは些か空気が読めなすぎるので、敢えて触れずにいることにしたら、向こうから「おい」と声を掛けられた。

「なあ、オレいまどんなツラしてる?」
「えっと……ハッキリ言っていいやつ?」
「おう、ハッキリ言え」
「ちょっと青白い」

 股割りの体勢から膝を立て、体育座りでこちらに向き直ったみっちゃんの表情は、いつものキリッとして自信に満ちた快活で溌溂としたものではなく。彼は私から見てもわかるぐらい、あからさまに緊張していた。

「はー、ったくよぉ……。情けねえけど、こういう時いっつも腹痛くなんだよな……」
「そうなの?」
「あ、これオレのこと大好きなおまえの甥っ子には言うなよ。カッコわりーだろ」
「言わないよ! 何で知ってんの? て話になっちゃうじゃん」

 それもそうだな、と控えめに笑ったみっちゃんの表情はやっぱりどこか硬くて、笑い声だっていつもの「ワハハ!」とか「ガハハ!」みたいな豪快なやつではなかった。
 前日に「明日、オレ朝メシいらねーから」と言っていたみっちゃんは、今朝の朝食をプロテインのみで済ませていた。それも、自分がこうなるかもしれないことを察していたからだろう。そうだよね、プロだって緊張ぐらいするよね。
 バスケットボールをプレーすること、試合に勝つこと、そのために自己鍛錬や体調管理を怠らないこと。改めて彼のプロバスケットボール選手という職業について考えてみれば、私には想像を絶するほどのプレッシャーがのしかかっているであろうことだけはなんとなくわかった。
 それをどう受けるかは性格的なものもあるだろうけれど、こう見えて彼はなかなかにナイーブなのかもしれない。

「今日は名前にオレのカッコよさを認めさせるっつー確約事項があるからな」

 青ざめた顔でニタリ、とその口元を不敵に歪めたみっちゃんをじっと見つめる。
 初めて出会ったあのバスケットボールコートでボールを放る姿を目にした瞬間、私が半ば無意識のうちに「カッコいい」と思ってしまっていたことを彼は知らない。
 バスケしてるみっちゃんがカッコいいのなんて、そんなの最初から知ってるよ。だからシャッター切っちゃったんだもん。
 そう素直に伝えられたらどんなに楽だろう。しかし、結局それを白状する気恥ずかしさに負けてしまい「うん、期待してる」と、差し障りのない返事をするに留めてしまった。
 私にとって三井寿という男は、やはりまだバスケットボール選手というよりもルームメイトであるという認識の方が強い。そんなみっちゃんの誰がどう見ても惹かれてしまうカッコいい姿を、今日私は真正面から受け止めにいくのである。認めよう、私だって彼とは違うベクトルで緊張しているのだ。
 会場付近に掲げられた真朱のチームフラッグが、風に遊ばれてバサバサとはためいている。アリーナは試合開始の二時間ほど前に開場していたようで、もう試合まで一時間を切っている。その中は人で溢れかえり、試合開始と今シーズンの幕開けに向けてボルテージが上がっていることをわかりやすく感じることが出来た。
 コートと観客席は想像していたよりも近く、もしかしてボール飛んできちゃったりするのかな? と舜斗に問うてみたら、前方の席ではそういうこともあるらしかった。

「関係者席って、選手の家族とか友達がすわるとこだよね?」

 名前ちゃんの仕事のお客さんって、どの選手の知り合いなの? と、そりゃあ気になりますよね! という質問を投げられる。

「うんと、お客さんの知り合いが記者さんでね、それでもらえたんだって!」
「そっかー、なるほどなあ」

 納得したのかしていないのか、関係者席と書かれたもぎられ済みのチケットをまじまじと眺めている舜斗。こうして嘘を重ねていくのは心苦しいけれど、これもあなたの大好きな三井選手の為なんです、ごめんね。
 関係者席で思いっきりブースター装備な人間は多くないが、舜斗がそんなことを気にする様子はなく、これから始まる試合に向けてワクワクとソワソワを隠しきれずにいる。そんな彼を眺めながら、これから試合に臨むルームメイト様に向かって「チケットを回してくれてありがとうございました」と手を合わせ、こっそり頭を下げた。
 慣れない試合前のアリーナの雰囲気と、この場所に座っているだけで勝手に昂ってしまうような得体の知れない感情により落ち着けずにいたら、スポーティーな衣装に身を包んだチアリーディングチームが入場してきた。
 ビームの如く所狭しと駆ける赤と白の光、軽快な音楽に合わせて目の前で行われているキレキレのダンスパフォーマンス。試合前の前座であるそれにさえ圧倒され、口をあんぐりと開けたままの私と、慣れた様子でリズムに合わせて手を叩いている舜斗。
 観戦席にはカメラを構えているファンたちも多くいて、もし次の機会があれば私も愛機を持ってこようかな、なんて思ってしまった。繰り返させてほしい、あくまで次の機会があれば、という話である。
 チアリーディングチームがはけたあと、入れ替わるように入って来たのは会場にいる観客が待ちに待っていた選手たちの姿であった。
 みっちゃんも充分に大男だが、その他の選手もそれが基準であるかのように背が高く、ものの縮尺が狂って見える。その中で一際小柄に見える選手が、どうやら私が初見でいいなと思った宮城選手のようだ。そして、その横に並んで額がくっつきそうな近さで会話をしているのがみっちゃんである。
 普段──とはいえ、まだ私たちがルームメイトとなって二ヶ月半ほどしか経過していないが、そんな彼が目の前のコートに選手として現れ、試合に臨もうとしている。
 普通ならば、手の届かないその場所にいることが当たり前に感じる筈なのに、選手でいる時間以外を一緒に過ごしている私にとって、コートに立っている彼の姿のほうが新鮮で、そしてそれがとても不思議に思えた。
 朝はすこぶる調子が悪そうに青ざめた顔をしていたみっちゃんだったが、そんなものはどこへやら、目の前にあるコートの中でボールを小脇に抱えている彼に緊張など一切見られない。そう、やはり彼はプロなのだ。
 マスコットキャラクターのソウルくんと小突きあいながらアリーナを見回すようにゆっくりと首を動かしていたみっちゃんの視線が、私たちが腰を落ち着けている関係者席ではたと止まったのはそんな時だった。
 バチン、という擬音がつくほど思いっきり視線がかち合って、彼は更にニヤリとわざとらしい笑みまで浮かべてみせる始末。たぶん「よく来たな」とか「目に物見せてやるぜ」とか思っているに違いない。
 朝はあんなにゲロゲロしていたくせに、コートに立てばそんなことはまるで幻だったかのように堂々とした立ち振る舞いを見せてくるなんて。っていうか、そんなあからさまにこっちを見るな!
 視線だけで隣に座る舜斗の様子を窺うと、彼は興奮した様子で「ミッチーが選手こっち見た!」と言うだけで、彼から私に向けられたわかりやすすぎるアイコンタクトに気づいた様子はない。全く、わざわざヒヤヒヤさせてくるのは勘弁してほしい。
 ウォーミングアップは、選手が各々のルーティーンに合わせて行うようだ。ランニングシュートや外からのシュートによって、宙に浮いたボールがゴールに吸い込まれていくのをぽかんと眺める。
 そこここで行われる忙しない動きに視線を動かし続けていたら、チームのファンでもない、バスケが好きなわけでも経験者でもない私ですら、無視できないほど身体の奥が興奮し始めているのを感じていた。





 試合時間はたったの四十分間。2クォーターと3クォーターの間にハーフタイムを挟んで十分ずつが四本。
 初めて生で観戦したバスケットボールの試合は想像以上に攻守の切り替えが早く、目でボールの行方を追っている間に「もう!?」と声を上げてしまうほどあっという間に過ぎていってしまった。
 無意識のうちに作った拳をつよくつよく握りしめていたせいで、試合が終わる頃にはなんと手のひらの感覚が無くなっていた。
 ポイントガードというポジションの選手がボールを運び、ゲームを組み立てる。宮城選手がそのポジションに入っている時はスピード感があって攻撃的で、ポーカーフェイスな深津選手の時は堅実で、でもパス回しがものすごく早くて。
 そして、みっちゃん──もとい、三井選手はというと。

「それでは、本日のヒーローインタビューです!」

 開幕戦をホームで迎えたみっちゃんたちのチームは、無事に開幕初戦を勝利で飾ることとなった。更に、現在コートの中でヒーローインタビューのマイクを向けられているのは、三井寿その人である。
 写真でしか見たことのなかったユニフォーム姿のみっちゃんは、額の汗を手の甲で乱暴にグイッと拭ってから客席に向かってぶんぶんと手を振り、満面の笑みで握った拳を掲げている。
 なるほど、こりゃファンも多いわけだ、と認識をしたその瞬間──否、先ほどまで行われていた試合を通して、私は彼の持つ圧倒的な力によって納得させられてしまっていた。
 あの日あの時、公園のバスケットコートでボールを操り放った彼のシュートフォームはそれはそれは美しくて、弧を描いたボールはそれがさも当然のようにゴールを抜けた。それを、試合という場で再び目撃したのだ。しかも、四十分間のうちに何度も、何本も。
 遠い位置からのシュートは三点分になるらしく、みっちゃんのポジションであるシューティングガードは外からのシュートが得意な選手が配置されるものらしい。
 味方から回されたボールを胸の前で受けた彼は、次の瞬間にはもう体制を整えてシュートフォームに入っていたし、テンポを遅らせリズムを変えてから放る、なんていう鳥肌が立つような芸当も見せた。
 バスケットボールを知らない私にだってそのすごさがわかるぐらいに彼のプレーは美しく華麗で、人を魅了するものに違いなくて。
 そして、本日最多得点を決めた彼は今、アリーナの中央でマイクを向けられている。

「ホーム開幕戦なんで勝つしかねーと思ってました。いつだって負ける気なんてのは微塵も無いですけど、シーズン初戦を勝ちで飾れたのはめちゃくちゃ大きいと思ってます」

 ビジョンに抜かれているみっちゃんは、汗だくのまま腰に手を当ててハキハキとインタビューに答えている。背後にある大型ビジョンからすぐ目の前のコートに立つ彼本人に視線を戻せば、いつものように快活に笑いながら喋っているその人がいて。
 ユニフォームを纏った彼は、チケットを私に手渡してから「おまえはこの三井のカッコよさを認めることになるだろう」と人差し指を突きつけてきた。なんてセリフだ、と思いながらも、自信に満ち満ちた発言と表情に何も言えなくなってしまったのもまた事実で。
 どうしよう、本当にその通りになっちゃった。

「では、このアリーナで、もしくはライブ放送で観戦されていたファンのみなさんに一言お願いします!」

 インタビュアーから向けられたマイクに掴んだみっちゃんは「ンンッ……ゴホン!」とわかりやすく、そしてわざとらしく咳払いをしてから口を開いた。

「まずは観ていただきありがとうございました。バスケはひとりでやる競技じゃなくて、だからといって、コートにいる人間だけでやるもんでもないと思ってます。ブースターもチームの一員だと思ってますし、今日もみなさんの熱い声援のお陰でもぎ取れた勝利です。今シーズンも応援よろしくお願いします!」

 その瞬間、観客たちの歓声と拍手が今日一番といって差し支えないほど大きく膨らみ、そして弾けた。どこかの観客席から野太い「三っちゃーん!」という声が聞こえてきて、一瞬だけみっちゃんが険しい表情をしたような気がしたけれど、それはまあいいか。
 私の横で「ミッチー選手カッコいい……!」と意図せず漏れてしまった様子の舜斗の声を聞きながら、ついつい自分の頬まで緩んでしまうのを感じる。
 横にやっていた視線をみっちゃんへと戻した私は、その瞬間思わず「え……?」とつぶやいていた。なんかあの人、すっごいこっち見てる気がするんですけど。
 それが気のせいではないことに気づいたのは、たっぷり三秒ほど視線を交わし合ったのち、彼がその口角をグイッと得意げに上げてみせたからだった。
 観客たちの歓声に応えるように両手を大きく振っているみっちゃんは、コート内を回って挨拶をしている選手たちの輪の中へと合流する。
 手を上げて観客の声援に応える宮城選手に背後からタックルを決めて、面倒くさそうな視線を向けられながらも屈託なく笑っているみっちゃんの表情は、どこかあどけなくて少年のようだ。
 やっぱり私もカメラもってくればよかったな、とほんの少しだけ──否、かなりの後悔を感じつつ、周りに負けないぐらい精一杯手を叩いて拍手を送る。
 みっちゃんが帰ってきたら、ちゃんと「カッコよかったよ!」って伝えて、今回ばかりは素直に敗北宣言をすることにしよう。





 朝から感じていた緊張による腹痛は、ウォーミングアップの間に消え失せていた。
 ホームアリーナ、チームカラーで彩られた満員の観客席、ヒリヒリとした試合前の緊張感。今までに幾度も感じたことのあるそれは「ああ、これからまた始まるのだな」とオレをワクワクさせる。そして、腹の奥から湧き上がってきたものは高揚感に違いなかった。
 スペーシングをして、マッチアップ相手のディフェンス範囲を広くする。ボールを受けて、それを放つ。
 オフェンスの際、その一連の動作が流れるように澱みなく進んだ瞬間、放ったボールはゴールを抜ける。何回も、何千回も何万回も、もう数え切れないほどに打ってきたシュート。それが決まった時に感じる昂りは、いつだって震えるほどに気持ちがいい。
 開幕戦を勝利で飾り、自分でも驚くほどにシュートが決まり、同居人である名前に言い放った宣言を有言実行出来たことに胸を撫で下ろす。彼女の甥っ子とやらも喜んでくれているといいのだが。
 ヒーローインタビューを終え、コートを周回して挨拶しているチームメイトたちに合流する。一番後ろを歩いていたチーム一小柄の、それでいて高校時代に比べたら倍以上逞しくなった背中に勢いよくぶつかっていく。するとそいつは「おわっ! 何だよ!」と整えられた眉を不快そうに歪め、目を細めてこちらを振り返った。

「おうコラ、今日のヒーロー様の帰還だぜ」
「あーハイハイ。つーか三井さん、関係者席見過ぎだから」
「だってよお、今日は勝利にプラスして名前のヤツにオレの凄さをわからせるっつー特別ミッションがあったんだよ」

 勝利に加えて最多得点獲得、更にヒーローインタビューとくれば、あいつも絶対「みっちゃんカッコよかったよ! おみそれしました!」とか言ってくるに違いない。
 どうよ、の意を込めて関係者席に視線を向けたら何故か彼女は微妙な表情をしていたが、拍手をしてくれていることは確認することが出来た。

「あいつ、オレのことナメてっかんな。でも今日の大活躍でこの三井寿の凄さがわかったにちげーねえぜ!」
「いや、オレそういう意味で言ってねーんスけど……。ま、いいや」

 どういう意味だよ、と問えば、宮城は「いいやって言ったっしょ、おしまい」とその話をはぐらかして観客たちの声援に応えるように手を上げ、深く頭を下げる。
 若干腑に落ちない気持ちを抱えつつも、体力を使い果たしてヘトヘトになっているせいでどうでもよくなってしまった。しかし、今はそんな疲労感すら心地良い。
 勝利の余韻に酔いしれながら、うれしそうな観客たちの表情ひとつひとつに返事をするように拳を突き上げた。



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