5−1.


 リビングに貼ってある飾り気もなにもないシンプルなカレンダーに、赤いペンで書かれているものがみっちゃんの予定で、青いペンで書いてあるものが私の予定である。
 みっちゃんは意外とマメで──と言ったら「意外とってなんだよ、一言余計だろ」とか返されてしまいそうだけど、こうしてほしいと伝えたルームシェアのルールを受け入れ、ちゃんと守ってくれている。
 お互いの仕事のスケジュールや家に居ない日、夕飯が要らない日はこのカレンダーに書いてほしいことを伝えると、コクンと頷いて「おう」と言った彼は、すぐに自分のスマートフォンを左手に持ち、真剣な表情でスケジュールを書き込み始めた。
 彼との生活は何事もなく、気が抜けるほど穏やかに進み、そして過ぎていっている。
 大きな赤い文字で「開幕戦!」と書かれた土曜日の日付を指先でなぞる。そう、いよいよ今週末からプロバスケットボールリーグが開幕するのだ。
 シーズンが始まると、その月の半分はアウェーでの試合となるので家に戻らない日も増えるそうだ。試合は基本的に週末で、時々週の半ばや金曜日にも開催されるらしい。
 今まで、赤い文字は「何時から何時まで練習」ばかりだったが「試合」という文字がたくさん追加され、更にその横には対戦相手と試合会場が記されるようになった。
 こっちで試合をしたと思ったら中日は地方、週末は帰ってきてまたこっちで試合、という素人が見ても目が回りそうな過密すぎるスケジュールを眺めながら、プロスポーツ選手という職業が試合に出場する云々に関係なく、とにかく体力が必要な仕事であることがよくわかった。
 私の仕事内容だって大まかにジャンル分けをすれば体力勝負であるが、あっちゃこっちゃ飛び回っては四十分動き続けるスポーツを仕事としているプロとは次元が違う。
 そんなわけで、私は改めてルームメイトが別世界を生きている人間である、という認識をし直していた。
 食事を終えた入浴後、いつものようにフローリングに敷いてあるラグの上で股をパックリ割りながらストレッチをしている当人は、私がそんなことを考えているだなんて微塵も察していないのだろう。
 やっぱりこの人ってプロのバスケットボール選手なんだよなあ、と入念にストレッチをする姿を他意なくぼんやりと眺めていたら「おい、なにじーっと見てやがんだ? このスケベ」とニヤニヤしながら言われてしまった。
 スケベって、この男はそれをまさか私に向かって言ったのだろうか?
 自分は人のハダカをじっくり観察したあとで感想まで述べてきたクセに、それを棚に上げて、これ見よがしに行っているストレッチを眺めただけでスケベ呼ばわりですか?
 ムッとした私は、勢いよくソファーから立ち上がると、自室から仕事用の一眼レフを引っ張り出してきた。そしてそのままスタスタとリビングへと戻り、そのレンズをストレッチ継続中のみっちゃんへと向ける。
 くらいやがれ! とばかりに、部屋着であるハーフパンツから伸びている鍛えられた硬そうな太ももやらお尻やら、剥き出しの肩や二の腕をファインダーに収め、無言かつ無遠慮に容赦なくシャッターを切りまくってやる。

「おま……! なに撮ってんだコラ! 盗撮魔!」
「でも私ぃ、そちらが仰ったとおりのスケベカメラマンなんでぇ」
「グラビアは事務所通せ!」

 ストレッチを止め、その大きな体を縮こめてぎゅうっと隠すように両手で抱きしめているみっちゃんにふふん、と勝ち誇った笑みを返してやれば、彼はチッと小さく舌打ちをして再びストレッチに集中し始める。
 いつの間にか、そんな戯れや些細なやりとりが日常になっていた。
 ルームシェアが始まって、瞬く間に過ぎて行った一ヶ月とすこし。きっと残りの期間もあっという間に過ぎちゃうんだろうな、と何気なく考えた時、浮き上がってきた「なんか寂しいかも」という感情に顔を顰めるほどの違和感を覚えた。
 無意識のうちにその感情の意味を熟考し、結論を探そうとしていた私は「いや、ちがうちがう!」と振り払うように、これ以上その形を明確に把握する前に首を振って有耶無耶にしてしまうことにした。
 開幕戦! と一際存在感のある文字でカレンダーに記されたその週末は、土日共にホームでの開催のようだ。
 たまたま姉と通話をする機会があった時、なんとなく世間話のような軽いノリで甥であり、みっちゃん──もとい三井選手の大ファンである舜斗もその試合を観に行くのかと問うてみたら「それがね、チケット取れなかったの」と教えてくれた。
 どのスポーツであっても、人気チームのチケットは確保しにくいと聞く。しかもそれが待ちに待った開幕戦ともなれば、競争率も普段の試合以上に高いのだろう。ファンクラブに入っていても敗北するぐらいなのだから、みっちゃんの所属しているチームは相当人気があるようだ。

「みっちゃんたちの試合って、チケット取れないんだね」
「あ? なんだよ、名前も観てーの?」
「ううん、私じゃなくてこないだサインしてもらった甥っ子」

 開幕戦のチケット取れなかったみたいで、観に行けるのはその次のホームかなって話をしてたよ、と続ければ、みっちゃんは眉を顰めながら「んだよ、私は別に観戦したくないけど、ってか」と唇を尖らせた。
 私の目の前で子どものように、あからさまに拗ねた顔をしている成人済み男性。職業プロバスケットボール選手であるみっちゃんに「そうじゃなくて、私みたいなのが行って本当に行きたい人が観られないのは違うでしょって意味!」と続けるも、彼は「そうかよ」と納得していないのを隠す素振りも見せず、不服そうに返してくるだけ。
 全く、デカい図体をしているのにまるきり小学生のようだ。彼は、ちょっと気に入らないことがあったり口籠ると、こうして唇を尖らせる癖がある。
 しかし「うっわあ、めんどくさ……」と思うのと同時に、ちょっぴり面白くてかわいらしいとも感じてしまっていることがそこはかとなく悔しいので、この場では黙っておくことにした。

「まあいいわ。……で、関係者席でいいか? そんならたぶん回せるぜ」
「へ……? 待って、ごめん違うの! そういうズルいこと考えて言ったんじゃなくて、その、えっと……そうじゃなくて!」
「なにオロオロしてんだ。わーってるよ、気にすんな」

 そう言ってから吹き出すように小さく笑ったみっちゃんは、ストレッチを終えて立ち上がる。そして、乞食のような行いをしてしまったことに慌てて猛省する私の頭の上に大きな手のひらをぽん、と乗せてきた。

「席空いちまってるよかいいだろ」
「でも関係者席って……誰からチケットもらったって言えばいいの……?」
「そんなん、仕事仲間とか客とかテキトー言っときゃいいだろが」

 そうかなあ、と拳を口に当てて考え込む私を尻目に、みっちゃんは「いーんだよ、やるって言ってんだからありがたくもらっとけ」と無愛想に言い、私の頭の上に置いた手のひらをわしゃわしゃと動かして髪の毛を乱してきた。
 そしてその次の日、そんな口頭でのやりとりをちゃんと覚えていたみっちゃんは、チケットを二枚「ほれ、御所望の品だぜ」と得意げな表情で差し出してきた。
 お礼は何にすれば良いかと問えば「いらねーよ、いつもメシ作ってもらってるし」と屈託のない笑顔を浮かべ、ニッと歯を見せた。その笑顔にうっかり「わお……」という声を漏らしてしまう。
 そこで私は再認識することになった。近くに居すぎて忘れかけていたけれど、私のルームメイト様はなかなかの男前で、そしてビジュアルがいいのである。

「……てことで、チケット取れたんだけど」

 姉に電話でそれを伝えれば「名前、ホントに三井選手と一緒に住んでるんだね……」というセリフが小さなボリュームで返ってきた。その様子から察するに、おそらく近くに舜斗がいるのだろう。
 甥っ子である舜斗には、憧れのバスケットボール選手と私が一緒に住んでいることは隠していくことにしたと、当人であるみっちゃんと姉には伝えてある。

「でもありがとうね、三井選手にも言っといて。うちからもなんかお礼考えるから」
「うん、伝えとく。あ、舜斗には私がお客さんからもらったって言っといてくれる?」
「了解。いまそこにいるから直接お礼言わせるね」

 そこまでのやりとりを小さな声で続けていた姉が「舜斗! 名前が開幕戦のチケット取ってくれたよ!」と傍にいるであろう甥っ子に声を掛ける。それからすぐ、通話口の向こう側から聞こえてきたのは「名前ちゃんありがとう!」という興奮を抑えきれずに弾んだ舜斗の声だった。

「喜んでもらえてよかった、パパと楽しんでおいで」
「なんで!? オレ名前ちゃんといきたい! 名前ちゃんにミッチー選手がカッケーところ見てほしいし」

 そう言われ「え!? えー、えーとぉ……」と思わず言葉を濁らせてしまった。
 もちろん、観たくないというわけではない。テレビ中継を観る程度ではあるけれど、スポーツ観戦をするのは割と好きな方である。
 しかし、その試合に出る三井寿という男は私にとってプロの選手であること以前にルームメイトで、そのルームメイトは電話の向こう側で目をキラキラ輝かせているであろう甥っ子の憧れの選手である。つまるところ、私はその試合で自分がうっかり何かしらのヘマをしてボロを出してしまうのではないか、ということを恐れ、そして危惧しているのだ。
 舜斗には、私が憧れのミッチー選手と一緒に住んでいることを一年間隠し通すと決めたけれど、正直言って私は嘘をつくのが上手くはない。核心を突かれればこのとおり言葉を濁してしまうし、その場でうっかりをやらかしてしまうことは容易に想像できる。

「え、えっとね、私はそんなにバスケに興味ないから選手とか、他に観に来てる舜斗みたいなファンにとって失礼じゃない? って思うんだけど……」
「関係ないよ! だってオレ、こないだ名前ちゃんと一緒に感謝祭行ったの、すげーたのしかったし!」

 私は、簡単に己の心を揺らがせてしまう芯のブレた人間なのです。大好きな甥っ子にこんなにも熱くお願いをされ、断る選択肢などあるわけがない。
 試合の開始時刻は午後。リビングに掛けてあるカレンダーへ視線を移動させた私は、その日は午前中しか撮影の仕事が無いことを確認してから「わかった、一緒に行こう!」と、数秒前の葛藤をそのままそっくり遥か彼方へと投げ飛ばし、元気よく返事をしていた。
 電話を切ってからまず思ったことは、その日は何があっても三井寿選手のことを「みっちゃん」と呼ばないようにしよう、という固い決意であった。
 そのあとで、チケットを確保してくれた本人であるみっちゃんに「甥っ子の付き添いで結局私も試合観に行くことになったよ」伝えると、彼はキョトンとした表情で「あ? そりゃそうだろ、おまえにチケット渡したんだし」とあっけらかんと言い放った。

「私は義兄さんと舜斗が行くもんだと思ってたんだけど、なんか成り行きで私になって」
「んだよ、名前はオレのカッコいいところ見たくねーってのかよ」

 そんなようなこと、そういえばさっき舜斗にも言われたなあ、とぼんやり考えていれば、じっとこちらを見据えていたみっちゃんが「ホントにおまえは最初から変わらずに失礼な女だな」と不満げにごちた。
 数日ぶり、何度目かの拗ねモードなみっちゃんに「いや、だからそういうことじゃないんだってば」と伝えれば、ジトっとした疑いの視線をこちらに向けたままの彼が突然ビッ、と人差し指を突きつけてきた。

「予言するぜ。おまえは週末、この三井のカッコよさを認めることになるだろう。そしてその勝利を讃えるに違いねえ!」
「まだ勝つかわかんないのに?」
「あんだと!? 勝つに決まってんだろ! なめんな!」

 つーかうちのチームはめちゃくちゃ強えーぜ、と口角を上げてみせたみっちゃんの表情はどこまでもまっすぐで、眩しすぎるほど自信に満ち溢れていた。
 みっちゃんが発した傲慢で尊大にしか聞こえないセリフ。けれど、確かな実力と自信を持ち得る者にしか発することの出来ない言葉に、驕るような不快感は一切無く。
 彼が身に纏った圧倒的な光のオーラを惜しげもなく浴びせられながら、うっかりこくんと喉を鳴らしてしまった自分の感情は何に拠るものなのか。私がそれを理解する術はどうやらまだ無いらしい。
 みっちゃんがカッコいいことなんて、最初に出会ったあの公園で、あのバスケコートでボールを放る姿を見た時から知ってるんだけどな。だから私はあの瞬間、無意識のうちにカメラのレンズを覗き込んでシャッターを切っていたのだから。
 しかし、あの時の自分の行動を解析し、ここまでの解釈に至るまでは些か時間がかかり過ぎているし、白状するにもタイミングが外れてしまっている。
 ひとりでボールを操る姿にさえ意図せず魅了されてしまったのに、本気且つ全力で、そして全身全霊を込めてプレーする彼の姿がカッコよくない筈がないのだ。


 ◇


 オレには大仰な言葉を纏って自分を覆い、無理矢理に己を鼓舞していた時代があった。
 その時だって決して自分に自信がなかったわけではないが、心の中にほんの少しだけ存在する「自分にやれるのだろうか?」という僅かな小さな滲みに気づいてしまった瞬間、それは全てを塗りつぶすように拡がっていくことを知っていた。
 現実世界でマッチアップしているのは目の前にいる対戦相手なのに、それがまるで自分自身との戦いであるように感じていたのは必死になっていた学生時代。あの二年間がなければ、そんな感覚を覚えることはバスケ人生に於いて生涯無かっただろう。
 そして、いつの間にか鎧のように身に纏っていた言葉は己を鼓舞するものではなくなって、全身全霊を賭けてバスケをする確かな自信に拠るものとなっていた。
 だから、それがシーズン初めの開幕戦だろうと途中の試合でも関係ないし、プレーを見られることに不安なんてものは微塵もない。自分の持ち味を発揮してチームに貢献することも、観戦に来た観客を魅了する自信だってある。
 しかし、非常に認めたく無い事実であるのだが、現在オレは一抹の不安を覚えていた。

「おまえはこの週末、この三井のカッコよさを認めることになるだろう」

 ルームメイトである名前に意気揚々と告げたのは週の半ば。実際にそのセリフを発した時は、寸分の迷いもなくそのとおりにさせる自信があった。
 しかし本日、ロッカールームでユニフォームに着替えながら感じたそれは、間違いなく緊張の類であった。
 久々に感じるこの感覚。シクシクと、痛みというよりも気に障るような不快感に近い下腹部の違和感。おいおい、なんだって今日なんだよ。
 試合が始まってしまえばそんなことにかまっている余裕なんか無くて、意識せずとも頭の中から抜け落ちていってしまうのだが、問題はそれまでの時間である。
 自分にとって身近な人間が観に来るということを知っている時、そういえばこんな状態になることもあったな、というのを久々に思い出していた。

「緊張している時は、人という字を手のひらに書いて飲み込めばいいピョン」
「は!? べ、べつにオレぁ緊張なんてしてねーし! つーかしねーわそんなこと!」
「……とかいう信憑性の薄すぎる迷信のようなものをオレは信じていないので、出すもん出して腹くくってくれないと迷惑ピョン」

 表情も、そしてその声音すら寸分も震わさずに言い放った我がチームのポイントガード兼キャプテン様は、本日も悔しいほどに不動の精神を揺らがせない。
 深津一成という男は、こうして深く関わるようになっても得体が知れず、いい意味でも悪い意味でも底の知れない男なのだ。
 チームにおいて、何事にも動じないマイペースさと冷静さは非常に頼もしい。しかし、それを正直に伝えるなど己のキャラではないことがわかっていたので「こちとらとっくに空っぽで出せるもんなんてねーんだよ」と低く早口で返してやることに留めた。

「開幕戦、ホーム開催、チケット売り切れ」
「へーへー、わーってますよ」

 これは武者振るいなんだよ、と発した言葉は決して強がりなどでは無く。そう、始まってしまったらいつだって体をこわばらせる不安や緊張は吹き飛ぶようにいなくなる。
 深津の視線が未だにこちらに向けられたままだったので「なんだよ、もういいだろ」と軽く肩で小突いてやると、ほんの少しだけヤツの口元が歪んだような気がした。

「名前さんが観に来てるからって、空回ったら減俸処分ピョン」
「なんでオメーに減俸されんだよ! ……って、今あいつの名前」

 知ってんのかよ、という言葉を紡ぐ前にまばたきを繰り返す。深津が指を向けたオレの隣には、いつの間にか宮城が座っていて「アンタ、こないだ自分で言ってたじゃん」と苦笑いをしていた。

「オレが緊張してんのと、名前が観に来ることの何に関係があんだよ!」
「三井のコンディションが悪い場合、その理由を即座に把握出来るピョン」
「悪くねーよ! むしろいいわ! ったくどいつもこいつも……オレぁプロだぞ! 目にもの見せてやっかんな!」

 太ももを叩いて勢いよく立ち上がり、座ったままこちらを見上げている二人のチームメイトに向かって指を突きつけながら「覚悟しやがれ、このヤロウども!」と、まるで対戦相手に向けるかのようなセリフを投げつけてやる。
 そんなやりとりのお陰か、感じていた下腹部の違和感はいつの間にか和らぎ、気にならない程度のものになっていた。オレという人間の扱いを完全に掌握され、コントロールされているのは受け入れ難く不服ではあったが、それごとまとめて握りつぶすように右手のひらに力を込める。
 開幕戦、ホーム開催、チケット売り切れ。
 最早、先ほど深津が発したその単語たちに怯む気持ちはこれっぽっちも無かった。むしろ、背中を押されるようなポジティブな熱しか感じない。
 アリーナに集まった大勢の観客たち。そのほとんどが真朱のチームカラーで埋まっているであろう観客席。容易にそれを想像することが出来るのは、確かな興奮と高まっている会場の雰囲気がこのロッカールームまで伝わって来ているからだ。
 今オレが纏っているのは目に見えない大仰な言葉ではなく、オレンジがかった真朱のユニフォーム。その胸のあたりをグッと握りしめれば、試合への熱が増していく。
 迫るティップ・オフに、ドクンと鳴った鼓動の理由は、一抹の不安など一瞬で散らしてしまうほどに燃えている闘争心。
 吐き出した荒い呼気の中に混じる不純物などは、もう微塵も無くなっていた。



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