6.


 耳に届いたのは、スマートフォンが発する聞き慣れたアラームの音。
 目が覚めて頭が冴えてくるのも、今日ばかりはとても早かった。アラームを止めてから体を起こし、腕を上げて体を伸ばす。カーテンの隙間から漏れる光で、今日の天気が晴れだとわかってほっとした。
 デスクの上のモニター前に置いてある白い封筒には「苗字名前様」と私の名前が書かれている。数秒それに視線を留めてから自室を出ると、リビングのカーテンが開けられていたことでルームメイトであるみっちゃんが既に起床していることを知った。おそらく、彼は毎朝のルーティーンであるジョギングに出ているに違いない。
 時刻は朝の六時。その日の仕事によって起きる時間がまちまちな私にとって、携帯のアラーム機能ほど生活に必要不可欠なものはない。そして、スッキリ起きられたのは今日が幼なじみ兼、親友兼、元ルームメイトである千夜子の結婚式当日だからに他ならない。
 脱衣所の洗面台で顔を洗い、いつもより丁寧に化粧水を塗り込む。歯磨きをして、そのあとで乳液を手に取って押し込むように顔に塗った。
 リビングに戻ってBGM代わりにテレビを点け、平日とは違う休日の朝番組をなんとなく眺めながらメイクポーチを開ける。
 日焼け止めと化粧下地は間隔を空けて塗り、リキッドファンデーションは濡れたスポンジで叩き込む。その上からコンシーラーを仕込み、主張しすぎない程度にシェーディングを入れた。
 普段より何倍も手間を掛けて化粧をしていると、他人事のように「女って大変だな」なんて思ってしまう。しかし、今日ばかりは絶対に化粧崩れを阻止したいので仕方がない。
 ファンデーションの上からパタパタとフェイスパウダーを叩き、パウダーチーク、アイシャドウ、目尻には控えめにブラウンでラインを引く。ゆっくりとビューラーで睫毛を上げてから、それをキープする目的でマスカラを塗布する。眉尻を描き、眉頭から中間まではパウダーで仕上げた。
 最後に顔全体にミスト状の化粧水を振り掛け、ふう、と息を吐く。これから朝ごはんを食べるし、リップは家を出る直前にしよう。忘れないようにしなきゃ。
 なにせ、今日の私は友人代表のスピーチを任されている。いつものようにスキンケアと下地代わりの日焼け止め、コンシーラーとパウダー、眉描いておしまい! というわけにはいかないのだ。
 挙式が始まるのが十時半で、披露宴はそのまま十四時過ぎまで。夕方から夜にかけては二次会が予定されている。
 とはいえ、挙式と披露宴会場はなんと私と千夜子が一緒に暮らしていたこの町の駅近くにあるホテルなので、移動にも帰宅にも時間を要さないのはとてもありがたかった。ちなみに、二次会の会場も駅前である。
 就寝前に出しておいた深緋色のワイドパンツ型ドレスは、肩から手首にかけてがレース袖になっている。
 千夜子からは「カメラマンは頼んであるし、名前は気を遣わないでいいからね」と言われていたが「初対面のカメラマンよりも、絶対私の方が千夜子のこと綺麗に撮れるんですけど」とムッとしながら返したら、彼女は珍しく照れた様子で「ありがと」と口元を綻ばせていた。そういうわけで、動きに制限がかかるスカートではなく、パンツスタイルのものを選んだのだ。
 ちらりと時計を見やれば、時間にはまだ余裕がある。着替えをするのはもう少しあとにして、コーヒーでも飲んで一息つくことにしよう。
 食パンをトースターに放り込み、冷蔵庫にあった買い置きのアイスコーヒーをコップに注ぐ。トーストが焼き上がるのを待ちながらキッチンでぼんやりしていると、玄関の扉が開く音がした。

「お? なんだ、起きてたのか」
「おはよ、お疲れさま」

 賑やかな足音を立てながらリビングに現れたみっちゃんは、肩に掛けているタオルで噴き出す汗をグイっと拭い、洗って立てかけてあったプロテインシェイカーを掴む。取り出したプロテインの粉をその中に入れ、冷蔵庫にあったミネラルウォーターを注ぎ入れた彼は、その場にぺたんと座り込んでシェイカーを振り始めた。
 みっちゃん曰く、高校時代から早起きをして朝練習をするのが日課になっていたので、朝早く起きることを苦には感じず、寧ろそれが当たり前になっているのだそうだ。
 近くのジョギングコースを走り、私たちが初めて出会ったあの公園をぐるっと回り、それから帰宅するのがいつものルーティーンらしい。試合のない日は、一度帰ってきてからバスケットボールを持ってもう一度出かけていくこともある。
 トースターがチン、と焼き上がったことを知らせてくれる。それを取り出して皿に乗せたら、いつの間にか立ち上がっていたみっちゃんが「ん……?」とパーソナルスペースなど無視して超至近距離でこちらを覗き込んできた。

「えっ、なに? 近いんだけど」
「名前、おまえよお……なんかいつもよりかわいくね?」
「そりゃもう、しっかりメイクしてますから」

 そんな私の回答に対して「なんで」と発したみっちゃんは、その後すぐにはっとした表情で口をつぐみ、顎に手を当ててから「そうか、そうだったな」とうんうん頷く。
 カレンダーに書かれている今日の私の予定は、それこそみっちゃんと一緒に住み始める前から記入してあるものだった。

「友人代表のスピーチすんだろ、大丈夫か?」
「ばっちり、あとはもうしゃべるだけって感じ」

 ふーん、と言ったみっちゃんは、未だに私の顔を観察するようにまじまじと見据えながらプロテインを流し込んでいる。それをごくごくと飲むたびに動く彼の喉仏を見つめていたら、首筋を汗が流れていくのが見えた。
 みっちゃんの女子ファンが今の光景を見たら、卒倒しちゃうんだろうな。私の視覚をお裾分けできたらいいのに、なんてありえないことをぼんやり考えつつ、アイスコーヒーの入ったコップとトーストの乗った皿を持つ。

「そういえばオレもしたことあんぜ、友人代表スピーチ」
「えっ、そうなんだ! どんな感じだった? 緊張とかした?」
「あー、あんときは……まあなんとかなった」

 ん? と私は思わず眉を顰める。それは、みっちゃんの発した「あんときは」と「まあなんとかなった」の間に不自然な無言の時間があったからだ。緊張しすぎて失敗したのか、それとも泣いちゃったりしたのだろうか。
 わかりやすく取り繕われた「まあなんとかなった」は、おそらくなんとかならなかったのであろうことを察しながら、それ以上は追求せずに「そっか」と返事をするに留める。
 あおるようにプロテインを一気飲みしたみっちゃんは、そのシェイカーをさっさと洗って立ち上がる。向かった先は脱衣所方面だったので、このままシャワーを浴びるのだろう。
 ダイニングテーブルではなくソファーに腰を下ろし、ローテーブルにコップと皿を置く。平日の朝とは違い、情報番組というよりもほとんどバラエティに近い番組に視線だけを向けながらトーストをかじる。
 今日は日曜なので、みっちゃんも試合がある。昨日今日はホーム開催のようだが、八時を回りそうな今現在も家にいることを考慮すると試合開始は夕方らしい。
 基本的に土日は両日ともに試合があるのだが、昨日試合をしたのに今朝も走りに行って、さらにその後に試合をするとは、私には想像を絶するほどにハードでストイックな生活を送っていると思う。
 トーストを胃に収め、アイスコーヒーを一気に飲み干す。そのままコップと皿をキッチンのシンクに置いてから自室に戻り、着替えをすることにした。
 部屋着から着替えをし、手持ちのパーティーバッグにご祝儀と招待状、財布に携帯、ハンカチを入れる。カメラバックには昨日のうちにフル充電にしておいたバッテリーとカメラが入っているし、カードも挿入済みだ。上着もギリギリ必要ない気候だし、ショールを肩に掛けていけば充分だろう。
 姿見の前で髪を巻き、アップスタイルにセットする。リップを塗り、ティッシュで抑えてからグロスを重ねる。リップ類はパーティーバッグに入れて、パールのネックレスと合わせたピアスを耳につけた。
 ここ数年は結婚式に招待される機会も多かったが、大体は千夜子と一緒だったので、今こうして一人で準備をしていることが不思議に感じる。
 そして今日は、そんな親友の結婚式。窓の外から漏れる光に目を細めながら、彼女の新しい門出の日が天候に恵まれてよかった、と心底思う。

「ほお、いいじゃねえか」

 パーティーバッグとカメラバッグを引っ掴んでリビングに出たら、ちょうどシャワーを終えたらしいみっちゃんとはちあった。
 肩からタオルを下げている彼は、親指と人差し指を自分の顎に添わせながら私を見つめ、うんうんと頷いている。以前もこうして品定めをするみたいに見られたことがあった。こういうのをデジャヴと呼ぶのだろう。

「上から下まで遠慮なく見られてるこのかんじ、思い出しますなあ」
「なにがだよ? ……っておい、おまえまだ根に持ってんのか!?」

 こっちはあれから名前がフロ入ってる時は脱衣所入らねーようにめちゃくちゃ気をつけてんだからな、と低い声で言ったみっちゃんに対して、ニヤリとわかりやすく挑発するような笑みを浮かべて見せる。すると、彼はチッと小さく舌打ちをしてから首から掛けたタオルでその頭をガシガシと乱暴に拭った。

「……で、時間平気なのか?」
「もうそろそろ出よっかなって思ってたところ」
「夜遅くなんなら気をつけろよな、飲み過ぎんなよ。あとは……そうだな、二次会出んならヘンな男に絡まれんじゃねーぞ」

 人差し指を立てながらひとつひとつ確認をするみたいに、まるで小さい子に言って聞かせているようなみっちゃんの表情は真剣そのもので。その言葉に「うん」と頷きながら、私はほんの少しだけむずむずするような不思議な感覚を覚えていた。
 なんだろう、これってまるで。

「……みっちゃん、おかあさんみたい」
「ちげーわ! 心配してやってんの! ったく、茶化しやがって……」

 みっちゃんは、存在感のある男らしくキリッとした眉を吊り上げながら憤慨している。わるい意味で言ったつもりじゃなかったんだけどなあ、と思いながら、その表情をじっと観察する。彼は恥ずかしくなったり照れたりすると、それを取り繕うように声を荒げ、唇をつんと尖らせるのだ。
 いつの間にか、みっちゃんとのルームシェアを始めて三ヶ月が経過している。
 彼は遠征で月の半分ほど家を空けるけれど、それでも一緒に暮らしていくうちに三井寿という男の生態については大まかに把握するに至っていた。
 みっちゃんは大袈裟でガサツだけど、ドがまとめて五つ付くぐらいに真面目人間だ。時にはこっちがドキッとさせられるほど真っ直ぐで直球なことを言ってきたりするけれど、それを自ら発したあと、我にかえって顔を真っ赤にしながら照れたりする。
 そんな風にわかりやすいところが憎めなくて、短い髪で隠せない耳が紅潮しているのを見つけるたび、かわいいなあとか思ってしまう私は、彼の持つ素直で純朴な魅力にあてられてしまっているのかもしれない。
 だから、先ほど彼の発した言葉を冗談めかしてからかいつつも、それが純粋な心配であることをちゃんと理解していた。

「そうだ、これ一応念のため。式場と二次会の場所書いといた」

 万が一今日中に帰って来れなかったり、携帯のバッテリーが切れて連絡が付かなくなってしまったり、そんなことが起きないとも限らない。
 メモを手渡すと、それを受け取ったみっちゃんはその上にまじまじと視線を走らせた。

「なんだ、式場も二次会も駅前なのか。近くてよかったな」
「うん、みっちゃんも試合がんばってね」
「おうよ、気ィつけて楽しんでこい」
「はーい、いってきます!」

 ヒラヒラと手を振るみっちゃんに見送られながら玄関に向かう。
 滅多に履かないヒールパンプスのアンクルストラップを留めて「よし!」と気合を入れながら立ち上がる。玄関のドアを開けたら、心地よい秋の風が優しく頬を撫でた。


  ◇


「千夜子さんとの出会いは私たちにも記憶がないほど昔で、物心もつく前になります」

 挙式を終え、始まった披露宴の席でいよいよやってきた友人代表スピーチ。私は元々あまり緊張などしないタイプで、なんならこういう場で人の前に立って話をするよりも、初めてみっちゃんの試合を観に行った時の方が緊張していた気がする。
 同じマンションで育ち、同じ保育園に通い、同じ小学校と中学校、高校を経て違う大学に進学したけれどルームシェアをしていたこと。
 自分で綴った文字を読み進めながら千夜子とダイちゃんの方へ視線をやると、うっかり感極まってしまいそうになるので堪えるのが大変だった。

「ちなみに、私は高校に入ってすぐ新郎と友人になり、幼なじみ兼親友である新婦を紹介したのがお二人の始まりになります。自ら申告させていただきますが、キューピッドであることを自負しております」

 そんな言葉で会場に笑いが起きて、そこで少しだけほっとする。
 大好きなふたりの晴れの日に、こうして挨拶を任されたことを改めて光栄に感じながら、すう、と静かに息を吸い込む。

「千夜子さんは溌剌としていて快活で、明るくて行動力のある方です。そんな彼女と、おっとりとしていておおらかな新郎の組み合わせはこれ以上ないほどにぴったりであると、私は胸を張って言い切ることができます。ダイちゃん、千夜子のことぜったいしあわせにしてあげてね! 千夜子はダイちゃんに厳しくしすぎちゃだめだよ!」

 おふたりの末永いお幸せを心より願い、私のスピーチとさせていただきます、と締めれば、パチパチと沸いた拍手に胸の奥がすう、と軽くなる。
 どうやら、私は自分で感じていたよりも緊張していたようだ。頭を下げてマイクから離れ自席に戻ると、肩の荷が降りたような解放感と同時に達成感を感じた。
 そんなこんなであっという間に披露宴は終了し、会場を離れる時に千夜子から「あんたのルームシェア相手のこと、このあとたっぷり聞かせてもらうからね」と耳打ちをされた。それに対して「うへえ……」と漏らしながら苦笑いをすれば、彼女はニヤニヤしながらこちらを肘で小突いてきた。
 挙式が終わって、二次会までの間は同級生たちと近場のカフェでおしゃべりしながら時間を潰すことにした。
 それから始まった二次会はまるで同窓会のようで、披露宴ではほんの一瞬しか会話ができなかった友人たちが新郎新婦の元に押し寄せている。
 私はいつでもこの夫婦とゆっくり会話できるし、と少し離れた席でお酒と軽食を口にする。正直、披露宴の料理でおなかは膨れていたのだが、周りの友人がオードブルを取ってきてくれたので少しだけ箸をつけることにしたのだ。
 ビンゴやじゃんけんゲームなどで盛り上がり、三時間という二次会は久々に会う友人たちと会話をしているうちに流れるように終了していた。
 会場を出る前、千夜子に「あんまり喋れなくてごめんね」と申し訳なさそうに謝られたけれど「いつでも会える私じゃなくて普段会えない人とおしゃべりするのが正解だよ」と続ければ、彼女は「いい子に育って……」とまるで母親のようなセリフをこぼした。そういえば、今朝も違う人間にお母さんムーブをされたんだった。
 既に気持ちが三次会へ向かっている同級生にこのあとはどうするのかと声を掛けられたが、滅多にしない早起きと任されていた友人代表スピーチ、そして慣れないヒールによって体力の限界を感じていた私は、それを断ることにした。千夜子とはいつだって会えるし、結婚式が終わって落ち着いたら新居に顔を出す約束だって取り付けている。

「苗字さん……だよね? さっき新婦さんの友人代表スピーチしてた」

 はい? と声のした方を振り向けば、いつの間にか顔見知りではない男性が右隣に立っていることに気づく。知り合いではないということは、ダイちゃんの友人か、どちらかの会社の招待客だろう。

「あ、はい。ええと……お聞き苦しかったですよね、失礼しました」
「違う違う! そういう意味じゃなくて! その……遠山さんとは幼馴染なんだよね?」

 遠山というのは千夜子の旧姓である。はい、と頷けば、彼は「オレは新郎の中学の時からの友達で」と続けた。やっぱりな、と思いながら頷き、続く言葉を待つ。私は、この時点で彼が何故話しかけてきたのかを察していた。

「えーと……包み隠さず言っちゃうと、苗字さんがすんごい好みのタイプっていうか、かわいいなーって思ってて」

 ホントは二次会の席で話しかけようと思ってたんだ、と続けた彼は、後頭部に手をあてながら視線を泳がせている。

「あ、ごめん! こういう場でそういうこと言ったら警戒するよね! ……けど、もう会う機会ないかもだし、逃したくないっていうか」

 だから、という言葉の続きを予想することは容易かったが、じんと熱を帯びた私の足の裏はもう限界に近かった。普段はぺたんこの歩きやすいパンプスやスニーカーで過ごしているせいか、履き慣れない踵の高いパンプスで一日を過ごした弊害が思いきり出ている。
 ついでに言えば気張ってバチバチにカメラを構えてしまったこと、更に久々の大人数によるどんちゃん騒ぎで精神的にも肉体的にも疲弊の極みに達している。この状態でこれ以上をお酒をいれようものならば、べろんべろんになってしまうのは想像に難くなかった。

「このあと、二人で飲んだり出来ないかな?」

 めちゃくちゃストレートに来たな、と思いながらも、それに対する返事はもうとっくに決まっていた。私の中に少しでもそういう気持ちがあったなら、そして今後に繋げていく心の余裕があったら「まあいっか」とついていっていたかもしれない。けれど、今の私にそんなものはこれっぽっちも残っていないわけで。

「すみません、今日はちょっと……」

 そう伝えた瞬間、目の前にいる彼が「じゃあ連絡先だけでも」と間髪容れずに続ける。
 先ほどは心の余裕があればあるいは、なんて思ったけれど、連絡先の交換すら億劫に感じている。つまるところ、疲れていようがいまいが、私は今だれかとそういう関係になるかもしれない道を結ぶのが面倒で、そして必要ではないと思っているのだ。
 こちらをじっと見つめている彼の視線から、それが軽率なナンパみたいな類のものではないことがわかる。だからこそ、誠実なその気持ちを断る理由をどう繕ったらいいものか、悩んで言葉を紡げなくなってしまったのだ。

「名前!」

 突然自分の名前を呼ばれ、はっとしながら顔を上げる。その声が聞き慣れたものになったのは、一体いつからだったのだろう。
 この場所で聞こえる筈のない彼の声にひどくほっとしてしまったことに驚いていると、二の腕のあたりをガシッと掴まれた。

「みっちゃん!? え、なんで……!?」

 私の腕を掴んでいるのは、三井寿その人に違いなかった。
 頭ひとつ分以上高い位置にある彼の顔と、掴まれている腕とを交互に見やり、なんとかこの状況を把握しようと努力をする。ドキン、と胸が大きく鳴った理由については、今は気づかないふりを通させてほしい。

「えっと……そちら、彼氏さん?」
「あ! いやそうじゃなくて! この人はえーと……なんていうか」
「そんなようなモンです。つーかおまえ、ふらふらじゃねえか」

 ダイちゃんの友人であるその人に、事実ではない返事をしたみっちゃんは「おい、帰んぞ」と言って促すように顎をしゃくらせた。
 いつの間にか、そんな私たち三人に周りの視線が集まってしまっていることに気づく。
 突然現れた招待客ではない高身長の男、そりゃあ注目を浴びるに決まっている。っていうか、周りにはちょっとした修羅場みたいに見えているに違いない。
 どうしよう、と焦る私の耳に「あれ、なんかあの人見たことあるような……」という声が届いてハッとする。そう、私の腕を引っ掴んでいるルームメイトは、隣町をホームタウンとしているプロバスケットチームの選手なのだ。

「……で? おまえの幼なじみってのは?」
「へ? あ、千夜子はあそこに……」

 みっちゃんと私を交互に見ながら硬直している彼を置き去りにし、私の腕を掴んだまま歩き出したみっちゃんは、千夜子の方へずんずんと歩いていく。
 そして、あからさまに驚いた顔をしている千夜子の前にたどり着いたみっちゃんは、その勢いのまま深々と頭を下げた。

「ご挨拶が遅れました、三井寿といいます。こいつ……じゃねえ、名前さんのこと、そちらに心配かけるようなことはしないんで安心してください」
「えっ、あ……ハイ」
「つーわけで今後ともよろしく。あと、ご結婚おめでとうございます」
「うん、あの、ありがとう……」

 みっちゃんから視線を外せなくなっているであろう千夜子の、あんなにびっくりしている表情を見たのは初めてだったかもしれない。そんな彼女の様子に構う素振りも見せず、その隣にいたダイちゃんに向き直ったみっちゃんは「で、あんたが旦那だな?」と、今度はダイちゃんに話しかける。

「嫁のこと、大事にしろよ!」

 そう言ってダイちゃんの胸にトン、と拳を当てたみっちゃんは「じゃ、失礼しました」ともう一度ふたりに軽く頭を下げ、私のカメラバックを引ったくって自分の肩に下げた。
 それにつられるようにぺこりと頭を下げ、千夜子に「ごめん、また連絡するね!」と言えば、彼女はニヤリと笑んでウインクをしてみせた。どこか楽しそうな彼女に苦笑を返してその場に背を向ければ、興味に満ち満ちたいくつもの視線が背中に刺さっているのを痛いほどに感じた。
 この男は、なんでこうも目立つ登場と行動をしてくれちゃったんだろう!
 横を歩くルームメイトの悔しいほどに男前な横顔を見上げながら、掴まれていない方の手で己の顔を覆う。恥ずかしくてたまらないのに、それよりも疲弊しきって満身創痍だった私をあの場から引き剥がしてくれたことに対する感謝の方が大きかった。

「えっと、ありがとね。いろいろ限界だったから助かった」
「ん、なら良かった。つーか足、つれーんだろ? おぶってやろうか?」
「それは遠慮します、試合後のプロ選手にそんなことさせられないし。っていうかカメラバッグ持たせちゃっててごめん」
「ナメんなよ、こちとらもう一試合あっても余裕な体力余ってるわ」

 みっちゃんが私の腕を掴みながら支えるように歩いていてくれたことも、歩幅と歩調を合わせてくれていることもわかっていた。
 普段はめちゃくちゃアウトなことを言ったりしたりするくせに、時々こんな感じでポイント稼いでくるのズルいよなあ、なんて思っている私の疲労困憊した体に、彼の不器用な気遣いが容赦無く優しく沁み入ってくる。

「あの……でも、なんで?」
「いや、高校ン時の部活のマネージャーがな、結婚式の二次会に出たらヘンなヤツに付き纏われてしんどかったって、いつかの飲み会で話してたの思い出してよ」

 帰り道すがら通りがかっただけだし気にすんな、とみっちゃんは続ける。
 この男は大雑把でガサツだけど、心配性で世話焼きで、混じり気なしに優しいのだということを、私はもう既に知っている。なぜならば、二次会の会場は家とは真逆の位置にあり、つまるところ「帰り道すがら」ではなかったのだから。
 腕を掴まれたあの瞬間、ドキンと胸が鳴ってしまったことを思い出し、急に顔が熱くなってきた。みっちゃんは、間違いなく私を心配して迎えに来てくれたのだ。
 真っ直ぐに前を向いたままこちらに視線を寄越さないところを見ると、みっちゃん自身もあの場で突っ込んでいってしまったことを今更気恥ずかしく感じているのかもしれない。
 ふふ、と堪えきれなかった笑いを漏らせば「んだよ、なんで笑ってんだ」という低い声が頭上から降りてきた。

「ううん。あ、その……平気なの? あんな風に言っちゃってたけど、変な風に思われたら困るでしょ?」
「正直にルームシェアしてます、って言やいい話だろ。ウソじゃねえし」
「そうだけど、みっちゃんはプロの選手なわけだし」
「オレの顔わかるヤツなんてガチでバスケ見てるヤツぐらいだわ、気にすんな」

 そのガチでバスケ見てるヤツってのがあの中に居たかもしれないんですけどね、という言葉は、この状況において押し問答が続いてしまうだけなのを見越し、ぐっと飲み込むことにした。
 隣を歩く当人にはその意識がないのかもしれないが、彼は所属しているチームにおいて、おそらくビジュアル面でも推されているであろうことをうっすらと理解していた。それをなんとなくわかっていたから、余計に申し訳なく感じているわけで。

「ひとつ言っとくけどよ、彼氏作って連れ込むのはオレが遠征でいねーときにしろよな」

 は? と首を傾げてみっちゃんの方を見上げると、彼は「ルームメイトのそういう声聞くのはキツいからな」と口の端を持ち上げながら続けた。
 え、つまりそれって、とその言葉の意味に気がついた瞬間、先ほどとは違う理由で顔がカッと熱を持つ。みっちゃんのことちょっといいじゃんって思っちゃったのも、少しだけドキドキしちゃったのも、全部ぜーんぶまるごと撤回させてください!

「最っ低! 下品すぎ!」

 ていうか彼氏作るつもりも予定もないし! と体に残った僅かな力を全て込め、その広い背中をバシン! と叩く。しかし、そんな攻撃がみっちゃんに効いた様子はない。彼は「おっ? なんだよ、元気余ってんじゃねえか」と大口を開けながらワハハ、と屈託なく笑った。



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